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rrbのブログ - 2009/06のエントリ

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今京都 おくれやす 2009/06/30 12:00 am

くれやす
ください。「そこのタバコ取ってオクレヤス」 オ〜ヤスの形式で敬意を表す。相手によってオクンナハレといい、丁寧にオクレヤサシマヘンカ(いただけないでしょうか)と使い分ける。「もうちょっとハンナリした生地をオクレヤサシマヘンカ」 くだけた言い方としてオクナイとも。「そこのハサミ取ってオクナイ」「きれいな色紙オクナイな(くださいな)」 南山城ではクダンセ、クランセという。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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電(路面電車)と哲学の道 (旧フォトヴィレッジ 2007年6月30日、7月1日掲載)
梅雨の間のある晴れた日、実際に京都市内を走っている市電(路面電車)を見た記憶がないが、その市電(路面電車)に、突然、触れたくなり京都市左京区にある「哲学の道」に出かけた。路面電車なのになぜ「哲学の道」やねん? と訝しむ方もいるかも知れないが、そこはそこ。春は桜、秋は紅葉の名所として知られるこの「哲学の道」は、哲学者の西田幾多郎が思策に耽りながら歩いたという逸話から名前が付けられた。



花は期待していなかったけれど、思いかけず紫陽花に出迎えられたのは嬉しかった。「哲学の道」、北は銀閣寺から南は若王子(にゃくおうじ)に至る約1.5kmの琵琶湖疎水分流沿いの小径。もともと「思索の小径」と呼ばれていた。しかし、近代を代表する哲学者の西田幾多郎が好んで散策し、思索にふけったことなどから「哲学の道」・「哲学の小径」と呼ばれるようになった。近辺には銀閣寺・法然院・安楽寺・永観堂等、名所・旧跡も豊富で、春には約500本の桜のトンネル・初夏(5月下旬〜6月中旬)にはゲンジボタルの乱舞。そして秋の紅葉と四季それぞれに美しさを持ち、琵琶湖疎水分流のおだやかな流れとともに道行く人の眼を楽しませてくれる。



1968(昭和43)年に整備され、1986(昭和61)年、「日本の道百選」に選定された。自然石の石畳が足に優しく、決して急ぐことなくブラブラ歩くにはほどよい快さがある。「哲学」とはほど遠いが、何を考えることもなく、ただ気の向くまま、足の向くまま、前行く人を抜かすことなく、自分の空間を保ちながら歩けるのが嬉しい。





京都から市電(路面電車)が完全に消えたのは1978(昭和53)年9月30日。皮肉なことに市電(路面電車)全廃からわずか四半世紀ほどで、もう市電復活待望論が聞こえている。いつぞやの新聞にも「ひとにも、環境にもやさしい、都市型公共交通は路面電車」と記載されていた。京都における日本最初の市電(路面電車)のことは、今ではクイズにもなるほどで、その正解の珍妙さは思わず笑ってしまう。そのクイズとは、昔の電車には「電車がきまっせ、あぶのおっせ」と、電車の前を走って通行人に危険を知らせる「先走り」という少年がいたというもの。初期の電車は時速約10kmと遅いので、直前を横切る人も多く、かえって危険なために、昼は旗、夜は提灯をもって少年が先を走ったのだとか。なんとものどかな雰囲気で微笑ましい感じがする。



市電(路面電車)はとうの昔になくなったが、市内のあちこちには、市電(路面電車)が通った跡をとどめる通りがある。四条大宮から京都では珍しい斜め45度にのびる後院通(こういんどおり)は、1912(明治45)年の市電(路面電車)開業時にできた壬生車庫(みぶしゃこ)へ通じる道。西洞院通(にしのとういんどおり)、下立売通(しもだちうりどおり)の烏丸−堀川、塩小路−七条の東洞院通(ひがしとういんどおり)や高倉通、寺町通の二条−今出川などが他の街なかの通りにくらべて少し広いのは、かつて市電(路面電車)が走っていたため。河原町五条の東南に、五条と河原町を斜めにつなぐ道があるが、これも古い電車通。千本中立売(せんぼんなかだちうり)から北野へ抜ける道、木屋町二条や寺町二条の道が弧を描いてカーブするのも、電車が走る姿を想像できる。



この市電(路面電車)の路線の敷石は、今もなお残っている。その場所が、この「哲学の道」。そう、この「哲学の道」の石畳に使用されているのが、市電(路面電車)を支えた自然石。ここを訪れたのはそのため。意外なところにリサイクルされている。



この石畳の軌跡は、どことなしか線路に見えるのもそういったことからかも知れない。ここに佇んでいると、カーブの向こうから「ガタンゴトン」と市電(路面電車)が近づいてきそうな気がする。ゆったりとした時間が流れている「哲学の道」。梅雨の合間の晴れた日の短い間だったけれど、市電(路面電車)に充分触れることができた。



それにしても、このまったり感がとてもいい。「哲学の道」を歩く人には「先走り」少年の「電車がきまっせ、あぶのおっせ」という言葉が、「急いだら、あぶのおっせ。長い人生、ゆっくり行きなはれ」という声となって聞こえているのかも知れない。そんな錯覚をしてしまうくらい時間がゆっくりと流れていると感じる、ここは市電(路面電車)の敷石を再利用している「哲学の道」…今京都。


 

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今京都 おくどさん 2009/06/28 12:00 am

くどさん
塗りかまどの敬称。かまどの神である三宝荒神を祭る。「くど」にオとサンをつけて最高敬語とする。「くど」は火処(ほど)からで、曲突と書く。「オクドサンでご飯炊いてたのに、今は電気釜の時代や」 三つかまど、五つかまど、七つかまどのものがあったが、電化時代になって使われなくなった。大阪ではヘッツイ。「へ」は食物を入れる器。ツは「の」の意。「竈(へ)つ霊(ひ)」からいわれ始めたとも考えられる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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蔵物語(266)




 

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今京都 いきる 2009/06/27 12:00 am

きる
「えらいイキッテルな、なんぞええことあったんか」「あんまりイキルと体こわすで」「そんなにイキルと後が続かへんえ」 調子に乗る、気張る、息づかいを荒くしてたてつく、怒るのような意味がある。息(「いき」)を活用させたものか。キバルは、力む、努力する。「あんまりキバルと体にこたえる」 奮発するの意味もある。「もうちょっとキバッテんか」は値段を安くすること。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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山禅院(せきざんぜんいん)/五十払い (旧フォトヴィレッジ 2007年8月5日掲載)
関西には「五十払い」という面白い風習がある。これは「ごとばらい」と読む。「五十払い」は「五十日」(ごとび)ともいい、その意味は、毎月5と10のつく支払い日のこと。毎月の5、10、15、20、25、30を集金日とする関西の商い習慣から「ゴトバライ」とか「ゴトビ」と呼ばれている。現実には「えらい渋滞してる思うたら、今日はゴトビやん」とか、交通渋滞の理由に使われることが多い。



関西のテレビやラジオでは、実際に交通情報で「今日はゴトバライですから、渋滞が予想されます」などと、この言葉が堂々と電波に乗っている。このゴトバライのルーツが、京都洛北の赤山禅院(せきざんぜんいん)にあるという。赤山禅院は比叡山登山口に近い、修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)の北にあり、比叡山ただひとつの山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。



この赤山禅院からゴトバライの風習が始まったとはいったいどういうことだろう。赤山禅院といえば「へちま加持(かじ)」によるぜんそく封じや無病息災で知られる寺。しかし、また「懸寄(かけよ)せの神」でもあるという。寺が神というのは奇妙だが、ここには実際に1枚めに掲載したように鳥居があり、ご神体を祀っていて、禅院にして神社の造りなのである。



懸寄せとは、すなわち「集金にご利益がある」ということ。毎月5日が1年のうちでめったに訪れない申(さる)の日に重なったとき、赤山禅院にお詣りをすると吉運に恵まれるという言い伝えがある。そのことから江戸時代には毎月5日を集金日とする習慣が生まれ、商人たちはこの寺に5日講詣りをしてから集金に出かけるようになった。ここから「五十払い」の風習が始まったという。





赤山禅院からはるか西、嵯峨の車折(くるまざき)神社にも、スムーズな集金を祈願する人が多いという。車折神社は清原頼業(きよはらよりなり)を祀る神社で頼業の「より」がお金の寄りをよくし、「なり」で商売が成り立つのだとか。あっけないほど単純明快であるが、本当にご利益があるのかどうか。こちらも江戸時代に始まったというから、江戸時代の商人たちは、よっぽど集金で苦労したのだろうか。



赤山禅院は千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)の行者にはゆかりが深く、京都御所から東北の方角にある鬼門として、赤山の拝殿屋根の赤猿は御所の東北隅に置かれた木彫りの猿(猿ヶ辻の猿)と互いに向き合っていると伝えられている。



本殿に掲げられた「皇城表鬼門(こうじょうおもてきもん)」の文字にはそうした意味がこめられているという。いずれにしても関西で日常的にある「五十払い」のルーツも京都にあったというお話…今京都。


 

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今京都 いけず 2009/06/25 12:00 am

けず
「イケズばっかりしやはる」 意地悪の意味。意地悪する人はイケズシー。江戸時代には「いかず」といい、尋常には行かぬの意。女の子が遊ぶとき、「池の端(はた)のずいき」といってイケズする人を茶化した。ずいきは里芋の茎。池のイケ、ずいきのズと、イケズの三文字が含まれる洒落ことばである。イケズをいったり、イケズなことをするのが、京女の知恵でもあり、イケズの雰囲気は楽しみでもあった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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条通と松原通と五条天神宮と (旧フォトヴィレッジ 2007年8月17日〜20日掲載)



京の五条の橋の上
大の男の弁慶は
長い薙刀(なぎなた)ふりあげて
牛若めがけて切りかかる

これは、作詞作曲不詳/文部省唱歌(1年)の「牛若丸(うしわかまる)」の歌の1番。この歌で歌われているとおり、五条大橋の西詰めには牛若丸と弁慶の愛らしい石像が立っており、牛若丸と弁慶が出会った場所といわれている。しかし、牛若丸と弁慶が対峙した五条の橋は実はここでなかったという説がある。このお話には五条通そのもののお話も欠かせないものがある。かつて平安京に貫かれた一条から九条までの大路。千年以上も経った今も、一条から九条までの通りは健在。ところが五条に限っては、今の五条通とちがって、現在の松原通が旧の五条通にあたるという。







この松原通は「松原京極」という商店街をも築いている。そして「義経・弁慶ゆかりの街」というシールが通りの安全を確保する街路灯の支柱にペタペタと貼られている。実はこの通りこそ、牛若丸と弁慶の出会いの場だといわれている。この松原通りは、安土桃山時代から江戸初期の頃、松並木が続く道だったことから「五条松原通」と呼ばれていた。しかし、いつしか「五条」を略して「松原通」の呼び名になってしまった。そこで消えた「五条通」の名を復活させようと、六条坊門小路を五条通と改めたという。
手元に京都の市街地図があればもっとわかりやすい。今の四条〜五条の間が、他の通りと比べると随分間隔が広い。二条〜三条間は、押小路、御池、姉小路の三筋。三条〜四条間は、六角、蛸薬師、錦小路の三筋。ところが、四条〜五条間は綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺と五筋もある。地図上で見ても、整然と並んだ洛中碁盤の目の中で四条〜五条間だけが何故か離れている。しかし、松原通が本来の五条通だったとすると、その間に三筋はさんで、ぴったりと合うことになる。



というわけで、今の松原通にかかる「松原橋」が「旧五条橋」ではないかとの想像が駆け巡る。この橋は清水寺の参道にあたるため古くからかけられており、清水さんへお詣りにいくための「清水橋」とも、また清水寺の僧の勧進によってかけられたので「勧進橋」とも呼ばれていた。牛若丸と弁慶の出会いも、この松原橋といわれている。松原橋を渡ってみると、東山三十六峰が美しい稜線を描く、なんとも絵になる眺めである。
いっぽう現在の五条通にはじめて橋がかけられたのは天正年間(1573〜91)。豊臣秀吉が方広寺大仏殿を造営するにあたって、鴨川に橋をかけよと命じたらしい。牛若丸と弁慶が出会ったとされる1176年には、今の五条大橋は存在しなかったことになる。となると、やはり今の五条通ではなく、この松原通が牛若丸と弁慶の出会いの場となり、橋も松原橋ということになるのか…。お話はすんなりと終わらしてくれない。牛若丸と弁慶の出会いは、実は松原橋(旧五条橋)でもなく、五条天神社の境内が舞台だという説もある。そもそも牛若丸と弁慶の物語は室町時代の「義経記(ぎけいき)」などによって伝えられたもの。真偽のほどは不明であるが、五条天神社がなんらかの鍵を握っていそうだ。



五条天神社は794年、桓武天皇の平安遷都にあたり、大和の国から天神を勧請したという歴史をもつ古社。かつては代々天皇が参詣し、伝教大師や弘法大師も、ここに安全を祈願して唐に渡ったという社記が残っていたとのこと。中世には境内の広さが東西四町、南北五町におよび、周囲はうっそうたる森におおわれていた。その境内にはかつて西洞院(にしのとういん)川が流れ、橋はそこにかかっていたというのである。



五条天神社を訪ねてみると、庶民的な雰囲気のある松原商店街の一角にあたり、橋も川も森も、当然のことながら姿をとどめない。おまけに境内に高層マンションが建てられ、その下にかろうじてお社が残っている状態。街の片隅にあり見過ごしてしまいそうな神社だが、よく見ると確かに、ただならぬ荘厳さを漂わせている。「義経記」によると弁慶が999振りの太刀を奪い、あと一振りを祈願して五条天神社に詣り、そこで待ち伏せしているときに牛若丸と出会う。そこで勝負に挑むのだが、牛若丸はゆらりゆらりと飛び渡り、弁慶はその天狗のハヤワザに到底かなわない。翌日、弁慶は清水寺に参詣し、そこで牛若丸を再び待ち伏せて、再び討ちあいとなる。ところは清水の舞台。しかし、弁慶はまたしても負け、牛若丸に主従の誓いをするというもの。この話がもとになって、五条天神社と清水の舞台という二箇所の設定がいつしか清水へ向う道と五条の橋ということで、松原橋(旧五条橋)にむすびついたというのである。



五条天神社は祭神に大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなびこなのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る。これは鞍馬寺の鎮守社である由岐(ゆき)神社と共通する祭神で、鞍馬と五条天神社は牛若伝説でつながっているのかも知れない。五条天神社はまた、古来から「天使社(てんししゃ)」という名前をもち、医道、まじないの神としてあがめられてきた。9月1日と節分にはおけらと小餅、宝船などを宮中へ献じたそうで、この宝船図は日本最古の宝船として珍重されている。江戸時代には、参詣者で大いに賑わったという。神社は応仁の乱など度重なる兵火に巻き込まれ、由緒書は残らない。頼るのは義経記などの書物の記述のみだという。1961(昭和36)年には鴨川の五条大橋西詰めに義経と弁慶の石像が完成した。義経と弁慶の物語は鎮守の森から橋の上へと対決の場を移す。


(五条橋)


(松原橋)

物語の場となる松原橋も五条橋も今は車が絶え間なく行きかって騒々しいが、義経と弁慶の物語は世紀を超えて私たちを楽しませ続けていることには変わりない。付近には今も「天使突抜(てんしつきぬけ)」という地名が並ぶ。キリシタンとのゆかりを考える向きもあるというが、もしそうだとすると、「天使社」と名づけられた古代に一体何があったのだろう。異界伝説を想像してみたくなる「まじないの神様」である。また、好奇心が鎌首を持ち上げてきそうな…今京都。


 

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今京都 けなりい 2009/06/23 12:00 am

なりい
うらやましい。「おうちの子たちは、みなようおできになるさかいケナリイわ」 ケナルイとも。もとは「異(け)なり」から。「けなり」に「い」を付けて形容詞にした。普通とは違っている、特異である、殊勝な、の意味に基づく。ケナゲ(健気)はもと「けなりげ」からで、勇ましい、健やかな、子どもなどが懸命に努めるさまを指す。また、ウラヤム(羨む)り「うら」は心。心が病むから妬(ねた)むの意味になった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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ヶ辻 (旧フォトヴィレッジ 2007年7月5日掲載)
京都御所を囲む築地塀。その北東角の辺りを「猿ヶ辻(さるがつじ)」と呼ぶ。



御所の鬼門にあたるここは魔よけのために塀の角がへこませてある。そして、よく見ると、軒下に御幣を持った猿の彫像が祭られている。幕末の動乱期、この「鬼門よけ」のへこみに何者かが身を潜め、尊皇攘夷派の若い公家を暗殺する事件が起きた。1863年5月の「猿ヶ辻の変」。「猿ヶ辻の変」は歴史小説の題材にもなり、司馬遼太郎の作品などに描かれている。





その「猿ヶ辻の変」のお話とは…。
襲われたのは当時、三条実美とともに攘夷派の中心人物だった姉小路公知。日米修好通商条約の締結に反対し、前年には朝廷の副勅使として幕府に攘夷実行を強く迫っていた。5月20日夜、御所での会議を終えて門を出た公知は従者3人とともに帰途につく。猿ヶ辻に差しかかった時、突然、刀を持った黒い影に道を遮られた。公知は従者に「太刀を」と求めたが、太刀と提灯を持った従者2人は後ずさりして逃げてしまう。公知は手元にあった扇で応戦するほかなく、顔や胸を切られて重傷を負った。残った一人の従者に抱えられて屋敷に戻ったが、まもなく息絶えたという。



後に、凶漢は三人で、公知は胸に深さ12cmの傷を負いながらも、相手の太刀を奪って切り返したという。また、突然の訃報に、京都では「泣く者ばかり」だった、ともいわれている。事件後、犯人として一人の薩摩藩士が浮上し、取り調べられた。しかし彼は詳細を語らないまま自殺してしまう。誰の陰謀で誰が実行したのか、真相は歴史の闇、というもの。



このへこみにたたずんでいると、確かに、死角になる。もしも「鬼門よけ」という死角がなかったら、待ち伏せは成功しなかったかもしれない。あの夜、築地塀から真犯人を見ていたであろう猿の彫像は、今もただ静かに座っている、ここは京都御所の「猿ヶ辻」…今京都。


 

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