rrbのブログ - 2009/08のエントリ
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天を仰いで思うこと しんどい 2009/08/31 12:00 am
しんどい
つらい。苦しい。疲れている。「マラソン走ってシンドイわ」「社長さんの話は聞いててシンドイ」「辛労」にイを付け形容詞化した「辛労い」がなまって、シンドイとなった。シンロウをシンドウといった。安原貞室の『片言』に「辛労を、しんだうと云ふこと如何」とある。『東京京阪言語違』(明治19年刊)には、京阪のシンドイを東京のクタビレタ、京阪のシンドヤノーを東京のガッカリシタと比べている。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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天を仰いで思うこと
(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
今日は写真の掲載のみで…と、天を仰いで思うこと。
つらい。苦しい。疲れている。「マラソン走ってシンドイわ」「社長さんの話は聞いててシンドイ」「辛労」にイを付け形容詞化した「辛労い」がなまって、シンドイとなった。シンロウをシンドウといった。安原貞室の『片言』に「辛労を、しんだうと云ふこと如何」とある。『東京京阪言語違』(明治19年刊)には、京阪のシンドイを東京のクタビレタ、京阪のシンドヤノーを東京のガッカリシタと比べている。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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天を仰いで思うこと
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今京都 つかまえ 2009/08/30 12:00 am
つかまえ
鬼ごっこのこと。「ツカマエして遊ぼう」 公家ことばでも、ツカマエといった。江戸時代には、ツカマエボということばが使われた。『物類称呼』に「京にて、つかまえぼと云」と記されている。「つかまえる」に基づく。京都府南部ではツカマエコンボ・ツカマエオニのような形もある。一方、府北部ではオニゴトのほか、ボウ(追う)から、ボイヤイ(追い合い)・ボイヤともいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢
地蔵物語(275)
鬼ごっこのこと。「ツカマエして遊ぼう」 公家ことばでも、ツカマエといった。江戸時代には、ツカマエボということばが使われた。『物類称呼』に「京にて、つかまえぼと云」と記されている。「つかまえる」に基づく。京都府南部ではツカマエコンボ・ツカマエオニのような形もある。一方、府北部ではオニゴトのほか、ボウ(追う)から、ボイヤイ(追い合い)・ボイヤともいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢
地蔵物語(275)
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今京都 ばったりしょうぎ 2009/08/29 12:00 am
ばったりしょうぎ
京の町家によく見かけた。表の入り口のそばに取り付けられた床几(しょうぎ)。脚を折り畳むことができる。商品を並べて売るのに用いた。家の軒下など設置されている。留め金を外して下ろすと床几になる。「あの家には、まだバッタリショウギが残ってますわ」 バッタリは床机を上げ下げするさまの擬態語。昭和初期、子どもたちが並んで腰を下ろして遊んだものである。バッタンショーギともいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
★関連記事はここ(←クリック)
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護王神社 (旧フォトヴィレッジ 2007年1月23〜29日掲載)
今年(2007年)の干支、イノシシの神社で知られる京都市上京区の護王神社。祭神の和気清麻呂が流刑にされた時、イノシシ300頭が現れ災難を救ったという「日本後記」の説話で有名だ。足腰の神様としても知られ、都大路を走る駅伝の強豪校やサッカーチームの選手らが願を懸けにくる。
イノシシと清麻呂、足腰のかかわりは、奈良時代の「道鏡事件」(769年)にさかのぼる。僧・弓削道鏡は称徳天皇に気に入られて法王に出世。さらに皇位を狙い宇佐八幡宮(大分県)に、にせの神託を出させた。だが清麻呂は称徳天皇の命で宇佐へ向かい「天つ日(ひ)嗣(つぎ)(後継者)は必ず皇緒を立てよ」との神託を持ち帰り陰謀をくじいた。道鏡は清麻呂に死罪をと激怒。称徳天皇が大隅(鹿児島県)へ流すにとどめた。
清麻呂は道鏡により足の筋を切られ歩けない。粗末な輿(こし)での道中、宇佐八幡宮へ立ち寄るところでイノシシ300頭が登場する。清麻呂を守るように囲み、十里の道を先導した。伝説は「猪の頭」のかぶりものを付け祭礼を営む習慣のある秦氏などが配流途中の清麻呂を助けたことから生まれたとする解釈もある。八幡宮に到着するころには清麻呂の足が治った。護王神社はイノシシとの言い伝えにかけて、足萎(な)え回復のご利益をうたう。
神護寺(右京区)から京都御苑の西へ移って121年目の同神社は「イノシシ」づくし。昨夏設けた雌雄一対の「狛(こま)イノシシ」は「畑を荒らすなど良くないイメージがあるが、愛されるには、かわいくて勢いがなくては」と表情や体の丸みにこだわった。参拝の鈴も三つに増やし「多くの人にゆっくりしていってもらいたい」と願う。
本殿左の大木の根元には、イノシシの石像を囲むように紙のイノシシのついたくし、右の大木の根元にはミニチュアののぼりが数百本もある。大勢の参拝者が足腰の健康を願って、差し込んでいく。境内にはイノシシの土鈴や絵馬、はく製がひしめき、寄贈もあってその数3000以上とか。清麻呂の進言で開かれた平安京は1200年を経てにぎわい、清麻呂を守るイノシシは今でも増え続けている…今京都。
京の町家によく見かけた。表の入り口のそばに取り付けられた床几(しょうぎ)。脚を折り畳むことができる。商品を並べて売るのに用いた。家の軒下など設置されている。留め金を外して下ろすと床几になる。「あの家には、まだバッタリショウギが残ってますわ」 バッタリは床机を上げ下げするさまの擬態語。昭和初期、子どもたちが並んで腰を下ろして遊んだものである。バッタンショーギともいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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護王神社 (旧フォトヴィレッジ 2007年1月23〜29日掲載)
今年(2007年)の干支、イノシシの神社で知られる京都市上京区の護王神社。祭神の和気清麻呂が流刑にされた時、イノシシ300頭が現れ災難を救ったという「日本後記」の説話で有名だ。足腰の神様としても知られ、都大路を走る駅伝の強豪校やサッカーチームの選手らが願を懸けにくる。
イノシシと清麻呂、足腰のかかわりは、奈良時代の「道鏡事件」(769年)にさかのぼる。僧・弓削道鏡は称徳天皇に気に入られて法王に出世。さらに皇位を狙い宇佐八幡宮(大分県)に、にせの神託を出させた。だが清麻呂は称徳天皇の命で宇佐へ向かい「天つ日(ひ)嗣(つぎ)(後継者)は必ず皇緒を立てよ」との神託を持ち帰り陰謀をくじいた。道鏡は清麻呂に死罪をと激怒。称徳天皇が大隅(鹿児島県)へ流すにとどめた。
清麻呂は道鏡により足の筋を切られ歩けない。粗末な輿(こし)での道中、宇佐八幡宮へ立ち寄るところでイノシシ300頭が登場する。清麻呂を守るように囲み、十里の道を先導した。伝説は「猪の頭」のかぶりものを付け祭礼を営む習慣のある秦氏などが配流途中の清麻呂を助けたことから生まれたとする解釈もある。八幡宮に到着するころには清麻呂の足が治った。護王神社はイノシシとの言い伝えにかけて、足萎(な)え回復のご利益をうたう。
神護寺(右京区)から京都御苑の西へ移って121年目の同神社は「イノシシ」づくし。昨夏設けた雌雄一対の「狛(こま)イノシシ」は「畑を荒らすなど良くないイメージがあるが、愛されるには、かわいくて勢いがなくては」と表情や体の丸みにこだわった。参拝の鈴も三つに増やし「多くの人にゆっくりしていってもらいたい」と願う。
本殿左の大木の根元には、イノシシの石像を囲むように紙のイノシシのついたくし、右の大木の根元にはミニチュアののぼりが数百本もある。大勢の参拝者が足腰の健康を願って、差し込んでいく。境内にはイノシシの土鈴や絵馬、はく製がひしめき、寄贈もあってその数3000以上とか。清麻呂の進言で開かれた平安京は1200年を経てにぎわい、清麻呂を守るイノシシは今でも増え続けている…今京都。
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天を仰いで思うこと ちょろこい 2009/08/28 12:00 am
ちょろこい
「田の畦の草刈りなんてチョロコイもんや」「こんどの試験、チョロコイな、満点や」 たやすいの意味。コイは形状を示す接尾語。チョロコイは「まだるっこい(間怠っこい)」動作をするときにも使う。チョロイとも。チョロは小動物が動くさまをいう擬態語。チョロクサイともいう。「何をやらしてもぐずぐずしてチョロクサイ子やな」「たんぼの水、チョロクサイし、もうちょっと口あけて流そうか」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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天を仰いで思うこと
(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
最近、自分にとって、気候がとてもよいようだ。朝、起きたくない…と感じてしまう。
秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。 日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
朝に夕に、トニカク眠い…と、天を仰いで思うこと。
「田の畦の草刈りなんてチョロコイもんや」「こんどの試験、チョロコイな、満点や」 たやすいの意味。コイは形状を示す接尾語。チョロコイは「まだるっこい(間怠っこい)」動作をするときにも使う。チョロイとも。チョロは小動物が動くさまをいう擬態語。チョロクサイともいう。「何をやらしてもぐずぐずしてチョロクサイ子やな」「たんぼの水、チョロクサイし、もうちょっと口あけて流そうか」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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天を仰いで思うこと
(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
最近、自分にとって、気候がとてもよいようだ。朝、起きたくない…と感じてしまう。
秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。 日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
朝に夕に、トニカク眠い…と、天を仰いで思うこと。
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今京都 かなやすい 2009/08/27 12:00 am
かなやすい
容易な。「この本はカナヤスイ文章で書いたーる」 カナナとも。「この問題はカナナヤとおもう」 平易であるのヤスシは『万葉集』から用いる。ヤサシイ(易しい、優しい)は、もと「痩せる」の意味に基づく。「身を痩せるおもい」「恥ずかしい」の古い意味から、思いやりがある、おとなしい、優美なの意になり、容易なの意になった。反対の「難しい」は、京都では東京のムズカシイに対しムツカシイと発音する。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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神田神宮 (旧フォトヴィレッジ 2007年7月20日掲載)
にぎやかな四条通から新釜座町に入ると、昔ながらの風情を残す一角がある。ここは、以前に紹介した膏薬図子(←クリック)。一軒の民家を見ると、手入れが行き届いた小さな祠がある。鉄板には「史蹟(せき)神田神宮」と書かれ、「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と説明されている。
将門は桓武天皇の子孫で903(延喜3)年頃に生まれる。下総国(現在の千葉県北部など)を本拠とし、上洛して藤原忠平に仕える。関東一帯に平氏一門の間で抗争が広がり、将門は関東諸国を次々に占領。さらに朝廷に対抗し、「新皇」を名乗ったことから逆賊とされ、940(天慶3)年に反対勢力に滅ぼされる。討ち取られた首は京都の町でさらされる。
伝説によれば、将門の首は生きたように目を見開き、歯ぎしりをしたという。さらに、ある夜、突然、首が笑いだし、白い光を放ちながら、自らの胴体を求めて、東の方向へ飛び去ったと言い伝えられる。その後、天変地異が相次ぎ、将門の霊を鎮めようと、各地に首塚が築かれる。最も有名な塚が東京都千代田区大手町のオフィス街にあるという。京都の神田神宮は、空也上人が将門のために、新釜座町の地に供養道場を建てたのが始まりだということだ。
将門の評価は歴史とともに変遷する。中世には祟りを恐れられ、江戸時代には最初の武士として幕府の庇護を受ける。しかし、明治時代には再び逆賊とされ、戦後は逆に朝廷の横暴と闘った英雄となり、人気を集める。今でも、将門の首を切ったと伝えられる子孫が定期的に訪れるという。千年以上を経た今も、将門伝説は消えていない。京都の町民の反骨と優しさが現れた祠だ。この祠がある家は「いつ、なぜ、この地に建立されたかはわからないが、代々、大切に受け継いできた」と語る。平将門をしのび、地元だけではなく、関東からも参拝があるという神田神宮…今京都。
容易な。「この本はカナヤスイ文章で書いたーる」 カナナとも。「この問題はカナナヤとおもう」 平易であるのヤスシは『万葉集』から用いる。ヤサシイ(易しい、優しい)は、もと「痩せる」の意味に基づく。「身を痩せるおもい」「恥ずかしい」の古い意味から、思いやりがある、おとなしい、優美なの意になり、容易なの意になった。反対の「難しい」は、京都では東京のムズカシイに対しムツカシイと発音する。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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神田神宮 (旧フォトヴィレッジ 2007年7月20日掲載)
にぎやかな四条通から新釜座町に入ると、昔ながらの風情を残す一角がある。ここは、以前に紹介した膏薬図子(←クリック)。一軒の民家を見ると、手入れが行き届いた小さな祠がある。鉄板には「史蹟(せき)神田神宮」と書かれ、「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と説明されている。
将門は桓武天皇の子孫で903(延喜3)年頃に生まれる。下総国(現在の千葉県北部など)を本拠とし、上洛して藤原忠平に仕える。関東一帯に平氏一門の間で抗争が広がり、将門は関東諸国を次々に占領。さらに朝廷に対抗し、「新皇」を名乗ったことから逆賊とされ、940(天慶3)年に反対勢力に滅ぼされる。討ち取られた首は京都の町でさらされる。
伝説によれば、将門の首は生きたように目を見開き、歯ぎしりをしたという。さらに、ある夜、突然、首が笑いだし、白い光を放ちながら、自らの胴体を求めて、東の方向へ飛び去ったと言い伝えられる。その後、天変地異が相次ぎ、将門の霊を鎮めようと、各地に首塚が築かれる。最も有名な塚が東京都千代田区大手町のオフィス街にあるという。京都の神田神宮は、空也上人が将門のために、新釜座町の地に供養道場を建てたのが始まりだということだ。
将門の評価は歴史とともに変遷する。中世には祟りを恐れられ、江戸時代には最初の武士として幕府の庇護を受ける。しかし、明治時代には再び逆賊とされ、戦後は逆に朝廷の横暴と闘った英雄となり、人気を集める。今でも、将門の首を切ったと伝えられる子孫が定期的に訪れるという。千年以上を経た今も、将門伝説は消えていない。京都の町民の反骨と優しさが現れた祠だ。この祠がある家は「いつ、なぜ、この地に建立されたかはわからないが、代々、大切に受け継いできた」と語る。平将門をしのび、地元だけではなく、関東からも参拝があるという神田神宮…今京都。