rrbのブログ - 2009/11/17のエントリ
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今京都 やつし 2009/11/17 12:00 am
やつし
おめかしをする人。「ええ着物着てヤツシやな」 ヤツスという動詞から。ヤツスはめかす、おしゃれをする、化粧する。「そないにヤツシテ誰に会いにいくのや」 ヤツレルと同じ語源。もとは姿をみすぼらしく変えることだった。目立たないように変装することが、歌舞伎で美しく化粧するの意味になり一般に広まった。メカシとも。「めかす」からで、もとは「色めかす」のメカスのように接尾辞に基づく。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
室町六角の鯉山 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月2日掲載)
呉服問屋が並ぶ京都市中京区の室町通。六角通〜蛸薬師通に挟まれた鯉山町は、名工の左甚五郎が彫刻を手がけた祇園祭の鯉山で知られる。鯉山の由来は中国の故事「登竜門」にちなむ。「黄河の激流でコイが滝を上り、竜になった」との伝えから、出世開運を願っているという。だが、他にも地元住民が好んで口にする昔話がある。その昔話とは…。
昔、室町六角に正直な男と曲がったことが大嫌いな大家がいた。ある日、大家が用事で大津へ行っての帰り、小判三枚を懐に琵琶湖の渡し船に乗ったが、過って小判を湖に落としてしまう。京に戻った大家は一部始終を正直者の男に打ち明ける。数日後、大津から川魚屋がやって来て、男はコイを買い求め、包丁を入れると、なんと腹から小判三枚が出てきた。男はすぐに大家の元へ。しかし、大家は「小判はコイを買うた者のものや」と受け取らない。男も「落とした小判に違いない」と譲らない。困り果てた二人がお役人に相談すると、お役人は「その小判でコイを彫ってもらい、祇園祭の山にしたら」と提案。二人は喜び、近くに住む左甚五郎に依頼。左甚五郎が見事なコイをこしらえたという。
20年ほど前から和装の不振などで鯉山町の人口は急減。子どもの姿は消え、この昔話が語られることもなくなった。しかし、今から10年程前に状況が変わる。大型マンションが完成し、人口増加とともに再び子どもの笑い声が町内に響き始めたのである。
町の人々は祇園祭や地蔵盆で子どもたちにこの昔話を語り聞かせる。鯉山にまつわる物語に、小さな瞳は輝き、親たちも「町内にそんな昔話があるなんて」と驚いているという。そんな家族たちが今では新しい町衆として祇園祭の担い手になり、春には町内で祇園祭の縁起物「茅(ち)の輪」作りが始まる。「人の絆の深さも鯉山も町内の誇り。両方を伝える昔話を途絶えることなく将来に語り継ぎたい」と新旧の町内人は口にする。この町はかつて「常楽寺一丁目」と呼ばれていたが、毎年祇園祭で鯉山を出す町として定着し、16世紀末期に正式に鯉山町となった。
鯉山を飾るタペストリーは「トロイ戦争」をモチーフにしたベルギー産で重要文化財に指定されているという。大型マンションが次々に建築されていく京都。「景観が変わる」と悲鳴に近い反対の声も多いが、その大型マンションに移り住む人々が町内の昔話を救ったというお話。この現象には言い表せない複雑なものがあるが、新旧の町内人が仲良く昔話を語り継いでいくことを強く願いたい…今京都。
おめかしをする人。「ええ着物着てヤツシやな」 ヤツスという動詞から。ヤツスはめかす、おしゃれをする、化粧する。「そないにヤツシテ誰に会いにいくのや」 ヤツレルと同じ語源。もとは姿をみすぼらしく変えることだった。目立たないように変装することが、歌舞伎で美しく化粧するの意味になり一般に広まった。メカシとも。「めかす」からで、もとは「色めかす」のメカスのように接尾辞に基づく。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
室町六角の鯉山 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月2日掲載)
呉服問屋が並ぶ京都市中京区の室町通。六角通〜蛸薬師通に挟まれた鯉山町は、名工の左甚五郎が彫刻を手がけた祇園祭の鯉山で知られる。鯉山の由来は中国の故事「登竜門」にちなむ。「黄河の激流でコイが滝を上り、竜になった」との伝えから、出世開運を願っているという。だが、他にも地元住民が好んで口にする昔話がある。その昔話とは…。
昔、室町六角に正直な男と曲がったことが大嫌いな大家がいた。ある日、大家が用事で大津へ行っての帰り、小判三枚を懐に琵琶湖の渡し船に乗ったが、過って小判を湖に落としてしまう。京に戻った大家は一部始終を正直者の男に打ち明ける。数日後、大津から川魚屋がやって来て、男はコイを買い求め、包丁を入れると、なんと腹から小判三枚が出てきた。男はすぐに大家の元へ。しかし、大家は「小判はコイを買うた者のものや」と受け取らない。男も「落とした小判に違いない」と譲らない。困り果てた二人がお役人に相談すると、お役人は「その小判でコイを彫ってもらい、祇園祭の山にしたら」と提案。二人は喜び、近くに住む左甚五郎に依頼。左甚五郎が見事なコイをこしらえたという。
20年ほど前から和装の不振などで鯉山町の人口は急減。子どもの姿は消え、この昔話が語られることもなくなった。しかし、今から10年程前に状況が変わる。大型マンションが完成し、人口増加とともに再び子どもの笑い声が町内に響き始めたのである。
町の人々は祇園祭や地蔵盆で子どもたちにこの昔話を語り聞かせる。鯉山にまつわる物語に、小さな瞳は輝き、親たちも「町内にそんな昔話があるなんて」と驚いているという。そんな家族たちが今では新しい町衆として祇園祭の担い手になり、春には町内で祇園祭の縁起物「茅(ち)の輪」作りが始まる。「人の絆の深さも鯉山も町内の誇り。両方を伝える昔話を途絶えることなく将来に語り継ぎたい」と新旧の町内人は口にする。この町はかつて「常楽寺一丁目」と呼ばれていたが、毎年祇園祭で鯉山を出す町として定着し、16世紀末期に正式に鯉山町となった。
鯉山を飾るタペストリーは「トロイ戦争」をモチーフにしたベルギー産で重要文化財に指定されているという。大型マンションが次々に建築されていく京都。「景観が変わる」と悲鳴に近い反対の声も多いが、その大型マンションに移り住む人々が町内の昔話を救ったというお話。この現象には言い表せない複雑なものがあるが、新旧の町内人が仲良く昔話を語り継いでいくことを強く願いたい…今京都。