rrbのブログ - 今京都のエントリ
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今京都 九頭竜大社 2022/01/12 12:00 am
この神社の歴史は浅い。1954(昭和29)年11月24日である。神社のホームページによると、祭神九頭竜弁財天大神が開祖大西正治朗の夢枕に立ち、「汝の身を社にする。無限に人を救う。奇蹟を以て即座に守護を与える。神は人を救って神界に上る」との神託を授け、京都八瀬の地に発祥。
九頭竜弁財天大神は慈悲の女神であり、人生における諸々の災い、厄を取り除き、福徳を授け、幸いに導く。発祥当初より九頭竜弁財天大神の奇蹟の力が発揚され、月参りをなさるなど、熱心に参る人が後を絶たない…という。
ここでは、発祥当初より本殿を時計回りに9回まわり巡拝するお千度を行う独特の参拝作法がある。参拝は、二拝・四拍手・手を合わせ静かに心の中で「南無九頭竜弁財天大神様(なむくずりゅうべんざいてんおおがみさま)」と三回、「おんそらそあてい(えい)そわか」と七回唱え、神様と心を通わせる。その後、願い事をし、願い事をしたら、四拍手、二拝をする、と独特の参拝方法である。
最近は、参拝にもショートヴァージョンがある。「急ぎの際は1回だけ巡拝するか、本殿正面だけを参る」とのことだ。それならば…と、1回だけ巡拝させていただいた。それにしてもショートヴァージョン参拝でも正式参拝でも同じご利益というのはどう理解したものか…という今京都。
九頭竜弁財天大神は慈悲の女神であり、人生における諸々の災い、厄を取り除き、福徳を授け、幸いに導く。発祥当初より九頭竜弁財天大神の奇蹟の力が発揚され、月参りをなさるなど、熱心に参る人が後を絶たない…という。
ここでは、発祥当初より本殿を時計回りに9回まわり巡拝するお千度を行う独特の参拝作法がある。参拝は、二拝・四拍手・手を合わせ静かに心の中で「南無九頭竜弁財天大神様(なむくずりゅうべんざいてんおおがみさま)」と三回、「おんそらそあてい(えい)そわか」と七回唱え、神様と心を通わせる。その後、願い事をし、願い事をしたら、四拍手、二拝をする、と独特の参拝方法である。
最近は、参拝にもショートヴァージョンがある。「急ぎの際は1回だけ巡拝するか、本殿正面だけを参る」とのことだ。それならば…と、1回だけ巡拝させていただいた。それにしてもショートヴァージョン参拝でも正式参拝でも同じご利益というのはどう理解したものか…という今京都。
参拝方法、「お急ぎの方は…」で掲示してあったよね
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今京都 大晦日 2021/12/31 12:00 am
大晦日の定番記事は「大晦日」。その前に少しの振り返りを。昨年、今年と新型コロナにやられた年である。おかげで初めて政府に目を向けた。一番は、政府の判断の遅さに辟易させられたことだが、もっと気になるのが、政治家の年齢の高さである。一般企業に定年制があるのは「伝統を守りつつも新進の発展をするため」であろう。議員にも「定年」を設けるべきである。古い知識と経験だけでは変動が激しい現代社会には適応できない。一般企業並みとは言わないが、70とか75歳で引退して欲しい。そんなことも考えたコロナ禍の2年であった。さて、「大晦日」。
『徒然草』第220段に「鐘の音は黄鐘調(おうじきちょう)なるべし、これ、無常の調子」と出てくる鐘が京都市右京区花園の妙心寺にある。698年の作で、銘ある梵鐘の中では最古だという。その響き(調子)は兼好法師も書いている通り「黄鐘調の鐘」と呼ばれて、余韻が長く心に響く無常の調べとして古来より名高い。
世にいう「天下の三鐘」とは、調べのよい妙心寺の鐘、装飾模様の美しい平等院の鐘、そして銘で知られる神護寺の「三絶(さんぜつ)の鐘」のこと。神護寺のその銘は、学者・橘広相(たちばなのひろみ)が序を考え、菅原道真の父・是善(これよし)が銘を選び、歌人であり書家と知られる藤原敏行(ふじわらのとしゆき)が序と銘を書いた。三人の優れた技芸が揃ったとして「三絶の鐘」と讃えられるのだそうである。
お寺ではこれらの鐘を、昔は1日に6回、晨朝(じんちょう・午前6時頃)、日中、日没、初夜、中夜、後夜に撞いて、都の人々に時を告げていた。
京都はお寺の分、梵鐘(釣鐘)も多い。それらがいっせいに鳴ったらどうなるのだろう。「音の洪水となるのか…」と思いきや、その音は御所を中心に京の都全体で音の設計がなされているという。つまり、サウンドスケープという発想だ。「平安の昔から、そんな壮大な音楽宇宙を都に演出した人がいるのだろうか」、また、「どういうことなんだ」とさらに気になる。
京都市内に伝わる古い鐘の音の振動数を測定した結果というものがある。その結果によると、鐘の多くは唐古律(とうこりつ)という中国唐代の音の調べに合わせて調律されている、という。そして、それらは御所を中心にして、寺院のある方角と鐘の調べに関連性があった。鐘の調べは北の大徳寺は「盤渉調(ばんしきちょう)」、東山の高台寺・清水寺は「上無調(かみむちょう)」、知恩院は「下無調(したむちょう)」、南の西本願寺は「壱越調甲(いちこつちょうこう)、そして西の神護寺の「三絶の鐘」は「平調(ひょうじょう)」という結果が得られた。さらに、これらの音は平安時代後期の音楽理論のもとで陰陽五行説と結びついている。
すなわち、北に玄武(げんぶ)、東に青龍(せいりゅう)、南に朱雀(すざく)、西に白虎(びゃっこ)という獣神を想定し、それによって平安の都は守護されている。と同時に、東西南北にはそれぞれの調べがあって、これらの寺院の鐘があてはまるのである。調査した鐘は京都市内の15点で、あてはまらないものもあるということだが、半分の7点は関連性をもつという。陰陽五行説に基づいて、御所を中心に方位に見合った鐘の調べが都大路に鳴り渡っているということになる。
平安京の造営では方位が重んじられたことがわかっているが、そこには方位に見合った音という発想まで含まれていた。そして、その調べに合わせて設計された京のお寺の鐘がいっせいに鳴り響けば、京の都全体が音舞台に変身する。静寂に包まれた平安の都の諸行無常のコンサートといえる。それはまさに、お寺の鐘が美しい雅楽を奏でる平安の都はサウンド設計された音舞台ということだ。
今日は大晦日。いっせいに鳴り響く各寺院の梵鐘に耳を傾けてみるのも一興だ。今年1年、色々とお世話になり、厚く御礼申しあげます…という今京都。
『徒然草』第220段に「鐘の音は黄鐘調(おうじきちょう)なるべし、これ、無常の調子」と出てくる鐘が京都市右京区花園の妙心寺にある。698年の作で、銘ある梵鐘の中では最古だという。その響き(調子)は兼好法師も書いている通り「黄鐘調の鐘」と呼ばれて、余韻が長く心に響く無常の調べとして古来より名高い。
世にいう「天下の三鐘」とは、調べのよい妙心寺の鐘、装飾模様の美しい平等院の鐘、そして銘で知られる神護寺の「三絶(さんぜつ)の鐘」のこと。神護寺のその銘は、学者・橘広相(たちばなのひろみ)が序を考え、菅原道真の父・是善(これよし)が銘を選び、歌人であり書家と知られる藤原敏行(ふじわらのとしゆき)が序と銘を書いた。三人の優れた技芸が揃ったとして「三絶の鐘」と讃えられるのだそうである。
お寺ではこれらの鐘を、昔は1日に6回、晨朝(じんちょう・午前6時頃)、日中、日没、初夜、中夜、後夜に撞いて、都の人々に時を告げていた。
京都はお寺の分、梵鐘(釣鐘)も多い。それらがいっせいに鳴ったらどうなるのだろう。「音の洪水となるのか…」と思いきや、その音は御所を中心に京の都全体で音の設計がなされているという。つまり、サウンドスケープという発想だ。「平安の昔から、そんな壮大な音楽宇宙を都に演出した人がいるのだろうか」、また、「どういうことなんだ」とさらに気になる。
京都市内に伝わる古い鐘の音の振動数を測定した結果というものがある。その結果によると、鐘の多くは唐古律(とうこりつ)という中国唐代の音の調べに合わせて調律されている、という。そして、それらは御所を中心にして、寺院のある方角と鐘の調べに関連性があった。鐘の調べは北の大徳寺は「盤渉調(ばんしきちょう)」、東山の高台寺・清水寺は「上無調(かみむちょう)」、知恩院は「下無調(したむちょう)」、南の西本願寺は「壱越調甲(いちこつちょうこう)、そして西の神護寺の「三絶の鐘」は「平調(ひょうじょう)」という結果が得られた。さらに、これらの音は平安時代後期の音楽理論のもとで陰陽五行説と結びついている。
すなわち、北に玄武(げんぶ)、東に青龍(せいりゅう)、南に朱雀(すざく)、西に白虎(びゃっこ)という獣神を想定し、それによって平安の都は守護されている。と同時に、東西南北にはそれぞれの調べがあって、これらの寺院の鐘があてはまるのである。調査した鐘は京都市内の15点で、あてはまらないものもあるということだが、半分の7点は関連性をもつという。陰陽五行説に基づいて、御所を中心に方位に見合った鐘の調べが都大路に鳴り渡っているということになる。
平安京の造営では方位が重んじられたことがわかっているが、そこには方位に見合った音という発想まで含まれていた。そして、その調べに合わせて設計された京のお寺の鐘がいっせいに鳴り響けば、京の都全体が音舞台に変身する。静寂に包まれた平安の都の諸行無常のコンサートといえる。それはまさに、お寺の鐘が美しい雅楽を奏でる平安の都はサウンド設計された音舞台ということだ。
今日は大晦日。いっせいに鳴り響く各寺院の梵鐘に耳を傾けてみるのも一興だ。今年1年、色々とお世話になり、厚く御礼申しあげます…という今京都。
御朱印巡りの話もあり最新情報がいっぱいだったね。来年もよろしく
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今京都 武信稲荷神社 2021/12/24 12:00 am
「たけのぶいなりじんじゃ」と読む。この神社は、平安時代の初期、859(貞観元)年、藤原良相(ふじわらのよしすけ)によって創建された。平安時代の古図には、三条から南の神社付近一帯の広い地域は「この地、藤原氏延命院の地なり」と記されている。延命院とは藤原が、人々の健康長寿を願って創設した医療施設であり、延命院と勧学院(現千本三条東、西ノ京勧学院町にあった学問所)の守護神としてお祀りした神社…ということだ。
平安京の大内裏は、今の千本丸太町を中心とした場所であり、現在の千本通りが朱雀大路にあたることは知られている。この神社付近は貴族の邸宅や平安京の中央諸官庁があった地域とされている。
後世、藤原武信がこの神社を厚く信仰し、御神威の発揚につとめたので、武信神社と称されるようになり、創祀以来一千年余にわたり広く人々に信仰され、今日に至っている。必勝、名付け、命名にご利益があるとされている。
この神社も御朱印巡りの関係で再訪である。今回の記事を書くことで、以前にこのブログに掲載していたという事実を知る(以前の記事は 今京都記事一覧 からどうぞ)。なんとも悲しい現実に唖然…という今京都。
平安京の大内裏は、今の千本丸太町を中心とした場所であり、現在の千本通りが朱雀大路にあたることは知られている。この神社付近は貴族の邸宅や平安京の中央諸官庁があった地域とされている。
後世、藤原武信がこの神社を厚く信仰し、御神威の発揚につとめたので、武信神社と称されるようになり、創祀以来一千年余にわたり広く人々に信仰され、今日に至っている。必勝、名付け、命名にご利益があるとされている。
この神社も御朱印巡りの関係で再訪である。今回の記事を書くことで、以前にこのブログに掲載していたという事実を知る(以前の記事は 今京都記事一覧 からどうぞ)。なんとも悲しい現実に唖然…という今京都。
ブログ掲載で結構あちこち行ってるよ。覚えていないのは歳のせい?
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今京都 三宅八幡宮/今昔 2021/12/23 12:00 am
「今昔」というほど時は経ていないが、以前と今回の比較をしてみる。写真の掲載は、対で「以前・今回」の順である…という今京都。
朽ちた水車は復活しないのかなぁ?
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今京都 金閣寺/銀閣寺 2021/12/21 12:00 am
京都御所の北門、今出川御門の前の通りを北上した突き当たりに相国寺(しょうこくじ)がある。今回取り上げるのは、その相国寺…ではない。相国寺の山外塔頭(たっちゅう)の鹿苑寺と慈照寺である。
鹿苑寺・慈照寺と言われてもピンとこないだろうが、金閣寺・銀閣寺ならどうだろう?
実は御朱印巡りのおかげで、金閣寺も銀閣寺も共に相国寺の山外塔頭だということを知った。「知った」というより、今までは「どうでもよい」という意識が強く、目を向けていなかった。しかし、この2寺院の御朱印を並べたいと思い、相反する宗派ではないとかを調べるようになった。その結果、親元は一緒と判明。それによって、どこか似ていたり、あるいは対の如くあるのも頷けるようになった。
個人として残念なのが、金閣寺は北区で銀閣寺は左京区と金閣寺が右京区でないことが、ちょっとモヤッとする。左京区・右京区も拘りたいものだ。次に、金閣寺は3階建で銀閣寺は2階建て。さらに、共に屋根の上にあるのが鳳凰。赤山禅院の鬼門除けの猿と京都御所の東北の角にある猿ケ辻の猿とが向き合っているように、この鳳凰の向きも気になる。
金閣・銀閣の鳳凰は向き合っている…となっていればスッキリなんだけれど、世の中、そううまくはない。金閣寺の鳳凰は弱冠西側を向いた南を向き、銀閣寺は東を向いている。1950(昭和25)年の焼失までは金閣寺の鳳凰は西を向いていたという。つまりかつては金閣寺の鳳凰は西向き、金額寺の鳳凰は東向きということになり、それなりに対を成している。なのになぜ南に向けたのか。四神相応の地とされてきた京都。北の玄武、東の青龍、南の朱雀、西の白虎によったのかは定かではない。
ちょっとした謎であるが、このように比べてみるのも楽しいものがある。金閣寺と銀閣寺、勝手に並べてみた…という今京都。
鹿苑寺・慈照寺と言われてもピンとこないだろうが、金閣寺・銀閣寺ならどうだろう?
実は御朱印巡りのおかげで、金閣寺も銀閣寺も共に相国寺の山外塔頭だということを知った。「知った」というより、今までは「どうでもよい」という意識が強く、目を向けていなかった。しかし、この2寺院の御朱印を並べたいと思い、相反する宗派ではないとかを調べるようになった。その結果、親元は一緒と判明。それによって、どこか似ていたり、あるいは対の如くあるのも頷けるようになった。
個人として残念なのが、金閣寺は北区で銀閣寺は左京区と金閣寺が右京区でないことが、ちょっとモヤッとする。左京区・右京区も拘りたいものだ。次に、金閣寺は3階建で銀閣寺は2階建て。さらに、共に屋根の上にあるのが鳳凰。赤山禅院の鬼門除けの猿と京都御所の東北の角にある猿ケ辻の猿とが向き合っているように、この鳳凰の向きも気になる。
金閣・銀閣の鳳凰は向き合っている…となっていればスッキリなんだけれど、世の中、そううまくはない。金閣寺の鳳凰は弱冠西側を向いた南を向き、銀閣寺は東を向いている。1950(昭和25)年の焼失までは金閣寺の鳳凰は西を向いていたという。つまりかつては金閣寺の鳳凰は西向き、金額寺の鳳凰は東向きということになり、それなりに対を成している。なのになぜ南に向けたのか。四神相応の地とされてきた京都。北の玄武、東の青龍、南の朱雀、西の白虎によったのかは定かではない。
ちょっとした謎であるが、このように比べてみるのも楽しいものがある。金閣寺と銀閣寺、勝手に並べてみた…という今京都。
金閣・銀閣のような関係の寺社は他にもあるかもね