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rrbのブログ - 2009/06のエントリ

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今京都 かもげじょう 2009/06/16 12:00 am

もげじょう
5月15日は葵祭。王朝絵巻さながらに行列は京都御所から下鴨神社、午後は上賀茂神社に向かう。「オトオリ」(路頭の儀)と言う。古くは賀茂祭といったが、奉仕の人が冠にアオイの葉をかざし、神輿などにアオイを結んだので葵祭と呼ばれる。両神社を「賀茂下上」(かもげじょう)といい、古文書では下鴨神社を上賀茂神社より先に記す。上社は賀茂別雷命(かもわけいかすものみこと)を、下社はその母、玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祭神とし、母を祭る神社を先にいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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の七口 (旧フォトヴィレッジ 2007年9月26日掲載)
京の七口とは、日本全国から都を目指す際の出入り口ポイントをさす。京の七口は「しちくち」とは言わない。必ず「ななくち」というということだが、辞典には「しちくち」と書かれている。しかし、京都の人は「ななくち」という。粟田口、丹波口、鞍馬口、荒神口などは現在でも地名や駅名として使われている。かつて東海道を東から西へ歩いて京を目指せばたどり着くのが京の東玄関・粟田口。丹後・丹波地方から山を越えて亀岡を経て、京に入れば丹波口。鞍馬方面から鞍馬街道を下りてくれば鞍馬口。坂本から比叡山を越えて洛中に入るには荒神口などなど。



いま、地下鉄鞍馬口駅のホームには「当駅は鞍馬寺の下車駅ではありません」と貼り紙がされている。確かにそうだ。七口という発想がなければ、鞍馬寺をめざす観光客が鞍馬口で降りてしまうのは無理もないこと。七口はやはり都ならではの「道の口」なのである。いっぽう七口の内側に暮らす京都人にはこれまた七口という意識がない。粟田口も荒神口も固有地名としてすっかり板についている。京の七口を数え始めたら、口と名のつく地名は多い。若狭から大原街道を経て出町に入れば大原口、鷹峯街道からの入口は長坂口、伏見へ通じる伏見口、竹田口や鳥羽口もあるし、東寺口もある。数えると七口どころではない。



京の七口は室町時代に出現したといわれる。しかし「七口」と呼ばれるもののその場所は決まったものではなく「京の出入り口の総称」のようであったらしい。室町幕府のもとでは、出入り口としての口が開かれていたというより、関所を設けて口を閉ざすことにより、通行税をとる窓口にしていた。街道に関所を設け、関銭を徴収するという方法は中世のころからすでに始まっていたが、そこに目をつけ、七口という新しい関所を生み出した。当然、関所は増えるし、位置も名称も一定ではなかった。やがて京の七口が整備されたのは豊臣秀吉の御土居(おどい)築造による。これは洛中を砦のように御土居で囲み、その周囲には堀をめぐらし「十の口ありと也。悪徒出走の時、早鐘をつかせ、それを合図に十門をたてて・・・」(「古今聴観」)とまさしく都の要塞めいてくるのだが、ここに記されたとおり、当時は十口あった。北から長坂口、鞍馬口、大原口、今道の下口(志賀道口、のちに荒神口)、粟田口、伏見口、竹田口、鳥羽口、東寺口、西七条口となっている。



ここで疑問が…なぜ七口なんだろう。十口とすればよいものを。江戸時代の人もそう思ったのか、江戸時代には主要街道である京の七道と七口を結びつけたりもしているが、それでもなおおさまりきらない。「鳥羽口、伏見口、丹波口、粟田口、八瀬口、若狭口、長坂口」とも「東寺口、竹田口、五条橋口、大原口、三条橋口、千本口、七条口」ともいうと、但し書きがついている。但し書きのたびに新しい口が増えているのも面白い現象だ。「口(くち)」のお話だけに少しおしゃべりが過ぎたような気がする…今京都。 ※写真は京都嵯峨化野念仏寺で本文とは関係ないのであしからず。


 

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今京都 どんつき 2009/06/14 12:00 am

んつき
突き当たり。「そこのドンツキを右へ行って三軒目のおうちどす」 どんと突き当たったところの意。ドンケツは最後、びりのことで「いつもドンケツ走ってたんや」 ドンは罵りの接頭語。ケツは尻、もとは穴の意味。また、抜け路地のことをズシという。京都には白梅図子(しらうめずし)・定家図子(ていかずし)のような地名も残る。「物類称呼」には「辻子(ずし)京にていふ。江戸大坂ともに、ろじといふ」とある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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蔵物語(265)




 

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今京都 おいど 2009/06/13 12:00 am

いど
尻。御所ことばでオイドという。室町時代から使用。「いど」の「い」は居る、座る所の意。祇園花街の京舞では「オイドおろして、きびすをあげる」のが基本的姿勢である。オイドカケは尻からげ。女性が着物の裾を帯の後ろにからげること。「オイドカケせんと裾が濡れますえ」 以前は、相手の和服の裾をまくって戯れる子ども遊び「オイドマクリ」がよくはやった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月15日掲載)
京の七野(ななの)とは、紫野(むらさきの)、北野(きたの)、平野(ひらの)、上野(うえの)、蓮台野(れんだいの)、内野(うちの)、そして七つめが〆野(しめの)。最後の〆野は萩野(はぎの)、または御栗栖野(おぐるすの)を入れる説もある。京の北に広がる野の総称で、平安期以来の朝廷の遊猟地、また大宮びとが若菜や草花を摘み、日がな遊んだ清浄な野であったらしい。



大徳寺あたりの紫野、北野天満宮の北野、平野神社のある平野は現在も地名にあるのでわかりやすい。上野は今宮神社の東、上野街道の名が残る。蓮台野は上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)や千本えんま堂が葬送地の名残をとどめている。船岡山の西方向、紙屋川までの一帯。内野は平安京の大内裏あたりで、いま「大極殿(だいごくでん)」遺跡の碑が建つ千本丸太町上ル西入ルの公園は内野児童公園である。しかし一般に内野といえば、かつて北野の森が下ノ森まで広がっていたその南側。平安京の中心が次第に東に移動したために大内裏は西からさびれて野になったのだという。



西陣の一角に櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)というところがある。京の七野といえば必ず登場し、一説には七野を祀る総社だといわれている。奥まった地で普段は訪れる人もいない。しかし、このあたりが賀茂社(かもしゃ)に仕える斎王(さいおう)が潔斎した賀茂(紫野)斎院のあった場所だという。七野神社は斎院跡を社にしたものとみられている。



賀茂斎院とは、下鴨・上賀茂両神社に奉仕するための斎王に選ばれた未婚の皇女が身を清めて住まわれた常の御所。約150m四方の広大な敷地は内院と外院にわかれ、ほぼ500人の官人や女官が仕えていたという。葵祭になると、斎王の行列はここから大宮通を通って、本行列に加わったので「斎王行列発祥の地」とされている。810(弘仁元)年、嵯峨天皇の皇女が初めての斎王に選ばれてより約400年間、この紫野の地に賀茂斎院は続いていたが、1212(建暦2)年、後鳥羽天皇皇女を最後に廃絶した。



葵祭では近年、その年に選ばれた斎王代が斎院跡である七野神社にお詣りすることもはじまっている。葵祭のヒロインは昔が斎王なら、今は斎王代。つまり、かつて未婚の皇女がつとめた斎王の役を、代理で果たすのが「斎王代」というわけだ。



京の七野から、七野神社、賀茂(紫野)斎院、葵祭の斎王代へと思いがけないつながりをもってしまった。知らなければ立ち止まることもない七野神社と葵祭が一本の線でつながるとは不思議な縁だと思った…今京都。


 

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今京都 ぶっちゃけたこと 2009/06/11 12:00 am

っちゃけたこと
「ブッチャケタコト言うと」は本当のことを言うとの意。ブッチャケは「打ち明ける」に基づく。入れ物に入った物をひっくり返すのもブッチャケル。ブッチャケバナシは「あからさまな話」 近年、「ブッチャケ」だけで若者が使用を広めた。「ブッチャケせこいな」は高齢層なら「ブッチャケタコト言いますと、ずるいことどすな」「打つ」を「ぶつ」というのは多地域に見られる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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京・下京 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月2日掲載)
左京・右京のお話をしたら、当然、次は上京(かみぎょう)・下京(しもぎょう)のお話をしなければならない。昔の京都は上京と下京であった。この境界線は現在の二条通となる。平安京はもともと左京(さきょう)・右京(うきょう)の区画だったが、右京が衰退し、左京が中心になるにつれ、京の町の形は次第に南北に長いものとなっていった。これを二分して、御所のあるほうを「上(かみ)」、南のほうを「下(しも)」とすることは、そのころに既に始まっていたようである。



次のきっかけは室町幕府の三代将軍・足利義満が、烏丸と室町の間、今出川と上立売(かみだちうり)の間に「花の御所」を開いたことによる。花の御所の周辺に公家・武家が集まるようになり、それを対象とした御用商人、有職(ゆうそく)技術者などが移り住んで、御所の北にあたる上の地域が広がっていった。これに対して、下京は商家、職人のまちといった色彩を帯び、町衆の強い結束力を育てていった。このころから「上・下」の対比が広く用いられるようになり、やがて「上京・下京」の呼び名がおびただしく登場するようになる。



16世紀、上京には120町、下京には66町の町内があったという。そして、それぞれの公会堂の役目をしたのが、上京では一条革堂(いちじょうこうどう)で、下京では六角堂(ろっかくどう)である。いずれも現在の中京区となる。これらのお堂では、最高の意思決定機関である合議機関の会議も開かれた。下京の六角堂で、町衆により鐘が寄進され、兵乱や一揆、天災などがあれば早鐘を撞いて町中に知らせたり、祇園祭の山鉾巡行のくじ取りなども行なわれた。この「上京・下京」は、明治維新後も変わらず、大正から昭和初年まで長らく続くことになる。中京・左京・東山区が生まれて5区になったのは1929(昭和4)年のこと。ついで1931(昭和6)年に右京・伏見区が誕生。上京・下京より北・南区が分かれたのは1955(昭和30)年、山科・西京区ができて現在の11区になったのは1976(昭和51)年であった。



「上・下」は京都においては方角をも示す。「上(かみ)の方へ」といえば「北の方へ」という意味になる。京の町には独特の地域的概念があって、皆が暗黙の了解のもと、上京・下京をきわめて正確に使い分けている。
「どちらへいきはります?」
「下(しも)のほうへ」
ガソリンスタンドなどで車を誘導される時の何気ない会話にも「上京・下京」的世界に生きていると実感することがある…今京都。 ※写真は京都嵯峨化野念仏寺で本文とは関係ないのであしからず。


 

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今京都 なりくそわるい 2009/06/09 12:00 am

りくそわるい
体裁が悪い。「歩きながらパン食べてナリクソワルイ」 ナリは体裁。クソは罵りの意。ナリガワルイとも。「そんなナリガワルイことせんといて」 若者は「カッコウワルイ」という。「袋ナリ(袋のまま)持って行き」「皮ナリ(皮ごと)食べてもええ」のナリは、その状態のままのこと。「すぐに」の意味もある。「帰ってくるナリ飛び出していった」 ナルハナシのナルは「成る」で、うまくまとまる話。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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京・右京 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月1日掲載)
京都の地図を見れば右に左京区、左に右京区。京都で暮らし始めたときにややこしかったのがこの右京区・左京区。地図の感覚で行くと逆。右京・左京配置の原則は、平安京造営の時点にさかのぼる。平安京は、中国の長安(現在の西安市)をお手本にして造られた。朱雀門から羅城門まで南北に通じる朱雀大路(現・千本通り)は道幅が約85メートル。そのメインストリートを中心に、大きく右京・左京に二分されるのだが、その右左は「天皇から見て」が基本となる。



古く中国や朝鮮では「天子は南面(なんめん)す」。すなわち国の君主は南に向って政治を執るとされていた。それをお手本にした平安京であるから、天皇が大内裏から南に向って、右(西)が右京、左(東)が左京となる。地図は北を向ってつくられているから全く逆になるというわけ。平安京造営当時の右京はお手本となった長安にちなんで「長安城」と呼ばれ、対して左京は「洛陽城」と呼ばれていた。人間の心理や都市構造、そして政庁の関係で、人々は太陽の昇る方向、東へ東へと住み移るようになり、左京が発展していき、右京がさびれてしまった時期がある。そのため、左京の代名詞であった洛陽が、京都の代名詞として有名になった。京都に来ることを上洛、都の内側を洛中、外を洛外などというのはそのためだという。



平安京の右京・左京は、実質的には左京が中心となっていった。そこで平安京の大内裏を東に移したのが、今の京都御所の位置である。御所のなかでも、宮中のさまざまな儀式をとり行ってきたのが紫宸殿(ししんでん)。「天子は南面す」の原則通り、紫宸殿も南に向って建てられており、紫宸殿の広大な前庭は「南庭」と呼ばれている。ここにおいても「右左問題」が発生する。「左近の桜」と「右近の橘」である。紫宸殿の前の南庭に植えられている桜と橘の木、これらは天皇が紫宸殿から眺めたとき、左手に左近の桜、右手に右近の橘となる。紫宸殿に向って見るのとは逆になる。この配置は結構寺社仏閣は取り入れている。



わかってしまえば簡単なお話なんだけれど、地図との感覚の違いがとても邪魔をしてしまう。ちなみにパリのセーヌ川は川の上流を背に下流に向って立ったとき、右手が右岸、左手が左岸としているということだ…今京都。 ※写真は京都嵯峨化野念仏寺で本文とは関係ないのであしからず。


 

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