rrbのブログ - 2010/03/30のエントリ
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今京都 おもる 2010/03/30 12:00 am
おもる
食物を振る舞う。「試合に負けた者がオモルようにしよう」 供与するの意味のモルに接頭語オをつけた。「薬をモル」というときのモルは供与することである。もとは人に食わせるのがモルで、目上の人と飲食をともにするのがモルであった。「酒もり」のモリと同系。御馳走を盛り上げる意味ではなかった。「コーヒをオモル」というオモルが本来の語法で「奢る」からではない。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
摂関政治
平安時代、左大臣藤原冬嗣の次男良房(804〜872)は、嵯峨天皇に愛され11歳の時に皇女潔姫(きよひめ)を降嫁された。長じて842(承和9)年には有力貴族の伴健岑(とものこわみね)、橘逸勢らを謀反の容疑で流罪にし、皇太子恒貞親王をも廃した(承和の変)。良房の妹順子(じゅんし)が産んだ道康親王(のち文徳天皇)を新たに皇太子に擁立し、娘明子(めいし)をその妃とした。さらに文徳天皇と明子の間に生まれた清和天皇が即位すると人臣で最初の摂政になった。また、養子の基経は関白に上り、ここに摂関政治が幕を開けた。
藤原氏最盛期の道長を例にとれば、妹たちは二天皇を生み、娘たちは三天皇を生んだ。外威として確固たる地歩を占め、天皇以上の絶大な権力を握った。自らの権勢を満月にたとえて、「この世をば我が世とぞ思う望月」の心境にもなろう。藤原一族のなかでも摂関かは藤氏長者として一族を代表し、荘園や氏社、氏寺を一手に掌握した。その強固な基盤から、生まれながらに栄進を約束されたのである。

藤原氏の勢力が増大するにつれ、藤原氏内部でも主流・傍流で地位や収入の格差が広がっていった。興味深いことに藤原氏の系図を見てみると、主流(氏長者)=長男の家系という図式は当てはまらない。一例として藤原実頼は摂政・関白・太政大臣をつとめ、氏長者になり小野宮殿と呼ばれた。子や孫にも恵まれた(この家系を小野宮流という)にも関わらず、主流は弟の師輔(九条殿)の家系(九条流)へと移っていった。以後、摂政・関白は師輔の家系が相承し、摂関家の祖といわれる。
なぜそうなったかというと、実頼の子女は皇子を生まず、師輔の子女が皇子を生んだからである。天皇の姻戚になってこそ氏長者の資格ありと認められたのは、藤原氏の政治的特徴を示している。政治の表舞台で活動したのは男性であったが、裏舞台では常に女性が鍵を握った。

また、藤原氏躍進の時代は、わが国文化史上においても大きなターニングポイントとなった。唐が衰退し、遣唐使が廃止されると、中国文化の影響力は弱まっていった。仮名文字の広まり、国文学の発達、女流文学者の出現、浄土教の発達、美術・工芸・建築などで日本独自の発展を見せ、豊麗優雅な造形を生み出した。漢字の音を借りて日本語を表記する万葉仮名は、藤原時代に平仮名へと発展した。どちらも漢字を基礎としているが、万葉仮名は楷書体、平仮名は草書体をさらにくずした音節文字。女性が書き手の主体であったため、平仮名のことを「女手(おんなで)」ともいい、繊細な情趣を表す上で大きな役目を果たした。
いずれにしても、藤原氏は、皇室と姻戚関係を結び影響力を増大し、政権を握ったということか…今京都。(『京都のふしぎ発見』より)

食物を振る舞う。「試合に負けた者がオモルようにしよう」 供与するの意味のモルに接頭語オをつけた。「薬をモル」というときのモルは供与することである。もとは人に食わせるのがモルで、目上の人と飲食をともにするのがモルであった。「酒もり」のモリと同系。御馳走を盛り上げる意味ではなかった。「コーヒをオモル」というオモルが本来の語法で「奢る」からではない。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
摂関政治
平安時代、左大臣藤原冬嗣の次男良房(804〜872)は、嵯峨天皇に愛され11歳の時に皇女潔姫(きよひめ)を降嫁された。長じて842(承和9)年には有力貴族の伴健岑(とものこわみね)、橘逸勢らを謀反の容疑で流罪にし、皇太子恒貞親王をも廃した(承和の変)。良房の妹順子(じゅんし)が産んだ道康親王(のち文徳天皇)を新たに皇太子に擁立し、娘明子(めいし)をその妃とした。さらに文徳天皇と明子の間に生まれた清和天皇が即位すると人臣で最初の摂政になった。また、養子の基経は関白に上り、ここに摂関政治が幕を開けた。
藤原氏最盛期の道長を例にとれば、妹たちは二天皇を生み、娘たちは三天皇を生んだ。外威として確固たる地歩を占め、天皇以上の絶大な権力を握った。自らの権勢を満月にたとえて、「この世をば我が世とぞ思う望月」の心境にもなろう。藤原一族のなかでも摂関かは藤氏長者として一族を代表し、荘園や氏社、氏寺を一手に掌握した。その強固な基盤から、生まれながらに栄進を約束されたのである。

藤原氏の勢力が増大するにつれ、藤原氏内部でも主流・傍流で地位や収入の格差が広がっていった。興味深いことに藤原氏の系図を見てみると、主流(氏長者)=長男の家系という図式は当てはまらない。一例として藤原実頼は摂政・関白・太政大臣をつとめ、氏長者になり小野宮殿と呼ばれた。子や孫にも恵まれた(この家系を小野宮流という)にも関わらず、主流は弟の師輔(九条殿)の家系(九条流)へと移っていった。以後、摂政・関白は師輔の家系が相承し、摂関家の祖といわれる。
なぜそうなったかというと、実頼の子女は皇子を生まず、師輔の子女が皇子を生んだからである。天皇の姻戚になってこそ氏長者の資格ありと認められたのは、藤原氏の政治的特徴を示している。政治の表舞台で活動したのは男性であったが、裏舞台では常に女性が鍵を握った。

また、藤原氏躍進の時代は、わが国文化史上においても大きなターニングポイントとなった。唐が衰退し、遣唐使が廃止されると、中国文化の影響力は弱まっていった。仮名文字の広まり、国文学の発達、女流文学者の出現、浄土教の発達、美術・工芸・建築などで日本独自の発展を見せ、豊麗優雅な造形を生み出した。漢字の音を借りて日本語を表記する万葉仮名は、藤原時代に平仮名へと発展した。どちらも漢字を基礎としているが、万葉仮名は楷書体、平仮名は草書体をさらにくずした音節文字。女性が書き手の主体であったため、平仮名のことを「女手(おんなで)」ともいい、繊細な情趣を表す上で大きな役目を果たした。
いずれにしても、藤原氏は、皇室と姻戚関係を結び影響力を増大し、政権を握ったということか…今京都。(『京都のふしぎ発見』より)

