rrbのブログ - 2009/11/21のエントリ
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今京都 であいもん 2009/11/21 12:00 am
であいもん
取り合わせの良い食品。「サンショウ(山椒)と昆布はデアイモンや」 タケノコとワカメのように釣り合いの取れたもの。デアイモンはそれぞれの食品の味が引き立ち、栄養のバランスも取れている。ニシンにはナス、コロには水菜がよく合う。コロは、クジラの脂身の油をしぼったかすを干したもの。イリガラとも。水菜と煮て食べるハリハリ鍋は夜寒(よざむ)にはうってつけだ。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
俊成社 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月8日掲載)
烏丸通松原の角にわずか2m四方ほどの敷地に、高さ1mほどの木の祠が鎮座する。平安時代末期の歌人、藤原俊成をまつる俊成社(しゅんぜいしゃ)だ。8階建てビルのすぐ北側にあり、真夏でも日陰で涼風が吹き抜ける。近くの人は「俊成(しゅんぜい)さん」と呼び親しんでいる。
藤原俊成は、勅撰集の千載和歌集の選者として知られる。邸宅が五条通(現在の松原通)にあったことから「五条三位」と呼ばれた。一帯には今も町名に俊成の名が残り、ゆかりの神社が建つなど平安歌人とのかかわりが深い。
平家物語には、西国へ都落ちする薩摩守忠度(ただのり)が和歌の師として仰いでいた五条の俊成邸を訪れるくだりがある。一度は京を出発した忠度一行がとって返し、「勅撰集に一首でも入れてくだされば、遠いあの世からお守りします」と、百余りの自作の和歌を鎧のすき間から取り出して俊成に託すというもの。
忠度は平清盛の末弟。とがめを受けた身だった。俊成はあえて読み人知らずとし、「さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山ざくらかな」を選び入れた。俊成はまた、祭神が和歌の神という紀伊国・玉津島明神を邸内に勧請した。これが俊成社近くにある新玉津島神社の起源とされる。
俊成邸の場所は諸説あるものの、現在の烏丸通松原一帯にあったといわれる。俊成社は後世の人により、俊成邸跡のしるしとして、民家の裏庭に建てられた。烏丸通松原から東の一帯は江戸後期に、名前も俊成町と改められた。当時の因幡堂前町の人々が奉行所へ願い出て認められたのだ。これを喜ぶ当時の書面が今でも保存されているという。太平洋戦争中に、疎開で住人が激減したため、俊成町は、同じ事情の南隣の吉成町と合併し、吉成俊成町となった。
平家物語をもとに後年、謡曲「俊成忠度」が誕生し、現在も能の演目となっている。俊成の息子は、小倉百人一首を編さんした藤原定家。俊成と定家の子孫が歌道の宗家、冷泉家で、和歌の伝統を現代に受け継ぐ。俊成社は俊成町の数軒の人々が輪番で掃除し、現代にしっかり守り伝えてられている…今京都。
取り合わせの良い食品。「サンショウ(山椒)と昆布はデアイモンや」 タケノコとワカメのように釣り合いの取れたもの。デアイモンはそれぞれの食品の味が引き立ち、栄養のバランスも取れている。ニシンにはナス、コロには水菜がよく合う。コロは、クジラの脂身の油をしぼったかすを干したもの。イリガラとも。水菜と煮て食べるハリハリ鍋は夜寒(よざむ)にはうってつけだ。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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俊成社 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月8日掲載)
烏丸通松原の角にわずか2m四方ほどの敷地に、高さ1mほどの木の祠が鎮座する。平安時代末期の歌人、藤原俊成をまつる俊成社(しゅんぜいしゃ)だ。8階建てビルのすぐ北側にあり、真夏でも日陰で涼風が吹き抜ける。近くの人は「俊成(しゅんぜい)さん」と呼び親しんでいる。
藤原俊成は、勅撰集の千載和歌集の選者として知られる。邸宅が五条通(現在の松原通)にあったことから「五条三位」と呼ばれた。一帯には今も町名に俊成の名が残り、ゆかりの神社が建つなど平安歌人とのかかわりが深い。
平家物語には、西国へ都落ちする薩摩守忠度(ただのり)が和歌の師として仰いでいた五条の俊成邸を訪れるくだりがある。一度は京を出発した忠度一行がとって返し、「勅撰集に一首でも入れてくだされば、遠いあの世からお守りします」と、百余りの自作の和歌を鎧のすき間から取り出して俊成に託すというもの。
忠度は平清盛の末弟。とがめを受けた身だった。俊成はあえて読み人知らずとし、「さざなみや 志賀の都は あれにしを むかしながらの 山ざくらかな」を選び入れた。俊成はまた、祭神が和歌の神という紀伊国・玉津島明神を邸内に勧請した。これが俊成社近くにある新玉津島神社の起源とされる。
俊成邸の場所は諸説あるものの、現在の烏丸通松原一帯にあったといわれる。俊成社は後世の人により、俊成邸跡のしるしとして、民家の裏庭に建てられた。烏丸通松原から東の一帯は江戸後期に、名前も俊成町と改められた。当時の因幡堂前町の人々が奉行所へ願い出て認められたのだ。これを喜ぶ当時の書面が今でも保存されているという。太平洋戦争中に、疎開で住人が激減したため、俊成町は、同じ事情の南隣の吉成町と合併し、吉成俊成町となった。
平家物語をもとに後年、謡曲「俊成忠度」が誕生し、現在も能の演目となっている。俊成の息子は、小倉百人一首を編さんした藤原定家。俊成と定家の子孫が歌道の宗家、冷泉家で、和歌の伝統を現代に受け継ぐ。俊成社は俊成町の数軒の人々が輪番で掃除し、現代にしっかり守り伝えてられている…今京都。