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rrbのブログ - 2010/03のエントリ

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今京都 わや 2010/03/16 12:00 am


台なし。無茶なこと。失敗。駄目。「このごろ売れ行きが悪うてさっぱりワヤや」 枉惑(おうわく)からワヤクになりワヤになった。ワヤクは道理に合わない、無理・無法の意味であった。「ワヤにされる」は無茶なこと・乱暴をされる。ワヤクソ・ワヤクタ・ワヤクチャともいう。「シャツが雨に濡れてワヤクチャや」 クソ(糞)・クタ・クチャ(朽・腐)をつけてワヤの意味を強めた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

面電車の面影/二つの市電



昔、京都の街には路面電車(市電)がたくさん走っていた。実は京都は日本の路面電車の発祥の地。1895年〜1978年まで、自動車が普及していなかった時代の市民の足として活躍していた。交通量の増加とともに姿を消したが、最近、次世代型路面電車(LRT)の建設が検討され、見直されている。市電の跡を訪ね、古き良き時代の京都を偲んでみる。



初めて登場した路面電車は、民間の「京都電気鉄道株式会社(京電)」が運行していた。京都市下京区のJR京都駅前、東洞院通と塩小路の交差点に「電気鉄道事業発祥地」の石碑がある。ここから伏見区の下油掛まで最初の電車が走った。その後、市営の路面電車が開業し、大正時代に市が京電を買収した。京電の幅の狭い軌道は次々に広い軌道に変わったが、1961年に北野線が廃止されるまで京電の車両は活躍した。上京署の向かい側に北野線の終点を示す石碑がある。



そんな二つの市電が、北区の大宮交通公園に並んで展示されている。小さなチョコレート色は京電の車両、緑と白は昭和40年代の車両だ。どちらも電車文庫として本が置かれ、座って読書が楽しめる。下京区烏丸五条上ル西側の「北阪ビルディング」や左京区の平安神宮にも展示されている。下京区の梅小路公園では週末に走っている。近鉄伏見駅北側の国道24号沿いの「柴田屋敷町ちびっこひろば」では集会所として使われているほか、京都教育大付属桃山小学校など市内各地の学校や幼稚園でも道具として使われているけれど、老朽化で撤去されるケースも目立っている。


元稲荷線の終着駅

伏見稲荷大社へ向かう稲荷線が伏見駅から分岐していた。JR稲荷駅の西側の疎水の上にベンチが並んだ広場がある。ここが稲荷線の終着駅。市電の軌道跡は公園になっており、敷石のような石畳が当時の雰囲気を伝えている。


向かって右側の道路が元の市電専用軌道

市電は普通、車と並んで走っていたが、一部に専用軌道もあった。伏見区の丹波橋に近い竹田街道は棒鼻から肥後町まで約1.2km、二本に分かれている。西側の北向き一方通行の道が元は市電の専用軌道。車窓から酒蔵の建ち並ぶ風景が見られ、人気があったという。機会があれば、ぶらりと歩いてそんな面影も探してみたいと思う…今京都。
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おやかまっさん ふっさり 2010/03/15 12:00 am

っさり
たっぷり。衣服を作るのに多くの布を使用するときに、「このキレ(布)、スカート作るのにフッサリあるで」フサフサの意味の擬態語。「お皿にフッサリばら寿司を盛って食べよう」「髪の毛がフッサリしててよろしおすな」
江戸時代から使用。「どっさり」「ぐっさり」のようにサリを後置きする。京ことばのモッサリは、洗練されない形容。「モッサリした格好したはる」 モッサイは無粋なの意味。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

生街の春
学生の街といわれる京都に住んでいるからか、「学生」とか「学生街」という言葉にある意味で敏感である。とりわけ歌になるとついつい調べて聞いてしまう。今はインターネットで時代を一気にさかのぼることができる。その時代に生きていなくても、その時代にタイムスリップができる時代である。ましてやYouTubeという便利なものがある。
古くは、ペギー葉山さんの「学生時代」。

つたの絡まるチャペルで 祈りを捧げた日
夢多かりし あの頃の 思い出をたどれば
懐かしい友の顔が 一人一人 うかぶ
重いカバンを抱えて 通ったあの道
秋の日の図書館の ノートとインクの匂い
枯葉の散る窓辺 学生時代

讃美歌を歌いながら 清い死を夢見た
何の よそおいもせずに 口数も少なく
胸の中に秘めていた 恋への憧れは
いつも はかなく破れて 一人書いた日記
本棚に目をやれば あの頃読んだ小説
過ぎし日よ わたしの学生時代

ロウソクの灯に輝く 十字架をみつめて
白い指を組みながら うつむいていた友
その美しい横顔 姉のように慕い
いつまでもかわらずにと 願った幸せ
テニスコート キャンプファイヤー 懐かしい日々は帰らず
すばらしいあの頃 学生時代
すばらしいあの頃 学生時代



次は、ガロの「学生街の喫茶店」。

君とよくこの店に 来たものさ 訳もなくお茶を飲み 話したよ
学生でにぎやかな この店の 片隅で聞いていた ボブ・ディラン
あの時の歌は 聞こえない 人の姿も変わったよ 時は流れた
あの頃は愛だとは 知らないで サヨナラも言わないで 別れたよ 君と

君とよくこの店に 来たものさ 訳もなくお茶を飲み 話したよ
窓の外 街路樹が美しい ドアを開け 君が来る気がするよ
あの時は道に 枯葉が 音もたてずに 舞っていた 時は流れた
あの頃は愛だとは 知らないで サヨナラも言わないで 別れたよ 君と



最後は、岩崎宏美さんの「学生街の四季」。

学生街に雪どけ春が来て また新たな顔がふえたわ
一月前に涙のさよならが 街中あふれていたのに
ポプラ並木風が流れ 渡り鳥も帰って来た
だけど海の町へ帰った彼 どうしたのか便りもない
坂道下り角のコーヒーショップ 英語のカセットひとりで聴いていたら
ガラスの窓に夏の光がさして 心が少しやわらぐ
故郷へ帰りのんびりする人や 外国旅行などする人
それぞれ何処か出かけて行ったけど 私はどこへも行かない

時計台に赤とんぼがスイスイ飛び  秋が来たわ
愛の行方決めて欲しいけど まだ二人に答はない
図書館前の薄い陽だまりの中 就職試験をあれこれ思いながら
誰かがポツリポツリ弾いているギター 涙を浮かべ聞いてる
学生街に吹雪の冬が来て みんなストーブ囲み集まる
別れの時が来るのを知りながら ビールのジョッキをあげたわ



など、が有名か。自分の中では、学生街の四季を歌ったこの歌が一番印象的だ。出会いもあれば別れもある。振り返れば、「あっ」という間の学生時代だったとこの歌はさらに感じさせてくれる。懐かしい友は今頃どうしているのか、と、思い出してみる。さて、そろそろ卒業式が街のあちこちで見かける頃だ。その後は、入学式。春の陽気に包まれた、涙あり、笑顔ありの物語が間もなく幕を開ける。しばし、学生時代に思いを馳せ、感慨に浸った…ということで、今回のお話はおしまい。どうも、おやかまっさんどした。


 

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おやかまっさん しろっと 2010/03/14 12:00 am

ろっと
しらばくれて。平気で。「あいつあんなことしといてシロットしてやがる」 事件の内容を知っていて知らぬふりをするさま。江戸時代の京ことばシロリトから。一方、シッタラシイは「知ったかぶり」の意味。「シッタラシイこと言うて、ほんまに分かってへんのやろ」「知った(理解した)」にラシイをつけ、その様子であるさまを示す。推量の助動詞ラシから接尾語になった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

蔵物語(299)と羅漢







先日、新聞に、「京のお地蔵さんめぐり」調査チームが立ち上がった、という記事が載っていた。今京都でも取り上げためやみ地蔵などの「通称のあるお地蔵さんの調査」に乗り出すという。京都市内に267体の通称地蔵があるのが確認されているという。機会があれば、267体を調べて掲載したいと思うが…。この一報、地蔵物語にとっては朗報なのか、吉報なのか…ということで、今回のお話はおしまい。どうも、おやかまっさんどした。


 

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天を仰いで思うこと しなこい 2010/03/13 12:00 am

なこい
柔軟な。しなやかな。弾力性があり、やわらかな形容。「竹を薄う割ってシナコイし、竹細工しやすおすわ」「ヤラコイ」は「柔らかい」で「今日のご飯はちょっとヤラコイな」 ヤラカイとも。「ややさん(赤ちゃん)の手はヤラコおすな」 ヤニコイは壊れやすい。「この椅子ヤニコイなあ、座っただけでぐらぐらする」「ひ弱い」の意味でも使う。「あの子はヤニコイな、すぐ泣かはる」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

陽の塔・芸術は爆発だ



あの人なら、この時代をどう語るだろう。岡本太郎さんが逝って14年。大阪万博で「太陽の塔」が6400万人もの目をくぎ付けにしてから、今年で40年になる。時は高度成長の絶頂、万博は勤勉な労働力に向け「人類の進歩と調和」をうたう格好の機会だった。「お上のお先棒を担ぐなんて」と周囲は猛反対。そこが太郎さんらしい。そんなに言うならやってやろうと引き受けた。「とにかくベラボーなものを作ってやる」とひたすら構想を練った。進歩を誇るべく、地上30mに大屋根を造る計画が固まっていた。模型を見るうちに、それを突き破る「ベラボーなもの」、70mの人間像が浮かぶ。紆余曲折を経て出来あがった前衛的で巨大なシンボルタワー「太陽の塔」は、当時の一部の知識人などから「牛乳瓶のお化け」「日本の恥辱」などと痛烈な批判を浴びた。



しかし、岡本太郎さんがこの前衛的な塔に込めたのは、文明の発達や進歩の中で、人々の生活も豊かになるのに反比例し、システムに組み込まれ、心がどんどん不自由になり貧しくなっていく全体性を失った当時の現代人への彼なりのアンチテーゼであった。また、主催者側が「人類の進歩と調和」というテーマに基づき、塔の地下に人類の発展に寄与した偉人の写真を並べるつもりだったのに対し、「世界を支えているのは、無名の人たち」と、世界中の人々の写真や民具を並べるように進言したという。
人類は進歩などしていない。太郎さんが、ど真ん中で万博に突きつけた「ノー」に、観客は共鳴する。「命を質に置いても来てよかったねぇ」との、あるおばあさんのつぶやきは岡本太郎さんを喜ばせたという。空間メディアプロデューサーなどの話によると、太陽の塔は「万博史に刻まれた唯一の異物」だそうだ。皮肉にもそれだけが残っている。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

今月15日で開幕40年を迎える日本万国博覧会(大阪万博)を記念して、万博の際にパビリオンとして使われた鉄鋼館が当時の資料を集めた「EXPO’70パビリオン」としてリニューアルされ、今日から公開される。パビリオンでは高度経済成長期の日本や万博期間中の華やかな様子を映像や写真パネルを使って紹介。万博の象徴で当時はモニュメントが展示されていた太陽の塔内部も再現され、岡本太郎さんの未公開映像の肉声も公開されるという。さらに音楽堂も40年ぶりの公開となり、レーザーを用いた光のショーが見られるという。太陽の塔は何を見つめているか。流れる雲か降り注ぐ雨か。誕生した時代とは両極の不況の時代か。知る由もないが、今日も変わらず、何かを見つめているには違いない。「平気で己を開き、野放図にふくらむ精神が現れてきたら、私の万国博への賭けは大成功だ」と、全存在をぶつけた岡本太郎さん。その覚悟に時代はまだ追いつけていないのではないか…と、天を仰いで思うこと。


 

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今京都 ちょうずをつかう 2010/03/12 12:00 am

ょうずをつかう
洗面する。筆者は小学三年生の作文(昭和9年当時は「綴方」)に「てうづをつかひに庭へ出た」と書いた。チョーズを「てうづ」、ツカウを「つかふ」と表記した。便所、大小便の意味でもチョーズ・オチョーズとも言った。そのころ「国語」は「読方」、「音楽」は「唱歌」、「算数」は「算術」のような科目名であった。学校の始業を知らせるリン(鈴)がリンリンと鳴った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

安前期
桓武天皇は、国際都市・平安京の実現という壮図(そうと)を抱いていた。奈良時代から国家間交流のある渤海(ぼっかい)や新羅(しらぎ)はもとより、東アジアの盟主ともいうべき唐に対しても国威を顕示すべく堂々たる羅城門(都城の正門)をつくった。羅城門は、重層で入母屋造、瓦屋根の両端に鴟尾(しび)が輝き、楼の二層には兎跋毘沙門天が外敵ににらみをきかせていた。門の幅は約35m、奥行約9m、高さ約21m、正面柱間は七間で、そのうち中央五間に扉が入り、左右の一間は壁であったと考えられる。木部は朱塗りで、壁は白土塗り。門の手前には五段の石段があり、中国風の石橋(地名として残る唐橋)がかかっていた。



新都への訪問者はその壮麗な造りに息をのんだことであろう。羅城門をくぐれば幅85mの朱雀大路が真っ直ぐ北に伸び、左右は整然とした町並みが広がっていた。後世、鬼が巣くうような場所になろうとは、誰も想像すらできなかったはずである。羅城門が都の表玄関として威厳を保った期間は長くはなかった。建造後20年も経たない816(弘仁7)年、暴風により倒壊。門の幅と高さに比して奥行きがなく、もともと風には弱い構造だった。その時は再建されたが、980(天元3)年に再び倒壊し、以後は再建されることはなかった。



羅城門の北には東に東寺、西には西寺が同規模の寺域面積で並んでいた。西寺は990(正暦1)年にほぼ全焼、1233(天福1)年にも焼失して羅城門ともども荒廃した。西寺の位置する右京の衰退も一要因となった。東寺は現在も存在するが、西寺はわずかに礎石だけが往時の名残りをとどめるだけである。羅城門は平安京のうたかたの表玄関ということか…今京都。(『京都のふしぎ発見』より)
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