rrbのブログ - 2010/03/12のエントリ
ヘッダーナビゲーション
現在のカテゴリー位置
サイト全体のカテゴリーナビゲーション
今京都 ちょうずをつかう 2010/03/12 12:00 am
ちょうずをつかう
洗面する。筆者は小学三年生の作文(昭和9年当時は「綴方」)に「てうづをつかひに庭へ出た」と書いた。チョーズを「てうづ」、ツカウを「つかふ」と表記した。便所、大小便の意味でもチョーズ・オチョーズとも言った。そのころ「国語」は「読方」、「音楽」は「唱歌」、「算数」は「算術」のような科目名であった。学校の始業を知らせるリン(鈴)がリンリンと鳴った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
平安前期
桓武天皇は、国際都市・平安京の実現という壮図(そうと)を抱いていた。奈良時代から国家間交流のある渤海(ぼっかい)や新羅(しらぎ)はもとより、東アジアの盟主ともいうべき唐に対しても国威を顕示すべく堂々たる羅城門(都城の正門)をつくった。羅城門は、重層で入母屋造、瓦屋根の両端に鴟尾(しび)が輝き、楼の二層には兎跋毘沙門天が外敵ににらみをきかせていた。門の幅は約35m、奥行約9m、高さ約21m、正面柱間は七間で、そのうち中央五間に扉が入り、左右の一間は壁であったと考えられる。木部は朱塗りで、壁は白土塗り。門の手前には五段の石段があり、中国風の石橋(地名として残る唐橋)がかかっていた。

新都への訪問者はその壮麗な造りに息をのんだことであろう。羅城門をくぐれば幅85mの朱雀大路が真っ直ぐ北に伸び、左右は整然とした町並みが広がっていた。後世、鬼が巣くうような場所になろうとは、誰も想像すらできなかったはずである。羅城門が都の表玄関として威厳を保った期間は長くはなかった。建造後20年も経たない816(弘仁7)年、暴風により倒壊。門の幅と高さに比して奥行きがなく、もともと風には弱い構造だった。その時は再建されたが、980(天元3)年に再び倒壊し、以後は再建されることはなかった。

羅城門の北には東に東寺、西には西寺が同規模の寺域面積で並んでいた。西寺は990(正暦1)年にほぼ全焼、1233(天福1)年にも焼失して羅城門ともども荒廃した。西寺の位置する右京の衰退も一要因となった。東寺は現在も存在するが、西寺はわずかに礎石だけが往時の名残りをとどめるだけである。羅城門は平安京のうたかたの表玄関ということか…今京都。(『京都のふしぎ発見』より)
★関連記事はここ(←クリック)

洗面する。筆者は小学三年生の作文(昭和9年当時は「綴方」)に「てうづをつかひに庭へ出た」と書いた。チョーズを「てうづ」、ツカウを「つかふ」と表記した。便所、大小便の意味でもチョーズ・オチョーズとも言った。そのころ「国語」は「読方」、「音楽」は「唱歌」、「算数」は「算術」のような科目名であった。学校の始業を知らせるリン(鈴)がリンリンと鳴った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
平安前期
桓武天皇は、国際都市・平安京の実現という壮図(そうと)を抱いていた。奈良時代から国家間交流のある渤海(ぼっかい)や新羅(しらぎ)はもとより、東アジアの盟主ともいうべき唐に対しても国威を顕示すべく堂々たる羅城門(都城の正門)をつくった。羅城門は、重層で入母屋造、瓦屋根の両端に鴟尾(しび)が輝き、楼の二層には兎跋毘沙門天が外敵ににらみをきかせていた。門の幅は約35m、奥行約9m、高さ約21m、正面柱間は七間で、そのうち中央五間に扉が入り、左右の一間は壁であったと考えられる。木部は朱塗りで、壁は白土塗り。門の手前には五段の石段があり、中国風の石橋(地名として残る唐橋)がかかっていた。

新都への訪問者はその壮麗な造りに息をのんだことであろう。羅城門をくぐれば幅85mの朱雀大路が真っ直ぐ北に伸び、左右は整然とした町並みが広がっていた。後世、鬼が巣くうような場所になろうとは、誰も想像すらできなかったはずである。羅城門が都の表玄関として威厳を保った期間は長くはなかった。建造後20年も経たない816(弘仁7)年、暴風により倒壊。門の幅と高さに比して奥行きがなく、もともと風には弱い構造だった。その時は再建されたが、980(天元3)年に再び倒壊し、以後は再建されることはなかった。

羅城門の北には東に東寺、西には西寺が同規模の寺域面積で並んでいた。西寺は990(正暦1)年にほぼ全焼、1233(天福1)年にも焼失して羅城門ともども荒廃した。西寺の位置する右京の衰退も一要因となった。東寺は現在も存在するが、西寺はわずかに礎石だけが往時の名残りをとどめるだけである。羅城門は平安京のうたかたの表玄関ということか…今京都。(『京都のふしぎ発見』より)
★関連記事はここ(←クリック)

