rrbのブログ - 2010/03のエントリ
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今京都 おでーさん 2010/03/20 12:00 am
おでーさん
父を呼ぶ公家ことば。デーは出居。もとは出て人を迎えるところ。玄関の意味が座敷や応接間を指すようになった。洛北八瀬では玄関から入って直ぐの間をデー、奥の間をオクマデという。出居にいる人の意味が公家社会では父の呼称になった。オデーチャンとも。皇室をはじめ上流の公家は父をオモーサンと呼ぶ。母は御所ことばでオターサン。対屋におられたことからの命名。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
堪忍の看板
「堪忍の看板」とは、「堪忍」という二文字を右から左に大きく横書きしたもの。昔、京都では業種に関係なく必ずといっていいほど、これが店先に表に向けてかけられていたという。一般に、堪忍といえば、文字で書いて読むとおり「耐え忍ぶ」とか「我慢する」などという意味であるが、京都ではこの看板は耐え忍んで商売をするといった意味ではない。お客に向かって「ごめんなさい」「堪忍してください」とお詫びの気持ちを表現するためにかけている。そのため、この看板は内暖簾の上とかお店の大黒柱とか、お客の一番よく目につくところにある。もしこれが商売人自身が我慢をしようとか、堪忍ということばを商いの基本にしようという意味であれば、わざわざお客に見せる必要などないし、帳場(事務所)などの片隅の店の従業員がいつでも見られるところにかけておけばいいことになる。
「出来ないものは出来ない!」「売りたくないものは売らない!」「自分の納得がいかないものは販売しない!」というこんな信念が、姿勢が、発想が、時にはお客を怒らせる結果にもなる。それで、この看板をかけてそのお詫びをしている。「当方の商売は、ただ利益を上げればよいと考えているのではない。売るからには責任と自信とがある。当方はこんな心を大事にして、そしてそれを誇りにして商売をしてるんどす。どうぞ堪忍しとくれやす」と看板にもの言わせている。こんな意味の看板はおそらく京都だけではないかと思う。「千客万来」などのように「お客様は神様」的なものはあるかもしれないが、「堪忍」というこんな看板を堂々と表に出して商売しているというのは、ある意味では京都商法の本質でもあると思う。
お客が、この看板をまず見て、どのような感想を持つかはわからない。しかし、京都人は「その店は間違いなく信用できる」と思える。これも京都の伝統のひとつだと思う。「えらそうなものの言い方をして、えらいすんまへんどした。堪忍しとくれやっしゃ」 趣きのあるこの看板も、今では探さなければ見つからないほど少なくなってしまった。それと同時に、都人の商売の仕方もどこかに影をひそめてしまったような気がする…今京都。
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父を呼ぶ公家ことば。デーは出居。もとは出て人を迎えるところ。玄関の意味が座敷や応接間を指すようになった。洛北八瀬では玄関から入って直ぐの間をデー、奥の間をオクマデという。出居にいる人の意味が公家社会では父の呼称になった。オデーチャンとも。皇室をはじめ上流の公家は父をオモーサンと呼ぶ。母は御所ことばでオターサン。対屋におられたことからの命名。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
堪忍の看板
「堪忍の看板」とは、「堪忍」という二文字を右から左に大きく横書きしたもの。昔、京都では業種に関係なく必ずといっていいほど、これが店先に表に向けてかけられていたという。一般に、堪忍といえば、文字で書いて読むとおり「耐え忍ぶ」とか「我慢する」などという意味であるが、京都ではこの看板は耐え忍んで商売をするといった意味ではない。お客に向かって「ごめんなさい」「堪忍してください」とお詫びの気持ちを表現するためにかけている。そのため、この看板は内暖簾の上とかお店の大黒柱とか、お客の一番よく目につくところにある。もしこれが商売人自身が我慢をしようとか、堪忍ということばを商いの基本にしようという意味であれば、わざわざお客に見せる必要などないし、帳場(事務所)などの片隅の店の従業員がいつでも見られるところにかけておけばいいことになる。
「出来ないものは出来ない!」「売りたくないものは売らない!」「自分の納得がいかないものは販売しない!」というこんな信念が、姿勢が、発想が、時にはお客を怒らせる結果にもなる。それで、この看板をかけてそのお詫びをしている。「当方の商売は、ただ利益を上げればよいと考えているのではない。売るからには責任と自信とがある。当方はこんな心を大事にして、そしてそれを誇りにして商売をしてるんどす。どうぞ堪忍しとくれやす」と看板にもの言わせている。こんな意味の看板はおそらく京都だけではないかと思う。「千客万来」などのように「お客様は神様」的なものはあるかもしれないが、「堪忍」というこんな看板を堂々と表に出して商売しているというのは、ある意味では京都商法の本質でもあると思う。
お客が、この看板をまず見て、どのような感想を持つかはわからない。しかし、京都人は「その店は間違いなく信用できる」と思える。これも京都の伝統のひとつだと思う。「えらそうなものの言い方をして、えらいすんまへんどした。堪忍しとくれやっしゃ」 趣きのあるこの看板も、今では探さなければ見つからないほど少なくなってしまった。それと同時に、都人の商売の仕方もどこかに影をひそめてしまったような気がする…今京都。
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今京都 うたう 2010/03/18 12:00 am
うたう
音(ね)を上げる、投げ出す、疲れてしまう、悲鳴を上げる。「マラソン走ってウトーてしもた」「あんなに元気やったのにウトーてしもたな」 ウタウをウトーということが多い。鳥が歌うのウタウに基づく。鳴く、泣くの意味から転用。江戸時代の天保ごろから使用。事業が経済的に行き詰る、金策尽きて倒産するときにもいう。「いろいろ手を打ったけど、とうとうウトーてしもた」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
岡持ち
岡持ち(おかもち)とは、料理を食器ごと出前する際に用いる箱のこと。箱の(上面ではなく)前面に蓋が設置されたタイプの岡持ちでは、嵌め込み式の蓋を上下にスライドさせる機構を倹飩と言い、そのため倹飩箱(けんどんばこ)とも呼ばれる。岡持ちには箱そのものを手で持ち運ぶための「持ち手」が上部についているが、現代では岡持ちごと出前機に積み、オートバイやスクーターで運ばれることもある。
夜でも昼でもそば屋の岡持ちが行く。麺が伸びないように素早く。汁をこぼさないように丁寧に。塩梅が大切だ。京都市東山区では、今でこの風景が見られる…今京都。
音(ね)を上げる、投げ出す、疲れてしまう、悲鳴を上げる。「マラソン走ってウトーてしもた」「あんなに元気やったのにウトーてしもたな」 ウタウをウトーということが多い。鳥が歌うのウタウに基づく。鳴く、泣くの意味から転用。江戸時代の天保ごろから使用。事業が経済的に行き詰る、金策尽きて倒産するときにもいう。「いろいろ手を打ったけど、とうとうウトーてしもた」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
岡持ち
岡持ち(おかもち)とは、料理を食器ごと出前する際に用いる箱のこと。箱の(上面ではなく)前面に蓋が設置されたタイプの岡持ちでは、嵌め込み式の蓋を上下にスライドさせる機構を倹飩と言い、そのため倹飩箱(けんどんばこ)とも呼ばれる。岡持ちには箱そのものを手で持ち運ぶための「持ち手」が上部についているが、現代では岡持ちごと出前機に積み、オートバイやスクーターで運ばれることもある。
夜でも昼でもそば屋の岡持ちが行く。麺が伸びないように素早く。汁をこぼさないように丁寧に。塩梅が大切だ。京都市東山区では、今でこの風景が見られる…今京都。
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今京都 わや 2010/03/16 12:00 am
わや
台なし。無茶なこと。失敗。駄目。「このごろ売れ行きが悪うてさっぱりワヤや」 枉惑(おうわく)からワヤクになりワヤになった。ワヤクは道理に合わない、無理・無法の意味であった。「ワヤにされる」は無茶なこと・乱暴をされる。ワヤクソ・ワヤクタ・ワヤクチャともいう。「シャツが雨に濡れてワヤクチャや」 クソ(糞)・クタ・クチャ(朽・腐)をつけてワヤの意味を強めた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
路面電車の面影/二つの市電
昔、京都の街には路面電車(市電)がたくさん走っていた。実は京都は日本の路面電車の発祥の地。1895年〜1978年まで、自動車が普及していなかった時代の市民の足として活躍していた。交通量の増加とともに姿を消したが、最近、次世代型路面電車(LRT)の建設が検討され、見直されている。市電の跡を訪ね、古き良き時代の京都を偲んでみる。
初めて登場した路面電車は、民間の「京都電気鉄道株式会社(京電)」が運行していた。京都市下京区のJR京都駅前、東洞院通と塩小路の交差点に「電気鉄道事業発祥地」の石碑がある。ここから伏見区の下油掛まで最初の電車が走った。その後、市営の路面電車が開業し、大正時代に市が京電を買収した。京電の幅の狭い軌道は次々に広い軌道に変わったが、1961年に北野線が廃止されるまで京電の車両は活躍した。上京署の向かい側に北野線の終点を示す石碑がある。
そんな二つの市電が、北区の大宮交通公園に並んで展示されている。小さなチョコレート色は京電の車両、緑と白は昭和40年代の車両だ。どちらも電車文庫として本が置かれ、座って読書が楽しめる。下京区烏丸五条上ル西側の「北阪ビルディング」や左京区の平安神宮にも展示されている。下京区の梅小路公園では週末に走っている。近鉄伏見駅北側の国道24号沿いの「柴田屋敷町ちびっこひろば」では集会所として使われているほか、京都教育大付属桃山小学校など市内各地の学校や幼稚園でも道具として使われているけれど、老朽化で撤去されるケースも目立っている。
元稲荷線の終着駅
伏見稲荷大社へ向かう稲荷線が伏見駅から分岐していた。JR稲荷駅の西側の疎水の上にベンチが並んだ広場がある。ここが稲荷線の終着駅。市電の軌道跡は公園になっており、敷石のような石畳が当時の雰囲気を伝えている。
向かって右側の道路が元の市電専用軌道
市電は普通、車と並んで走っていたが、一部に専用軌道もあった。伏見区の丹波橋に近い竹田街道は棒鼻から肥後町まで約1.2km、二本に分かれている。西側の北向き一方通行の道が元は市電の専用軌道。車窓から酒蔵の建ち並ぶ風景が見られ、人気があったという。機会があれば、ぶらりと歩いてそんな面影も探してみたいと思う…今京都。
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台なし。無茶なこと。失敗。駄目。「このごろ売れ行きが悪うてさっぱりワヤや」 枉惑(おうわく)からワヤクになりワヤになった。ワヤクは道理に合わない、無理・無法の意味であった。「ワヤにされる」は無茶なこと・乱暴をされる。ワヤクソ・ワヤクタ・ワヤクチャともいう。「シャツが雨に濡れてワヤクチャや」 クソ(糞)・クタ・クチャ(朽・腐)をつけてワヤの意味を強めた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
路面電車の面影/二つの市電
昔、京都の街には路面電車(市電)がたくさん走っていた。実は京都は日本の路面電車の発祥の地。1895年〜1978年まで、自動車が普及していなかった時代の市民の足として活躍していた。交通量の増加とともに姿を消したが、最近、次世代型路面電車(LRT)の建設が検討され、見直されている。市電の跡を訪ね、古き良き時代の京都を偲んでみる。
初めて登場した路面電車は、民間の「京都電気鉄道株式会社(京電)」が運行していた。京都市下京区のJR京都駅前、東洞院通と塩小路の交差点に「電気鉄道事業発祥地」の石碑がある。ここから伏見区の下油掛まで最初の電車が走った。その後、市営の路面電車が開業し、大正時代に市が京電を買収した。京電の幅の狭い軌道は次々に広い軌道に変わったが、1961年に北野線が廃止されるまで京電の車両は活躍した。上京署の向かい側に北野線の終点を示す石碑がある。
そんな二つの市電が、北区の大宮交通公園に並んで展示されている。小さなチョコレート色は京電の車両、緑と白は昭和40年代の車両だ。どちらも電車文庫として本が置かれ、座って読書が楽しめる。下京区烏丸五条上ル西側の「北阪ビルディング」や左京区の平安神宮にも展示されている。下京区の梅小路公園では週末に走っている。近鉄伏見駅北側の国道24号沿いの「柴田屋敷町ちびっこひろば」では集会所として使われているほか、京都教育大付属桃山小学校など市内各地の学校や幼稚園でも道具として使われているけれど、老朽化で撤去されるケースも目立っている。
元稲荷線の終着駅
伏見稲荷大社へ向かう稲荷線が伏見駅から分岐していた。JR稲荷駅の西側の疎水の上にベンチが並んだ広場がある。ここが稲荷線の終着駅。市電の軌道跡は公園になっており、敷石のような石畳が当時の雰囲気を伝えている。
向かって右側の道路が元の市電専用軌道
市電は普通、車と並んで走っていたが、一部に専用軌道もあった。伏見区の丹波橋に近い竹田街道は棒鼻から肥後町まで約1.2km、二本に分かれている。西側の北向き一方通行の道が元は市電の専用軌道。車窓から酒蔵の建ち並ぶ風景が見られ、人気があったという。機会があれば、ぶらりと歩いてそんな面影も探してみたいと思う…今京都。
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今京都 ちょうずをつかう 2010/03/12 12:00 am
ちょうずをつかう
洗面する。筆者は小学三年生の作文(昭和9年当時は「綴方」)に「てうづをつかひに庭へ出た」と書いた。チョーズを「てうづ」、ツカウを「つかふ」と表記した。便所、大小便の意味でもチョーズ・オチョーズとも言った。そのころ「国語」は「読方」、「音楽」は「唱歌」、「算数」は「算術」のような科目名であった。学校の始業を知らせるリン(鈴)がリンリンと鳴った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
平安前期
桓武天皇は、国際都市・平安京の実現という壮図(そうと)を抱いていた。奈良時代から国家間交流のある渤海(ぼっかい)や新羅(しらぎ)はもとより、東アジアの盟主ともいうべき唐に対しても国威を顕示すべく堂々たる羅城門(都城の正門)をつくった。羅城門は、重層で入母屋造、瓦屋根の両端に鴟尾(しび)が輝き、楼の二層には兎跋毘沙門天が外敵ににらみをきかせていた。門の幅は約35m、奥行約9m、高さ約21m、正面柱間は七間で、そのうち中央五間に扉が入り、左右の一間は壁であったと考えられる。木部は朱塗りで、壁は白土塗り。門の手前には五段の石段があり、中国風の石橋(地名として残る唐橋)がかかっていた。
新都への訪問者はその壮麗な造りに息をのんだことであろう。羅城門をくぐれば幅85mの朱雀大路が真っ直ぐ北に伸び、左右は整然とした町並みが広がっていた。後世、鬼が巣くうような場所になろうとは、誰も想像すらできなかったはずである。羅城門が都の表玄関として威厳を保った期間は長くはなかった。建造後20年も経たない816(弘仁7)年、暴風により倒壊。門の幅と高さに比して奥行きがなく、もともと風には弱い構造だった。その時は再建されたが、980(天元3)年に再び倒壊し、以後は再建されることはなかった。
羅城門の北には東に東寺、西には西寺が同規模の寺域面積で並んでいた。西寺は990(正暦1)年にほぼ全焼、1233(天福1)年にも焼失して羅城門ともども荒廃した。西寺の位置する右京の衰退も一要因となった。東寺は現在も存在するが、西寺はわずかに礎石だけが往時の名残りをとどめるだけである。羅城門は平安京のうたかたの表玄関ということか…今京都。(『京都のふしぎ発見』より)
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洗面する。筆者は小学三年生の作文(昭和9年当時は「綴方」)に「てうづをつかひに庭へ出た」と書いた。チョーズを「てうづ」、ツカウを「つかふ」と表記した。便所、大小便の意味でもチョーズ・オチョーズとも言った。そのころ「国語」は「読方」、「音楽」は「唱歌」、「算数」は「算術」のような科目名であった。学校の始業を知らせるリン(鈴)がリンリンと鳴った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
平安前期
桓武天皇は、国際都市・平安京の実現という壮図(そうと)を抱いていた。奈良時代から国家間交流のある渤海(ぼっかい)や新羅(しらぎ)はもとより、東アジアの盟主ともいうべき唐に対しても国威を顕示すべく堂々たる羅城門(都城の正門)をつくった。羅城門は、重層で入母屋造、瓦屋根の両端に鴟尾(しび)が輝き、楼の二層には兎跋毘沙門天が外敵ににらみをきかせていた。門の幅は約35m、奥行約9m、高さ約21m、正面柱間は七間で、そのうち中央五間に扉が入り、左右の一間は壁であったと考えられる。木部は朱塗りで、壁は白土塗り。門の手前には五段の石段があり、中国風の石橋(地名として残る唐橋)がかかっていた。
新都への訪問者はその壮麗な造りに息をのんだことであろう。羅城門をくぐれば幅85mの朱雀大路が真っ直ぐ北に伸び、左右は整然とした町並みが広がっていた。後世、鬼が巣くうような場所になろうとは、誰も想像すらできなかったはずである。羅城門が都の表玄関として威厳を保った期間は長くはなかった。建造後20年も経たない816(弘仁7)年、暴風により倒壊。門の幅と高さに比して奥行きがなく、もともと風には弱い構造だった。その時は再建されたが、980(天元3)年に再び倒壊し、以後は再建されることはなかった。
羅城門の北には東に東寺、西には西寺が同規模の寺域面積で並んでいた。西寺は990(正暦1)年にほぼ全焼、1233(天福1)年にも焼失して羅城門ともども荒廃した。西寺の位置する右京の衰退も一要因となった。東寺は現在も存在するが、西寺はわずかに礎石だけが往時の名残りをとどめるだけである。羅城門は平安京のうたかたの表玄関ということか…今京都。(『京都のふしぎ発見』より)
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今京都 かんてき 2010/03/11 12:00 am
かんてき
七輪。焜炉(こんろ)。「昔はカンテキで火を起こした」 江戸時代の『守貞漫稿』には「かんてきは、癇癖(かんしゃく)の訛歟(なまりか)。此炉忽ちに炭を火とす故に癇癖と云うなり」とある。江戸時代の宝暦・寛政のころ煎茶が流行し、中国から「間適」の銘のある風炉が渡来したのが起こりともいう。すぐに怒る人、癇癪を起こす人、腹を立てる人のことにもいう。七輪はもと「七厘」と書き、七厘ほど安い値段の炭で間に合うの意。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
将門塚
にぎやかな四条通から新釜座町に入ると、昔ながらの風情を残す一角がある…という書き出して掲載した神田神宮。神田神宮は、「史蹟神田神宮」と書かれ、「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と説明されている。また、伝説によれば、将門の首は生きたように目を見開き、歯ぎしりをしたという。さらに、ある夜、突然、首が笑いだし、白い光を放ちながら、自らの胴体を求めて、東の方向へ飛び去ったと言い伝えられる。その後、天変地異が相次ぎ、将門の霊を鎮めようと、各地に首塚が築かれる。最も有名な塚が東京都千代田区大手町のオフィス街にあるという。
この時に思いは東へ。いつか訪れたいと思っていたが、先日、たまたま仕事で行った先が東京都千代田区大手町。信号を渡ろうと待っていると、眼に飛び込んできたのが、『将門塚70m』という看板。「ンっ…これは…!」とちょっと寄り道。あいにくカメラを持っていなかったが、今は携帯電話のカメラがあるのでデジカメモードでパチリ。
この将門塚、正直、思っていたより明るい場所にあったのでびっくり。大都会のビルの合間に大切に祀られている。その様は、まるで怒りに触れないようにしているようだ。いずれにしても、京都・東京を結ぶひとつの記事が完成したと思う…今京都。
七輪。焜炉(こんろ)。「昔はカンテキで火を起こした」 江戸時代の『守貞漫稿』には「かんてきは、癇癖(かんしゃく)の訛歟(なまりか)。此炉忽ちに炭を火とす故に癇癖と云うなり」とある。江戸時代の宝暦・寛政のころ煎茶が流行し、中国から「間適」の銘のある風炉が渡来したのが起こりともいう。すぐに怒る人、癇癪を起こす人、腹を立てる人のことにもいう。七輪はもと「七厘」と書き、七厘ほど安い値段の炭で間に合うの意。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
将門塚
にぎやかな四条通から新釜座町に入ると、昔ながらの風情を残す一角がある…という書き出して掲載した神田神宮。神田神宮は、「史蹟神田神宮」と書かれ、「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と説明されている。また、伝説によれば、将門の首は生きたように目を見開き、歯ぎしりをしたという。さらに、ある夜、突然、首が笑いだし、白い光を放ちながら、自らの胴体を求めて、東の方向へ飛び去ったと言い伝えられる。その後、天変地異が相次ぎ、将門の霊を鎮めようと、各地に首塚が築かれる。最も有名な塚が東京都千代田区大手町のオフィス街にあるという。
この時に思いは東へ。いつか訪れたいと思っていたが、先日、たまたま仕事で行った先が東京都千代田区大手町。信号を渡ろうと待っていると、眼に飛び込んできたのが、『将門塚70m』という看板。「ンっ…これは…!」とちょっと寄り道。あいにくカメラを持っていなかったが、今は携帯電話のカメラがあるのでデジカメモードでパチリ。
この将門塚、正直、思っていたより明るい場所にあったのでびっくり。大都会のビルの合間に大切に祀られている。その様は、まるで怒りに触れないようにしているようだ。いずれにしても、京都・東京を結ぶひとつの記事が完成したと思う…今京都。