rrbのブログ - 2009/06/11のエントリ
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今京都 ぶっちゃけたこと 2009/06/11 12:00 am
ぶっちゃけたこと
「ブッチャケタコト言うと」は本当のことを言うとの意。ブッチャケは「打ち明ける」に基づく。入れ物に入った物をひっくり返すのもブッチャケル。ブッチャケバナシは「あからさまな話」 近年、「ブッチャケ」だけで若者が使用を広めた。「ブッチャケせこいな」は高齢層なら「ブッチャケタコト言いますと、ずるいことどすな」「打つ」を「ぶつ」というのは多地域に見られる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
上京・下京 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月2日掲載)
左京・右京のお話をしたら、当然、次は上京(かみぎょう)・下京(しもぎょう)のお話をしなければならない。昔の京都は上京と下京であった。この境界線は現在の二条通となる。平安京はもともと左京(さきょう)・右京(うきょう)の区画だったが、右京が衰退し、左京が中心になるにつれ、京の町の形は次第に南北に長いものとなっていった。これを二分して、御所のあるほうを「上(かみ)」、南のほうを「下(しも)」とすることは、そのころに既に始まっていたようである。

次のきっかけは室町幕府の三代将軍・足利義満が、烏丸と室町の間、今出川と上立売(かみだちうり)の間に「花の御所」を開いたことによる。花の御所の周辺に公家・武家が集まるようになり、それを対象とした御用商人、有職(ゆうそく)技術者などが移り住んで、御所の北にあたる上の地域が広がっていった。これに対して、下京は商家、職人のまちといった色彩を帯び、町衆の強い結束力を育てていった。このころから「上・下」の対比が広く用いられるようになり、やがて「上京・下京」の呼び名がおびただしく登場するようになる。

16世紀、上京には120町、下京には66町の町内があったという。そして、それぞれの公会堂の役目をしたのが、上京では一条革堂(いちじょうこうどう)で、下京では六角堂(ろっかくどう)である。いずれも現在の中京区となる。これらのお堂では、最高の意思決定機関である合議機関の会議も開かれた。下京の六角堂で、町衆により鐘が寄進され、兵乱や一揆、天災などがあれば早鐘を撞いて町中に知らせたり、祇園祭の山鉾巡行のくじ取りなども行なわれた。この「上京・下京」は、明治維新後も変わらず、大正から昭和初年まで長らく続くことになる。中京・左京・東山区が生まれて5区になったのは1929(昭和4)年のこと。ついで1931(昭和6)年に右京・伏見区が誕生。上京・下京より北・南区が分かれたのは1955(昭和30)年、山科・西京区ができて現在の11区になったのは1976(昭和51)年であった。

「上・下」は京都においては方角をも示す。「上(かみ)の方へ」といえば「北の方へ」という意味になる。京の町には独特の地域的概念があって、皆が暗黙の了解のもと、上京・下京をきわめて正確に使い分けている。
「どちらへいきはります?」
「下(しも)のほうへ」
ガソリンスタンドなどで車を誘導される時の何気ない会話にも「上京・下京」的世界に生きていると実感することがある…今京都。 ※写真は京都嵯峨化野念仏寺で本文とは関係ないのであしからず。

「ブッチャケタコト言うと」は本当のことを言うとの意。ブッチャケは「打ち明ける」に基づく。入れ物に入った物をひっくり返すのもブッチャケル。ブッチャケバナシは「あからさまな話」 近年、「ブッチャケ」だけで若者が使用を広めた。「ブッチャケせこいな」は高齢層なら「ブッチャケタコト言いますと、ずるいことどすな」「打つ」を「ぶつ」というのは多地域に見られる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
上京・下京 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月2日掲載)
左京・右京のお話をしたら、当然、次は上京(かみぎょう)・下京(しもぎょう)のお話をしなければならない。昔の京都は上京と下京であった。この境界線は現在の二条通となる。平安京はもともと左京(さきょう)・右京(うきょう)の区画だったが、右京が衰退し、左京が中心になるにつれ、京の町の形は次第に南北に長いものとなっていった。これを二分して、御所のあるほうを「上(かみ)」、南のほうを「下(しも)」とすることは、そのころに既に始まっていたようである。

次のきっかけは室町幕府の三代将軍・足利義満が、烏丸と室町の間、今出川と上立売(かみだちうり)の間に「花の御所」を開いたことによる。花の御所の周辺に公家・武家が集まるようになり、それを対象とした御用商人、有職(ゆうそく)技術者などが移り住んで、御所の北にあたる上の地域が広がっていった。これに対して、下京は商家、職人のまちといった色彩を帯び、町衆の強い結束力を育てていった。このころから「上・下」の対比が広く用いられるようになり、やがて「上京・下京」の呼び名がおびただしく登場するようになる。

16世紀、上京には120町、下京には66町の町内があったという。そして、それぞれの公会堂の役目をしたのが、上京では一条革堂(いちじょうこうどう)で、下京では六角堂(ろっかくどう)である。いずれも現在の中京区となる。これらのお堂では、最高の意思決定機関である合議機関の会議も開かれた。下京の六角堂で、町衆により鐘が寄進され、兵乱や一揆、天災などがあれば早鐘を撞いて町中に知らせたり、祇園祭の山鉾巡行のくじ取りなども行なわれた。この「上京・下京」は、明治維新後も変わらず、大正から昭和初年まで長らく続くことになる。中京・左京・東山区が生まれて5区になったのは1929(昭和4)年のこと。ついで1931(昭和6)年に右京・伏見区が誕生。上京・下京より北・南区が分かれたのは1955(昭和30)年、山科・西京区ができて現在の11区になったのは1976(昭和51)年であった。

「上・下」は京都においては方角をも示す。「上(かみ)の方へ」といえば「北の方へ」という意味になる。京の町には独特の地域的概念があって、皆が暗黙の了解のもと、上京・下京をきわめて正確に使い分けている。
「どちらへいきはります?」
「下(しも)のほうへ」
ガソリンスタンドなどで車を誘導される時の何気ない会話にも「上京・下京」的世界に生きていると実感することがある…今京都。 ※写真は京都嵯峨化野念仏寺で本文とは関係ないのであしからず。

