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rrbのブログ - 2009/11のエントリ

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天を仰いで思うこと もぞく 2009/11/30 12:00 am

ぞく
とろろ昆布。おぼろ昆布。「モゾクで巻いたおにぎりはおいしいな」 モズク、モドクとも。水雲(もずく)は褐藻類の海草。藻に付いて生じるのでモツクから。「水雲」は平安時代の漢和辞書『和名抄』に記され、『お湯殿の上の日記』に「もつく」と記される。とろろ昆布はとろろ汁にして食べた。昆布を京ではコブと発音し、塩昆布はシオコブ。昆布を熨斗(のし)とした昆布熨斗は祝儀に用いる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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方山話(94)
ナラ枯れに思うこと



栗東市の栗東自然観察の森に行くと、ナラの木の幹におびただしい数のつまようじが刺さっているという。1本の木に400〜500本。かなり高い場所にも刺してあるとのことだ。これは、「ナラ枯れの対策」。これだけ刺せたのは、ボランティアの協力のたまものという。



ナラ枯れはカシノナガキクイムシが幹に穴を開けて侵入し、虫に付着した菌の影響で木が枯れる現象だ。滋賀県では最初に県北部でナラ枯れが見つかった。同森では昨年、初めて3本確認されたが、今年さらに14本が被害を受けているのが分かり、森主催の講座修了生でつくる「友の会」会員や利用者らに呼び掛けて対策グループを立ち上げたらしい。幹に虫が開けた穴に殺菌剤を注入し、つまようじを差し込んで虫を閉じこめる。一つ一つ積み重ねる手の込んだ作業だ。広い園内。中高年が多い約50人の対策グループが人海戦術で作業に取り組み、なお進行中とのことだ。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

「それぞれが手の空いた日に来て作業する」ところもボランティアらしい。1988年に名神栗東インターに近い近郊の里山にできた同森。自然の好きな人が市外からも集いさまざまな仕事で森を支えてきたという。公共の仕事にボランティアの力がより重要な時代になったのは間違いない。また、市民参加は「やりがい」にもつながる。自然好きはいい人ばかり…と、天を仰いで思うこと。


 

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今京都 もみうり 2009/11/29 12:00 am

みうり
瓜を薄く切り塩で揉み、酢をかけたもの。「今晩のおかずにモミウリつくっといてんか」 東京でウリモミ、大阪ではザクザクともいう。胡瓜は黄・瓜の意から。マッカは真桑ウリ。もと美濃の真桑村産に基づく。京都御所では瓜をオウリといい、白瓜はシロオウリ、西瓜はアカキオウリ、干し瓜はホリホリとも言った。味噌漬けの白瓜はコオノウリ。瓜をナリノモノ、ナリモノと記された女房ことばの文献がある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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蔵物語(285)




 

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今京都 ぼん 2009/11/28 12:00 am


坊や。「おうちのボンよう走らはるな」 ボンボンとも。「坊」からボンになった。目上から目下にいう愛称。老舗では、大人になってもボンと呼び続けることがあった。兄弟が多いと、アニボン、ナカボン、コボンと区別した。コボンチャンとチャンをつけると敬称。弟が兄を呼ぶのにもオッキニー(長兄)、チューニー(仲兄)、チッコニー・チッコニャン(小さい兄さん)のように呼んだ。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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石神社(おおいしじんじゃ)/忠臣蔵 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月17日掲載)





花山稲荷神社より南西方向に足を伸ばしたところに大石神社がある。





赤穂浪士の大石良雄(おおいしよしお)を祀る。大石良雄は赤穂城明け渡しの後、妹の夫の進藤源四郎の縁故でこの地に隠棲。1935(昭和10)年浪曲家吉田大和之丞らが創建した。大石良雄は通称内蔵助。いわずとしれた赤穂四十七士の首領。1701(元禄14)年4月、脇坂安照らに赤穂城を明け渡し、6月にこの山科へ移る。諸方の同志と連絡をとりつつ浅野家再興の工作、再興ならずば吉良への復讐と二者択一に時を送る。





翌1702(元禄15)年2月15日に山科、7月26日に京の円山、重阿弥の別荘に同志を集め、吉良への復讐を決定。10月7日江戸へ出発。12月15日未明、吉良を討った。翌1703(元禄16)年2月4日、江戸の細川邸で切腹。高輪の泉岳寺に葬る。





ここ大石神社には「忠臣蔵宝物殿」があり、中は忠臣蔵に関するものが展示されている。仇討ちとか切腹とか物騒なお話だが、境内には長閑な時間が流れていた。この静けさの中で赤穂四十七士への思いはさらに深まる…今京都。


 

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天を仰いで思うこと はたのあば 2009/11/27 12:00 am

たのあば
京都・右京の高雄や梅ヶ畑から梯子や鞍掛を売りに来る女性のこと。「梯子に鞍掛いらんかえー」と呼び売りしながら京都市内を歩いた。「畑のおばさん」の意味から。京都ではかつてオバをアバと呼ぶことが多かった。頭の上に「輪」と称する布製の敷物を置き、その上に梯子や鞍掛をのせていた。そうした風景は、今では見つけにくい時代になった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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方山話(93)
紅葉の季節に思うこと



大木になるケヤキだが、葉は小ぶり。並木道や公園ではらはらと落ちカサコソと舞う。その様子を見ていると、澄んだ空気の流れがよく分かる。手入れされたカエデの名所だけでなく、街中が紅葉、黄葉、落葉のころとなった。



秋風の吹きにし日より音羽山峰のこずゑも色づきにけり(紀貫之)。山はいうまでもなし。職場の窓から見渡せる山は、北の方角の左側から染まりだした。右からもえた春を思い出しては、興に入る。「哲学の道」の石畳沿いに植えた下草の養生のため、一部区間を立ち入り禁止になっていたが、それを解除するという。下草は、樹勢の衰えたサクラの根が踏まれて傷まないよう地面を覆う。とはいえ、錦秋のころまで養生していては無粋とされる。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

しかし昨年、サクラが咲く前に植えて開放したところ、踏まれてだめになった。天皇、皇后両陛下が近くの霊鑑寺を訪れて「京都はモミジがよろしいね」とされた。最近、修学旅行の女生徒らが、下草を踏まないよう一列になって石畳を歩く光景を目にするという。「踏まないで」と訴える立て札の効果もあるが、心のはやる春とは違い、紅葉の秋は、人を優しい気持ちにするのではないか…と、天を仰いで思うこと。


 

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今京都 はすかい 2009/11/26 12:00 am

すかい
斜め。「この折紙、次にハスカイに折るのや」 もとは柱と柱の間に入れた細い板。ハスは端隅の略。ハスとスジカイの複合による。筋交は斜めに交わったさま。対角線のこともいう。本を読むのにハスカイに目をやって速読する人がいる。大阪ではハスともいうが、京都ではハスカイを用い、「ハスカイに切る」という。「ご機嫌ななめ」というが、「ご機嫌ハスカイ」とは言わない。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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山稲荷神社/忠臣蔵 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月15日掲載)

♪ 勅使下向の春弥生
いかに果たさん 勤めなん
身は饗応(きょうおう)の 大役ぞ
頼むは吉良と 思えども
彼(か)の振舞の 心なき ♪



「刃傷松の廊下」 作詞は藤間哲郎、作曲は桜田誠一、唄は真山一郎…小さい頃、酔った祖父たちが口にしていたのをかすかに覚えている。「刃傷松の廊下」 といえば忠臣蔵。江戸時代中期、主君のあだ討ちで知られる元禄赤穂事件。京都市山科区にある西野山一帯には義挙を主導した大石内蔵助良雄にまつわる伝承が多く残る。その中でも花山稲荷神社(かざんいなりじんじゃ)にある「内蔵助の断食石」は、内蔵助が腰を掛け寝食を忘れるほどに討ち入りの秘策を練ったといわれる。



拝殿の前にあり、畳一畳分ほどの大きさで高さが約50cm。傍らには「大石良雄公遺跡」と刻まれた石碑が建ち、忠臣蔵のファンや観光客が訪れ見入るという。播州赤穂藩主だった浅野内匠頭長矩が江戸城松の廊下で刃傷に及び切腹したのは1701(元禄14)年3月14日。花山稲荷神社から南に約1km、内蔵助とゆかりの深い大石神社の神社由緒書によると、赤穂藩が改易(領地没収)となり、城代家老の内蔵助が城を明け渡した後の同年6月28日、親類の進藤源四郎を頼り、現在は同神社があるこの地に移ったという。人里から離れていたが、東海道や京都に近く交通の便がよかったことから、ここで頻繁に同志と会合を開いたとされる。山科に隠れ住んでいたころの内蔵助は、しばしば花山稲荷神社を参拝していたという。



♪ 花の命を さながらに
赤穂三代 五十年
浅野の家も これまでか
君君たらずとも 臣は臣
許せよ吾を この無念 ♪



同神社によると、1699(元禄12)年に源四郎が社殿を寄進した記録が残る。親類と縁の深い神社なのだから、内蔵助が足を運んだのは確かだとの推測もある。神社へ足しげく詣でた内蔵助。「内蔵助の断食石」を前にすると、岩に座して主君の敵をいかに討つかを考え抜いた姿が目に浮かぶ。この「内蔵助の断食石」の出自には、明治になってこの辺りを開拓したとき、大きな岩を爆破し、当時の宮司がその中で一番大きな破片を境内に置いたのが「内蔵助の断食石」という異説もある。その他に花山稲荷神社には、内蔵助が血判状を書くときの台にしたという「血判石」や、内蔵助が奉納したとされる鳥居もあるという。





血判石は、本殿を囲む塀の中にひっそりとたたずみ、鳥居は本殿の裏に保管されている。残念ながらこの日は対面することができなかった。いずれも本当に内蔵助とゆかりがあるのかどうかは分かっていないということだが…。それでも、内蔵助を慕う参拝客が伝承の品を眺め、山科に隠せいしていたころの内蔵助をしのんでいるには違いない。近くには大石神社や岩屋寺、山科神社など内蔵助とゆかりの深いスポットが多い。この石の上で寝食を忘れ秘策を練っていたという姿を想像し、気持ちは大石神社に向いている自分がいた…今京都。


 

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