rrbのブログ - 2009/07/23のエントリ
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今京都 あわさ 2009/07/23 12:00 am
あわさ
間。すきま。「歯のアワサに何かはさまって、なかなか取れへん」 アワサイ、アワイサとも。「タンスのアワサイに定規が落ちてしもうた」 あわい(間)に基づく。時間的にはアイサニという。「アイサニええこと言わはるな」 空間的にはアワイサ、時間的にはアイサニと使い分ける。アイもアワイも「間」の意。アワイからアンバイという語を作った。アワイは物と物の交わるところ、人と人の関係をいった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
水火天満宮(すいかてんまんぐう) (旧フォトヴィレッジ 2007年8月25日掲載)
水火天満宮は、水難火難除けの神として知られている。1952(昭和27)年の堀川通拡張工事に伴い堀川通を挟んだ西側の上天神町から現在地に移転されたという。社伝によれば、923(延長元)年6月25日に醍醐天皇の勅願で菅原道真の神霊を勧請し建立されている。もとは悲田院の鎮守社であったが、菅公信仰と結びついたと伝えられている。


表鳥居の前に「日本最初 水火天満宮」と刻した大きな石標と、「孝学堂跡」と刻した小さなの石柱が見られる。孝学堂は、江戸時代に天満宮宮司の孝道が境内に開設した学問塾をいう。

境内にある「登天石(とうてんせき)」は、903(延喜3)年、菅原道真公が大宰府の地において亡くなられた後、都では雷火の災いが重なったことから人々は菅公の怨霊のせいだと不安が高まった。醍醐天皇は延暦寺の法性坊尊意僧正に祈祷を依頼。勅命を受けた尊意が急いで宮中へ向かう途中、鴨川が急に増水して渡れなくなったが、尊意はあわてず手にした数珠をひともみし、祈願したところたちまち水位が下り、水面が二つ分かれ流れの間から一つの石が現れ、その上に菅公が現れやがて昇天し雲の中へ消え、雷雨も止んだという。のちにその石を陸に移動して供養して「登天石」といしたという由来をもつ石がある。


また、傍には近年出世した人が寄進された「出世石」がある。さらには、眼に効能があるという「金龍水」と称する湧き水もある。
なお、「登天石」の横に「是より洛中荷馬口付のもの乗へからす(乗るべからず)」と刻した石柱がある。この意味は「馬に乗ったまま洛中へ入ってはならない。荷を載せた馬は,馬の口取り(馬子)が手綱を引いて歩くように」という意味で、江戸時代の1695(元禄8)年に市街地の交通安全のために、都への出入り口30カ所に木杭で設置された。水火天満宮は、鞍馬口街道沿いである。その後、朽ちたので1717(享保2)年石漂に作り替えた、その中の一つとされる。

車の通行量が多い堀川通りに面していると思えないくらいひっそりとした佇まいの境内。それにしてもここにも菅原道真公の影が! 恐るべし菅原道真公…今京都。

間。すきま。「歯のアワサに何かはさまって、なかなか取れへん」 アワサイ、アワイサとも。「タンスのアワサイに定規が落ちてしもうた」 あわい(間)に基づく。時間的にはアイサニという。「アイサニええこと言わはるな」 空間的にはアワイサ、時間的にはアイサニと使い分ける。アイもアワイも「間」の意。アワイからアンバイという語を作った。アワイは物と物の交わるところ、人と人の関係をいった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
水火天満宮(すいかてんまんぐう) (旧フォトヴィレッジ 2007年8月25日掲載)
水火天満宮は、水難火難除けの神として知られている。1952(昭和27)年の堀川通拡張工事に伴い堀川通を挟んだ西側の上天神町から現在地に移転されたという。社伝によれば、923(延長元)年6月25日に醍醐天皇の勅願で菅原道真の神霊を勧請し建立されている。もとは悲田院の鎮守社であったが、菅公信仰と結びついたと伝えられている。


表鳥居の前に「日本最初 水火天満宮」と刻した大きな石標と、「孝学堂跡」と刻した小さなの石柱が見られる。孝学堂は、江戸時代に天満宮宮司の孝道が境内に開設した学問塾をいう。

境内にある「登天石(とうてんせき)」は、903(延喜3)年、菅原道真公が大宰府の地において亡くなられた後、都では雷火の災いが重なったことから人々は菅公の怨霊のせいだと不安が高まった。醍醐天皇は延暦寺の法性坊尊意僧正に祈祷を依頼。勅命を受けた尊意が急いで宮中へ向かう途中、鴨川が急に増水して渡れなくなったが、尊意はあわてず手にした数珠をひともみし、祈願したところたちまち水位が下り、水面が二つ分かれ流れの間から一つの石が現れ、その上に菅公が現れやがて昇天し雲の中へ消え、雷雨も止んだという。のちにその石を陸に移動して供養して「登天石」といしたという由来をもつ石がある。


また、傍には近年出世した人が寄進された「出世石」がある。さらには、眼に効能があるという「金龍水」と称する湧き水もある。
なお、「登天石」の横に「是より洛中荷馬口付のもの乗へからす(乗るべからず)」と刻した石柱がある。この意味は「馬に乗ったまま洛中へ入ってはならない。荷を載せた馬は,馬の口取り(馬子)が手綱を引いて歩くように」という意味で、江戸時代の1695(元禄8)年に市街地の交通安全のために、都への出入り口30カ所に木杭で設置された。水火天満宮は、鞍馬口街道沿いである。その後、朽ちたので1717(享保2)年石漂に作り替えた、その中の一つとされる。

車の通行量が多い堀川通りに面していると思えないくらいひっそりとした佇まいの境内。それにしてもここにも菅原道真公の影が! 恐るべし菅原道真公…今京都。

