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rrbのブログ - 2009/10のエントリ

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今京都 ようすする 2009/10/31 12:00 am

うすする
気取る。「あの娘さん、お客さんの前ではヨーススルのや」「様子」は「容姿、なりふり」の意味。「様子振る」とも。なまめきこびる色っぽいさまをいう。気取った格好をする人は「エエカッコシー」である。ヨーボクサイのヨーボは「容貌」で、「みためかたち」のことだが、特異な臭いがするの意味で用い、「病院へ行くとヨーボクサイ臭いがするやろ」という。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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佐稲荷 (旧フォトヴィレッジ 2007年10月12日掲載)
慶応3(1867)年11月15日夜、幕末の志士坂本龍馬は、盟友の中岡慎太郎とともに、隠れ家にしていた河原町通蛸薬師上ルの醤油商「近江屋」の2階で暗殺された。近江屋跡は現在、碑が立つのみだけれど、碑から蛸薬師通を東に進むと小さな稲荷がある。



夜は鳥居の堤灯が赤くともる。江戸時代には、現在の場所から数10m南の土佐藩邸の中にあり、土佐稲荷と名付けられた。それ以前は鴨川の中州にあったと伝えられていることから、「岬神社」とも呼ばれる。土佐藩邸内にあった稲荷は、地域の住人にも開放され、あつい信仰に守られていた。明治維新後、藩邸が売られ、小学校が建つとともに、稲荷は現在の場所に移された。稲荷を守っていた崇敬会も、いったん消滅していたが、15年ほど前に再興されたという。



稲荷が藩邸の中にあったことから、土佐出身の龍馬も訪れやすかったのだろう。龍馬が近江屋から先斗町へ遊びに行く際に稲荷へ立ち寄った」とか「土佐の志士たちとの密談場所にも使ったのではないか」という説もあるらしい。土佐稲荷には龍馬のブロンズ像がある。いたずらや雨風の影響で頭部は崩れ、腕も取れ、無惨な姿をさらしている。過去には「作り直すなら寄付を出す」という篤信家もいたが、売名行為に映ったら双方に良くないと判断して断ったという。



近所で暮らす方々は「稲荷は昔、子どもの遊び場だった。今は周辺にビルばかり建って子どもがいなくなった」と残念がっているという。約10m四方の中に鳥居と祠があるだけの小さな稲荷に詰まった幕末ロマンに気付かず、通り過ぎる観光客も多い。反面、「こんな小さなお稲荷さんが歴史上の人物と関係あるなんて京都らしい」と、京都の奥深さに驚き、祠の前で手を合わせる観光客もいるという。



土佐稲荷の祠に奉納している神輿は、祇園祭の後祭りの花笠巡行で子どもたちが担ぐ。鳥居の堤灯は毎夜灯がともされ八坂神社の宮司がこの稲荷の宮司を兼ねている。年に4回はこの稲荷で祭りが行われるというこの神社、龍馬の目にはどう映っていたのだろう…今京都。


 

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天を仰いで思うこと ののさん 2009/10/30 12:00 am

のさん
太陽。月。神様。仏様。太陽や月のように信仰の対象になるものを呼んだ。神仏に対して祈る人のことばを「ノーノー」と聞いた子どもたちが命名したと思われる。ノンノンサンとも。月や神仏にマンマンチャンともいう。拝む時、「マンマンチャン、あん」とアンを添える。太陽をニチリン(日輪)サン、オテント(天道)サンと崇め、雷もカミナリサンとサンをつける。京都府北部では雷はハタガメという。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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方山話(81)
時代祭に思うこと



千年以降の風俗を一列にして人に悟らしむるは、日本国中の祭式起こりて以来、未だその比を見ざるの盛観たり…5月の葵祭、7月の祇園祭に続き、京都三大祭の最後を飾るのが時代祭。今年も10月22日に行われた。時代祭が始まったのは、1895(明治28)年。平安遷都1100年を記念し、1895(明治28)年に創建された平安神宮の奉祝行事として、「ひと目で京都の歴史と文化がわかる行事を」とはじまった時代行列。室町幕府を開いた足利尊氏が朝廷の逆賊とみなされていたため、当初から除外されていた室町時代列が、2007(平成19)年から新たに参列し、より華やかな行列となった。



今風に言えば、都大路に華麗な時代絵巻を繰り広げ…ということになる。戦時の中断などがあったが、今年は105回目。隊列は、明治維新からはじまり、維新勤皇隊列の山国隊に扮した鼓笛隊の少年たちの先導により、幕末志士列、徳川城使上洛列、江戸時代婦人列、豊公参朝列、織田公上洛列、室町幕府執政列、室町洛中風俗列、楠公上洛列、中世婦人列、城南流鏑馬列、藤原公卿参朝列、平安時代婦人列、延暦武官行進列、延暦文官参朝列など、約2000人がそれぞれ時代考証された装束をまとい、調度品をもって行列する。午前9時からの神事ののち、隊列は正午に京都御所建礼門を出発、烏丸通、御池通、河原町通、三条通を経由して、約4.5kmを約3時間かけて練り歩き、平安神宮に到着する。時代を彩る2000人の行列に穏やかな秋の陽光がふりそそいだ。


これは時代祭ではなく、嵐山の斎宮行列からの一コマ

時代祭は市民による市民の祭り。市民組織の平安講社が運営し、子どもからお年寄りまで地域ぐるみで行列に加わる。少子化で童役の確保が悩みの種だが、今年は城南流鏑馬列(鎌倉時代)に4組の親子三代が登場し、にぎやかさが増したという。行列を先導する維新勤王隊列を担当する中京区朱雀地区でも小学生らに鼓笛を教えるなど後継者育成に乗り出している。そんな市民の熱い思いが時代祭を支えてきたのだろう。


これは時代祭ではなく、嵐山の斎宮行列からの一コマ

室町時代列が創設された一昨年のようなビッグニュースこそなかったものの、紀貫之の女(むすめ)の単衣(ひとえ)や小野小町の沓(くつ)など250点余りが新調されたという。坂本龍馬に西郷隆盛、豊臣秀吉に淀君、また紫式部に清少納言と、おなじみの歴史人物をみつけるのが楽しい祭り。時代祭は、東京遷都で芽生えた人々の危機感から誕生したともいわれる。時代状況は東京一極集中の今日にも通じる。見る人は気づかなくとも年々、祭りは生まれ変わる。京都の意地と誇りを託すこの祭り、やがて、しっかりと写真に納めたい…と、天を仰いで思うこと。


 

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今京都 ごめんやす 2009/10/29 12:00 am

めんやす
あいさつ言葉で「今日は」に当たる。ちょっとすみませんがという気持ちで「ゴメンヤス奥さんおいやすか」と尋ねる。御免は「許すこと」の意味。尊敬語から訪問のときのあいさつになった。ゴメンヤスと訪れた客に「オイデヤス・オコシヤス」という。人の家の前を通るとき、「おかど(門)をゴメンヤッシャ」という。ゴメンヤシトクレヤスは丁寧な言い方。「お茶をこぼしてゴメンヤッシャ」と謝る。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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輪寺/十三詣り (旧フォトヴィレッジ 2007年10月10日掲載)
以前に掲載した電電塔電電宮がある法輪寺。電電塔は山門を入ったすぐ右手に、電電宮は階段の途中の左手にあり、階段を上りきると本堂がある。





ここの本来の信仰は「十三詣り」にある。数え年で13歳になった男女が渡月橋のすぐそばの法輪寺を参拝する「十三詣り」。お参りした後、渡月橋を渡るまでに後ろを振り返ると、授かった知恵が逃げてしまう。桜が見ごろを迎える春の嵐山で、真っすぐに前を見つめたまま、大人に付き添われた男の子や女の子が桂川を渡りきる。江戸時代中期から庶民の間に広がったといわれる「十三詣り」の慣習は「振り向いてはいけない」という言い伝えと一緒に今もいきづく。



中学生になったばかり、あるいは中学に進学する前の子どもが、今でこそ本尊の虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)に学業成就を祈願する意味合いが強くなった「十三詣り」だが、元々は干支を一巡し、区切りを迎えて大人になるための儀式だったという。



江戸時代。13歳になった男の子は田植えや稲刈りで、家の手伝いではなく一家の働き手として、大人と同じ働きを求められた。丁稚奉公に出されることもあった。女の子だと母と同じように一人前の家事の担い手になった。



着物も大人が身に付ける仕様になり、京都の室町や大阪の船場の商人が自らの力を誇示するため、娘に着せる振り袖の豪華さを競ったという話も残るという。しかし、本人にとっては自立の覚悟を迫られる決意の場でもあったということ。



「振り向いてはいけない」という言い伝えは、「もう後戻りは許されない」という厳しさを象徴したものなのだろうか。お詣りごとは何か約束事のあった方が、ご利益があるように思える。渡月橋からは法輪寺の本堂や多宝塔の屋根が見えるので、振り返ると知恵がお寺に逃げ帰ってしまうと言われるようになったのかも知れない。



ともあれ「振り向いてはいけない」信仰は根強い。かつて法輪寺に詣るには渡月橋を必ず渡らないといけなかったが、今は道路や交通機関の発達でその必要ない。しかし『十三詣り』に来た人はほぼ渡月橋を渡るという。中には「振り向いてしまった」と親に連れられ、あわててお寺に戻ってくる子どももいるという。



法輪寺は713年、元明天皇の命により行基が建立し、800年頃、弘法大師の弟子の道昌が渡月橋を架け虚空蔵菩薩を安置したといわれる。現在、「十三詣り」は4月13日の前後1ヶ月間と10・11月を期間とされている。「振り返らず」ということは時には大人に必要な要素かも知れない…今京都。


 

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天を仰いで思うこと せこい 2009/10/28 12:00 am

こい
「あんなセコイことせんでもええのに」 ずるい。醜悪な。粗悪な。若者ことばとして広まった。セコイは役者・寄席芸人の用語セコから。セコは悪い、醜い意味。良いこと、得意芸はハコといった。「セコイ芸」のようにセコイは明治時代の芸能人が「下手な」の意味で用い、ハコを形容詞化した良い、美しいのハクイ(白い)の対義語であった。セコイには、けちくさい、みみっちいの意もあった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より

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を仰いで思うこと
にしんに思うこと



「にしん」といえば、石狩挽歌(北原ミレイ)がある。
♪ 海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると 赤い筒袖(つっぽ)の ヤン衆がさわぐ
雪に埋もれた番屋の隅で わたしゃ夜通し 飯を炊く
あれからニシンは どこへ行ったやら 破れた網は 問い刺し網か
今じゃ浜辺でオンボロロ オンボロロー
沖を通るは 笠戸丸 わたしゃ涙で にしん曇りの空を見る

燃えろ篝火 朝里の浜に 海は銀色 にしんの色よ
ソーラン節に 頬そめながら わたしゃ大漁の 網を曳く
あれからニシンは どこへ行ったやら オタモイ岬の ニシン御殿も
今じゃさびれてオンボロロ オンボロロー
かわらぬものは 古代文字 わたしゃ涙で 娘ざかりの夢を見る ♪

と、歌の話ではない。



「にしん」は別名「春告魚」。産卵期の春から初夏にかけてが脂が多く美味しい。塩焼き、フライ、マリネにするほか、身欠きニシンや燻製、コンブで巻いて煮締めた「こぶ巻き」などの加工品とされる。冷凍・冷蔵技術や輸送の発達していなかった時代、身欠きニシンは山間地では重要な食材であった。京都名物に、「にしん料理」があるのもこのような理由による。なお、名物として知られる「にしんそば」は明治時代に誕生したものであるが、それには古くから京都の庶民料理として親しまれていたおばんざい、鰊の昆布巻きに着想を得ている。食通で知られる北大路魯山人は、著書「魯山人味道」(平野雅章 編)で、「煮たもの焼いたものはさほどでも無いが、乾物を水でもどしたものを上手く料理すると美味しくなる」と言っている。卵を干したものや塩蔵品は数の子(かずのこ)と呼ばれる。
と、調べたのはいいが、「にしんそば」「数の子」以外の食べ方をしたことがないということに気づいた。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

「数の子」は卵であるから、それを除くと、「にしんそば」以外に「にしん」を食べた記憶がないのである。京都名物に「にしん料理」というがあるが、食べ記憶がない。一体どんな味? 一度は食べてみたい…と、天を仰いで思うこと。


 

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今京都 へたばる 2009/10/27 12:00 am

たばる
くたばる。疲れて倒れる。座り込む。尻をべったりとつけて座る。「マラソンの途中でヘタバッテしもて棄権や」 ヘタは「平らなさま」で、バルは「張る」の意味。ヘタル・ヘチャバルともいう。ヘタルは、べったりと平たく座ること。「風邪ひいてヘタッテる」「道端にヘタッテしもて動かれへん」 江戸時代の初めから使用し、物事を途中で投げ出す、弱るの意味でも広まった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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かれんげ/安養寺 (旧フォトヴィレッジ 2007年10月6日掲載)
衣料品店や土産物屋が並び、若者や修学旅行生たちでにぎわう繁華街の新京極。談笑しながら人々が行き交う蛸薬師通に面して、「さかれんげ阿弥陀(あみだ)如来」と刻んだ石碑がひっそりとたたずんでいる。



ここは古くから「女人往生」で信仰を集める安養寺。境内といえるかどうかわからないが、一歩入ると、まちなかの雑踏は嘘のように消える。静寂が包む2階の本堂には、阿弥陀如来像が安置されている。足元を目を凝らして見ると台座になっている蓮華の花が何故か下向きに咲いている。



話によると、平安後期、旅の老僧がひと晩の宿を請うて安養寺を訪れた。老僧は「仏を作る」と言う。寺に居住していた安養尼が材木を渡すと、老僧は部屋に引きこもった。夜中、のみやつちをたたく音が響く。朝、安養尼が部屋を訪れると、老僧の姿はなく光明を放つ阿弥陀如来像が出来上がっていた。安養尼は感謝し、仏師に蓮華の台座を作らせたが、仏像を置くたびに台座にひびが入る。安養尼は悩み、春日権現に祈ると、あの老僧が現れる。「この仏は女人往生の証拠仏。八葉の『さかれんげ』を台座にしなさい」。早速、さかれんげの台座を作り、無事に仏像を安置することができたという。



昔の習俗に基づいた信仰では、往生の際、男性は心の中で上を向いたハスの花を咲かせるが、女性は下向きに咲かせると言われ、女性は虐げられた存在だった。反対に、阿弥陀の平等思想は男女の差別なく往生できることを教える。さかれんげと阿弥陀如来を象徴的に見せることで、分け隔てなく救われることを分かりやすく伝えたのだろうと予想されている。



また、安養寺は洛陽六阿弥陀巡拝の一つで、無病息災を願いながら寺巡りを楽しむ中高年が訪れる。その一方で、数珠をかたく握りしめ、一心不乱に阿弥陀如来にすがる若い女性もいるという。時が流れても、その時代に応じた悩みと、『救われたい』という祈りがあることに変わりはない。人と人との絆が弱い現代にあって、今の女性は一見幸せそうに見えても、苦しみは増しているのではないだろうか…。



安養寺は京都市中京区新京極通蛸薬師角。午前7時から午後8時半ごろまで、蛸薬師通に面した薬医門が開いており、2階の本堂に安置されている阿弥陀如来像を参拝することができる。安養尼は恵心僧都(えしんそうず)の妹。安養寺には、弁財天や北向地蔵尊も安置されている…今京都。


 

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