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rrbのブログ - 2009/07/11のエントリ

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今京都 よろしおあがりやす 2009/07/11 12:00 am

ろしおあがりやす
ヨロシオアガリとも。どうぞ召し上がってください。食事をいただく人に向かっていう。「ごっつぉよばれますわ」「ヨロシオアガリヤス」 食後にもいう。「おーきに、ごっつぉはんどした」「ヨロシオアガリヤス」 この場合、「お粗末でした」の意味を含む。ヨロシをヨロシューとも。「よろしい」のもとは「寄らし」からで「寄る」の意味があった。室町時代にアガルは高位の人の食事が終わることにいった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

ばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。

水(そすい) (旧フォトヴィレッジ 2007年9月6、7日掲載)
水路閣で触れた疎水について少し掲載してみよう。琵琶湖疎水は都が東京へと移り、人口も35万の都市から25万人へと激減し産業も衰退していく中で、京都復興の大事業として計画されたものだった。その初めての測量は1881(明治14)年4月に、起工式は4年後の1885(明治18)年6月に、竣工式は1890(明治23)年4月にと実に9年間にも及ぶ大工事だった。1872(明治5)年、旧暦の9月12日、新橋−横浜間に日本最初の鉄道が開業。この鉄道工事を含め当時の大工事の殆どが外国人技術者の設計や監督に頼っていた中にあって、この琵琶湖疎水工事は設計も工事も全て日本人の手による初の事業。滋賀県の大津市、三井寺近くから長等山をトンネルで抜け、山科盆地の山麓、幾つかのトンネルを流れ、日ノ岡山のトンネルを抜ける経路、中でも長等山の第一トンネル(2,436m)は当時、類をみない長大トンネルだった。





この大事業に際して当時の北垣国道知事は工部大学、今の東京大学を卒業したばかりの21才の青年技師を抜擢する。この琵琶湖疎水計画の元々の発案者は下京区の吉本源之助なる人物と云われている。この源之助が京都府に宛てた「新川通船之儀ニ付願」がその物語の始まり。源之助は友人の菊井重左衛門の東京から京へ来る度に悩まされる日ノ岡峠越えの難渋、それによる荷役運賃割の割り増しによる物価の高騰は、新川を開いて水運を充実させれば解決すると云う助言の元に先の願いを提出する。それまでにも高瀬川を開いた角倉了以が琵琶湖から高瀬川に新川を開く構想など、幾つかあったが、実現の可能性のある具体的な計画は、この願いによるものが初めてだったとのこと。





1881(明治14)年2月、北垣国道が京都府知事に就任。北垣知事は就任すると同じくして官営事業を全て廃止し、民間に払い下げるなど数々の改革を行った。京都府知事に就任した北垣は、琵琶湖疎水計画の実現を決断する。その時、北垣は琵琶湖疎水工事計画を題材とした卒業論文を仕上げている田邊(たなべ)朔朗の存在を知り、朔朗の情熱に満ちた話しぶりに北垣知事は21歳の青年技師に事業を任せることを即座に決断したといわれている。





こうして田邊朔朗を中心として疎水工事は始まる。未熟な土木技術、余り役に立たない機械類では、まだまだ人海戦術が主たる工法で、当然成功を危ぶむ声もあり、大金を投じての大事業に反対の声も大きかった。工事は難儀を極め、作業は重労働、一時は刑務所の囚人までも動員したといわれている。その囚人達の再犯率は非常に低かったということが、いかに過酷な重労働があったのかを示す一例だといわれている。計画途中で水力発電事業が計画に組み込まれるなどの変遷を経て、ダイナマイトとセメント以外の資財は外国製に頼らず、自前で調達しながらの難工事も1890(明治23)年9月、竣工式を迎える。当時の新聞は、「大文字の送り火が灯され、祇園祭の月鉾、鶏鉾、天神山、郭巨山が立ち並び、日の丸提灯行列が行われた」と伝えたという。





これにより琵琶湖より京都への水運が可能になり、九条山より蹴上にかけては、582mに36mの標高差があり勾配が15分の1の急であるためインクライン(傾斜鉄道)により三十石船をそのまま台車に載せて上下させた。また蹴上発電所で発電された電力は日本最初の路面電車開業へとつながり、各家に電灯が灯ることになる。今ではインクラインは廃止されているが、琵琶湖から山科を経て、南禅寺から鴨川への本流、そして南禅寺から哲学の道、北白川に至る分線は上水道、防火用水として、あるいはインクラインの桜並木、哲学の道を始めとする水辺に親しめる憩いの場、南禅寺水路閣は文化財として、竣工110年を迎える現在も機能している。京都の命の水ともなっている琵琶湖疎水のお話…今京都。


 

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