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rrbのブログ - 2009/11のエントリ

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今京都 もみうり 2009/11/29 12:00 am

みうり
瓜を薄く切り塩で揉み、酢をかけたもの。「今晩のおかずにモミウリつくっといてんか」 東京でウリモミ、大阪ではザクザクともいう。胡瓜は黄・瓜の意から。マッカは真桑ウリ。もと美濃の真桑村産に基づく。京都御所では瓜をオウリといい、白瓜はシロオウリ、西瓜はアカキオウリ、干し瓜はホリホリとも言った。味噌漬けの白瓜はコオノウリ。瓜をナリノモノ、ナリモノと記された女房ことばの文献がある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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蔵物語(285)




 

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今京都 ぼん 2009/11/28 12:00 am


坊や。「おうちのボンよう走らはるな」 ボンボンとも。「坊」からボンになった。目上から目下にいう愛称。老舗では、大人になってもボンと呼び続けることがあった。兄弟が多いと、アニボン、ナカボン、コボンと区別した。コボンチャンとチャンをつけると敬称。弟が兄を呼ぶのにもオッキニー(長兄)、チューニー(仲兄)、チッコニー・チッコニャン(小さい兄さん)のように呼んだ。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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石神社(おおいしじんじゃ)/忠臣蔵 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月17日掲載)





花山稲荷神社より南西方向に足を伸ばしたところに大石神社がある。





赤穂浪士の大石良雄(おおいしよしお)を祀る。大石良雄は赤穂城明け渡しの後、妹の夫の進藤源四郎の縁故でこの地に隠棲。1935(昭和10)年浪曲家吉田大和之丞らが創建した。大石良雄は通称内蔵助。いわずとしれた赤穂四十七士の首領。1701(元禄14)年4月、脇坂安照らに赤穂城を明け渡し、6月にこの山科へ移る。諸方の同志と連絡をとりつつ浅野家再興の工作、再興ならずば吉良への復讐と二者択一に時を送る。





翌1702(元禄15)年2月15日に山科、7月26日に京の円山、重阿弥の別荘に同志を集め、吉良への復讐を決定。10月7日江戸へ出発。12月15日未明、吉良を討った。翌1703(元禄16)年2月4日、江戸の細川邸で切腹。高輪の泉岳寺に葬る。





ここ大石神社には「忠臣蔵宝物殿」があり、中は忠臣蔵に関するものが展示されている。仇討ちとか切腹とか物騒なお話だが、境内には長閑な時間が流れていた。この静けさの中で赤穂四十七士への思いはさらに深まる…今京都。


 

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今京都 はすかい 2009/11/26 12:00 am

すかい
斜め。「この折紙、次にハスカイに折るのや」 もとは柱と柱の間に入れた細い板。ハスは端隅の略。ハスとスジカイの複合による。筋交は斜めに交わったさま。対角線のこともいう。本を読むのにハスカイに目をやって速読する人がいる。大阪ではハスともいうが、京都ではハスカイを用い、「ハスカイに切る」という。「ご機嫌ななめ」というが、「ご機嫌ハスカイ」とは言わない。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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山稲荷神社/忠臣蔵 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月15日掲載)

♪ 勅使下向の春弥生
いかに果たさん 勤めなん
身は饗応(きょうおう)の 大役ぞ
頼むは吉良と 思えども
彼(か)の振舞の 心なき ♪



「刃傷松の廊下」 作詞は藤間哲郎、作曲は桜田誠一、唄は真山一郎…小さい頃、酔った祖父たちが口にしていたのをかすかに覚えている。「刃傷松の廊下」 といえば忠臣蔵。江戸時代中期、主君のあだ討ちで知られる元禄赤穂事件。京都市山科区にある西野山一帯には義挙を主導した大石内蔵助良雄にまつわる伝承が多く残る。その中でも花山稲荷神社(かざんいなりじんじゃ)にある「内蔵助の断食石」は、内蔵助が腰を掛け寝食を忘れるほどに討ち入りの秘策を練ったといわれる。



拝殿の前にあり、畳一畳分ほどの大きさで高さが約50cm。傍らには「大石良雄公遺跡」と刻まれた石碑が建ち、忠臣蔵のファンや観光客が訪れ見入るという。播州赤穂藩主だった浅野内匠頭長矩が江戸城松の廊下で刃傷に及び切腹したのは1701(元禄14)年3月14日。花山稲荷神社から南に約1km、内蔵助とゆかりの深い大石神社の神社由緒書によると、赤穂藩が改易(領地没収)となり、城代家老の内蔵助が城を明け渡した後の同年6月28日、親類の進藤源四郎を頼り、現在は同神社があるこの地に移ったという。人里から離れていたが、東海道や京都に近く交通の便がよかったことから、ここで頻繁に同志と会合を開いたとされる。山科に隠れ住んでいたころの内蔵助は、しばしば花山稲荷神社を参拝していたという。



♪ 花の命を さながらに
赤穂三代 五十年
浅野の家も これまでか
君君たらずとも 臣は臣
許せよ吾を この無念 ♪



同神社によると、1699(元禄12)年に源四郎が社殿を寄進した記録が残る。親類と縁の深い神社なのだから、内蔵助が足を運んだのは確かだとの推測もある。神社へ足しげく詣でた内蔵助。「内蔵助の断食石」を前にすると、岩に座して主君の敵をいかに討つかを考え抜いた姿が目に浮かぶ。この「内蔵助の断食石」の出自には、明治になってこの辺りを開拓したとき、大きな岩を爆破し、当時の宮司がその中で一番大きな破片を境内に置いたのが「内蔵助の断食石」という異説もある。その他に花山稲荷神社には、内蔵助が血判状を書くときの台にしたという「血判石」や、内蔵助が奉納したとされる鳥居もあるという。





血判石は、本殿を囲む塀の中にひっそりとたたずみ、鳥居は本殿の裏に保管されている。残念ながらこの日は対面することができなかった。いずれも本当に内蔵助とゆかりがあるのかどうかは分かっていないということだが…。それでも、内蔵助を慕う参拝客が伝承の品を眺め、山科に隠せいしていたころの内蔵助をしのんでいるには違いない。近くには大石神社や岩屋寺、山科神社など内蔵助とゆかりの深いスポットが多い。この石の上で寝食を忘れ秘策を練っていたという姿を想像し、気持ちは大石神社に向いている自分がいた…今京都。


 

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今京都 べんちゃら 2009/11/24 12:00 am

んちゃら
お世辞。口先だけでうまく言い、誠実でないこと。「あいつはベンチャラ使うので、信用ならんわ」「オベンチャラ言うてんのか」とオを付けると、相手にいくらか親愛感をもつ。ベンは弁の意味で、弁舌巧みなチャラということ。チャラは擬態語で、デタラメ、冗談の意。うそだったことにするから、帳消しの意味になった。「こんだけ返すさかいチャラにしといてんか」と。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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塚/浄禅寺・恋塚寺 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月9日掲載)
浄瑠璃「鳥羽恋塚物語」(近松門左衛門)、小説「袈裟と盛遠」(芥川龍之介)、映画「地獄門」(黒澤明)などでも取り上げられたことがある袈裟御前(けさごぜん)の物語。袈裟の骨を納めた「恋塚」が、京都市南部の鴨川をはさむ上鳥羽と下鳥羽にある二つのお寺に伝えられている。





お寺は、それぞれ国道1号の西の旧道に面している。歴史愛好家や物語を演じる役者、小説などで袈裟御前を知った観光客たちが訪れ「恋塚」の前で静かに手をあわせるという。



上鳥羽の恋塚は「六地蔵めぐり」の鳥羽地蔵で知られる浄禅寺にある。通りに面して、袈裟にちなむ「激揚貞風」の大きな石碑が立つ。その奥で、五輪塔と風雨をさけるためにガラスケースに入れられた石碑が木々に囲まれている。浄禅寺は寺伝より1182(寿永元)年に文覚が開いたとされる。冥土から帰った小野篁が刻んだという6体の地蔵の1体が地蔵堂に納められている。



下鳥羽の「恋塚」は恋塚寺にある。このお寺は「1144(天養元)年に文覚が開いた」と縁起石碑に記されている。かやぶきの山門を入ると正面に本堂があり、そこには文覚、袈裟、渡の木像が置かれていると聞く。境内には「恋塚」や石碑があり、今でも「袈裟御前の心」を伝えている。平安時代末期、母への「孝」と夫への「義」、それぞれを貫くため己の命を犠牲にした女性、袈裟御前(けさごぜん)の物語は、「源平盛衰記」(鎌倉時代)など、時を超えて人々の心を引きつけてきた。鳥羽の若い武士・遠藤盛遠は、渡辺渡の妻袈裟に横恋慕し、袈裟の母衣川に袈裟との密会を求める。袈裟は母も夫も裏切ることはできず、「濡れた髪を探って殺したまえ」と盛遠を騙して夜討ちに招き入れ、自らが濡れた髪で首をはねられる。盛遠は自らの罪業を悔い、出家して文覚となって全国を回る。神護寺の再興に奔走し、伊豆で出会った頼朝に挙兵をうながす。



袈裟御前の物語は古くから庶民に親しまれていて、江戸時代から寺を訪れる人も多く、絵地図にも記されている。明治の文人たちは袈裟を『貞女の鑑(かがみ)』として寺で句会や歌会もしたという。下鳥羽の恋塚寺の「恋塚」の塔は、文覚が眠る高雄を向いているという。鳥羽伏見の戦(1868年)で焼失した寺を再建する際、地域の人々が北西に向けたということだ。



「こいづかさん」と呼ばれるほど、地域の人たちから塚は大切にされている。袈裟が身をもって示した決して変えてはいけない心。文覚の生涯からわかる「やり直す」ことの大切さ。それぞれの生き方に時代を超えて訴えるものがあるように感じた…今京都。


 

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今京都 わりかし 2009/11/22 12:00 am

りかし
わりに。わりあいに。「ワリカシましな品物どすな」 カシは「さぞかし」のカシのように念を押すときの助詞。平安時代には「笑はれ給ひけむかし」のように用いた。カシは、詠嘆の助詞カと強調の助詞シとの複合形。比較的、思いのほかの意味で用い、「昨日よりもワリカシぬくおす(暖かいです)な」と言う。ワリニのくだけた言い方で、ワリトとも。「ワリトよう勉強できるのや」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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