rrbのブログ - 2009/06/13のエントリ
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おいど2009/06/13 12:00 am
おいど
尻。御所ことばでオイドという。室町時代から使用。「いど」の「い」は居る、座る所の意。祇園花街の京舞では「オイドおろして、きびすをあげる」のが基本的姿勢である。オイドカケは尻からげ。女性が着物の裾を帯の後ろにからげること。「オイドカケせんと裾が濡れますえ」 以前は、相手の和服の裾をまくって戯れる子ども遊び「オイドマクリ」がよくはやった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
七野 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月15日掲載)
京の七野(ななの)とは、紫野(むらさきの)、北野(きたの)、平野(ひらの)、上野(うえの)、蓮台野(れんだいの)、内野(うちの)、そして七つめが〆野(しめの)。最後の〆野は萩野(はぎの)、または御栗栖野(おぐるすの)を入れる説もある。京の北に広がる野の総称で、平安期以来の朝廷の遊猟地、また大宮びとが若菜や草花を摘み、日がな遊んだ清浄な野であったらしい。

大徳寺あたりの紫野、北野天満宮の北野、平野神社のある平野は現在も地名にあるのでわかりやすい。上野は今宮神社の東、上野街道の名が残る。蓮台野は上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)や千本えんま堂が葬送地の名残をとどめている。船岡山の西方向、紙屋川までの一帯。内野は平安京の大内裏あたりで、いま「大極殿(だいごくでん)」遺跡の碑が建つ千本丸太町上ル西入ルの公園は内野児童公園である。しかし一般に内野といえば、かつて北野の森が下ノ森まで広がっていたその南側。平安京の中心が次第に東に移動したために大内裏は西からさびれて野になったのだという。

西陣の一角に櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)というところがある。京の七野といえば必ず登場し、一説には七野を祀る総社だといわれている。奥まった地で普段は訪れる人もいない。しかし、このあたりが賀茂社(かもしゃ)に仕える斎王(さいおう)が潔斎した賀茂(紫野)斎院のあった場所だという。七野神社は斎院跡を社にしたものとみられている。

賀茂斎院とは、下鴨・上賀茂両神社に奉仕するための斎王に選ばれた未婚の皇女が身を清めて住まわれた常の御所。約150m四方の広大な敷地は内院と外院にわかれ、ほぼ500人の官人や女官が仕えていたという。葵祭になると、斎王の行列はここから大宮通を通って、本行列に加わったので「斎王行列発祥の地」とされている。810(弘仁元)年、嵯峨天皇の皇女が初めての斎王に選ばれてより約400年間、この紫野の地に賀茂斎院は続いていたが、1212(建暦2)年、後鳥羽天皇皇女を最後に廃絶した。

葵祭では近年、その年に選ばれた斎王代が斎院跡である七野神社にお詣りすることもはじまっている。葵祭のヒロインは昔が斎王なら、今は斎王代。つまり、かつて未婚の皇女がつとめた斎王の役を、代理で果たすのが「斎王代」というわけだ。

京の七野から、七野神社、賀茂(紫野)斎院、葵祭の斎王代へと思いがけないつながりをもってしまった。知らなければ立ち止まることもない七野神社と葵祭が一本の線でつながるとは不思議な縁だと思った…今京都。

尻。御所ことばでオイドという。室町時代から使用。「いど」の「い」は居る、座る所の意。祇園花街の京舞では「オイドおろして、きびすをあげる」のが基本的姿勢である。オイドカケは尻からげ。女性が着物の裾を帯の後ろにからげること。「オイドカケせんと裾が濡れますえ」 以前は、相手の和服の裾をまくって戯れる子ども遊び「オイドマクリ」がよくはやった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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七野 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月15日掲載)
京の七野(ななの)とは、紫野(むらさきの)、北野(きたの)、平野(ひらの)、上野(うえの)、蓮台野(れんだいの)、内野(うちの)、そして七つめが〆野(しめの)。最後の〆野は萩野(はぎの)、または御栗栖野(おぐるすの)を入れる説もある。京の北に広がる野の総称で、平安期以来の朝廷の遊猟地、また大宮びとが若菜や草花を摘み、日がな遊んだ清浄な野であったらしい。

大徳寺あたりの紫野、北野天満宮の北野、平野神社のある平野は現在も地名にあるのでわかりやすい。上野は今宮神社の東、上野街道の名が残る。蓮台野は上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)や千本えんま堂が葬送地の名残をとどめている。船岡山の西方向、紙屋川までの一帯。内野は平安京の大内裏あたりで、いま「大極殿(だいごくでん)」遺跡の碑が建つ千本丸太町上ル西入ルの公園は内野児童公園である。しかし一般に内野といえば、かつて北野の森が下ノ森まで広がっていたその南側。平安京の中心が次第に東に移動したために大内裏は西からさびれて野になったのだという。

西陣の一角に櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)というところがある。京の七野といえば必ず登場し、一説には七野を祀る総社だといわれている。奥まった地で普段は訪れる人もいない。しかし、このあたりが賀茂社(かもしゃ)に仕える斎王(さいおう)が潔斎した賀茂(紫野)斎院のあった場所だという。七野神社は斎院跡を社にしたものとみられている。

賀茂斎院とは、下鴨・上賀茂両神社に奉仕するための斎王に選ばれた未婚の皇女が身を清めて住まわれた常の御所。約150m四方の広大な敷地は内院と外院にわかれ、ほぼ500人の官人や女官が仕えていたという。葵祭になると、斎王の行列はここから大宮通を通って、本行列に加わったので「斎王行列発祥の地」とされている。810(弘仁元)年、嵯峨天皇の皇女が初めての斎王に選ばれてより約400年間、この紫野の地に賀茂斎院は続いていたが、1212(建暦2)年、後鳥羽天皇皇女を最後に廃絶した。

葵祭では近年、その年に選ばれた斎王代が斎院跡である七野神社にお詣りすることもはじまっている。葵祭のヒロインは昔が斎王なら、今は斎王代。つまり、かつて未婚の皇女がつとめた斎王の役を、代理で果たすのが「斎王代」というわけだ。

京の七野から、七野神社、賀茂(紫野)斎院、葵祭の斎王代へと思いがけないつながりをもってしまった。知らなければ立ち止まることもない七野神社と葵祭が一本の線でつながるとは不思議な縁だと思った…今京都。


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