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rrbのブログ - 2009/06のエントリ

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今京都 いけず 2009/06/25 12:00 am

けず
「イケズばっかりしやはる」 意地悪の意味。意地悪する人はイケズシー。江戸時代には「いかず」といい、尋常には行かぬの意。女の子が遊ぶとき、「池の端(はた)のずいき」といってイケズする人を茶化した。ずいきは里芋の茎。池のイケ、ずいきのズと、イケズの三文字が含まれる洒落ことばである。イケズをいったり、イケズなことをするのが、京女の知恵でもあり、イケズの雰囲気は楽しみでもあった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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条通と松原通と五条天神宮と (旧フォトヴィレッジ 2007年8月17日〜20日掲載)



京の五条の橋の上
大の男の弁慶は
長い薙刀(なぎなた)ふりあげて
牛若めがけて切りかかる

これは、作詞作曲不詳/文部省唱歌(1年)の「牛若丸(うしわかまる)」の歌の1番。この歌で歌われているとおり、五条大橋の西詰めには牛若丸と弁慶の愛らしい石像が立っており、牛若丸と弁慶が出会った場所といわれている。しかし、牛若丸と弁慶が対峙した五条の橋は実はここでなかったという説がある。このお話には五条通そのもののお話も欠かせないものがある。かつて平安京に貫かれた一条から九条までの大路。千年以上も経った今も、一条から九条までの通りは健在。ところが五条に限っては、今の五条通とちがって、現在の松原通が旧の五条通にあたるという。







この松原通は「松原京極」という商店街をも築いている。そして「義経・弁慶ゆかりの街」というシールが通りの安全を確保する街路灯の支柱にペタペタと貼られている。実はこの通りこそ、牛若丸と弁慶の出会いの場だといわれている。この松原通りは、安土桃山時代から江戸初期の頃、松並木が続く道だったことから「五条松原通」と呼ばれていた。しかし、いつしか「五条」を略して「松原通」の呼び名になってしまった。そこで消えた「五条通」の名を復活させようと、六条坊門小路を五条通と改めたという。
手元に京都の市街地図があればもっとわかりやすい。今の四条〜五条の間が、他の通りと比べると随分間隔が広い。二条〜三条間は、押小路、御池、姉小路の三筋。三条〜四条間は、六角、蛸薬師、錦小路の三筋。ところが、四条〜五条間は綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺と五筋もある。地図上で見ても、整然と並んだ洛中碁盤の目の中で四条〜五条間だけが何故か離れている。しかし、松原通が本来の五条通だったとすると、その間に三筋はさんで、ぴったりと合うことになる。



というわけで、今の松原通にかかる「松原橋」が「旧五条橋」ではないかとの想像が駆け巡る。この橋は清水寺の参道にあたるため古くからかけられており、清水さんへお詣りにいくための「清水橋」とも、また清水寺の僧の勧進によってかけられたので「勧進橋」とも呼ばれていた。牛若丸と弁慶の出会いも、この松原橋といわれている。松原橋を渡ってみると、東山三十六峰が美しい稜線を描く、なんとも絵になる眺めである。
いっぽう現在の五条通にはじめて橋がかけられたのは天正年間(1573〜91)。豊臣秀吉が方広寺大仏殿を造営するにあたって、鴨川に橋をかけよと命じたらしい。牛若丸と弁慶が出会ったとされる1176年には、今の五条大橋は存在しなかったことになる。となると、やはり今の五条通ではなく、この松原通が牛若丸と弁慶の出会いの場となり、橋も松原橋ということになるのか…。お話はすんなりと終わらしてくれない。牛若丸と弁慶の出会いは、実は松原橋(旧五条橋)でもなく、五条天神社の境内が舞台だという説もある。そもそも牛若丸と弁慶の物語は室町時代の「義経記(ぎけいき)」などによって伝えられたもの。真偽のほどは不明であるが、五条天神社がなんらかの鍵を握っていそうだ。



五条天神社は794年、桓武天皇の平安遷都にあたり、大和の国から天神を勧請したという歴史をもつ古社。かつては代々天皇が参詣し、伝教大師や弘法大師も、ここに安全を祈願して唐に渡ったという社記が残っていたとのこと。中世には境内の広さが東西四町、南北五町におよび、周囲はうっそうたる森におおわれていた。その境内にはかつて西洞院(にしのとういん)川が流れ、橋はそこにかかっていたというのである。



五条天神社を訪ねてみると、庶民的な雰囲気のある松原商店街の一角にあたり、橋も川も森も、当然のことながら姿をとどめない。おまけに境内に高層マンションが建てられ、その下にかろうじてお社が残っている状態。街の片隅にあり見過ごしてしまいそうな神社だが、よく見ると確かに、ただならぬ荘厳さを漂わせている。「義経記」によると弁慶が999振りの太刀を奪い、あと一振りを祈願して五条天神社に詣り、そこで待ち伏せしているときに牛若丸と出会う。そこで勝負に挑むのだが、牛若丸はゆらりゆらりと飛び渡り、弁慶はその天狗のハヤワザに到底かなわない。翌日、弁慶は清水寺に参詣し、そこで牛若丸を再び待ち伏せて、再び討ちあいとなる。ところは清水の舞台。しかし、弁慶はまたしても負け、牛若丸に主従の誓いをするというもの。この話がもとになって、五条天神社と清水の舞台という二箇所の設定がいつしか清水へ向う道と五条の橋ということで、松原橋(旧五条橋)にむすびついたというのである。



五条天神社は祭神に大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなびこなのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る。これは鞍馬寺の鎮守社である由岐(ゆき)神社と共通する祭神で、鞍馬と五条天神社は牛若伝説でつながっているのかも知れない。五条天神社はまた、古来から「天使社(てんししゃ)」という名前をもち、医道、まじないの神としてあがめられてきた。9月1日と節分にはおけらと小餅、宝船などを宮中へ献じたそうで、この宝船図は日本最古の宝船として珍重されている。江戸時代には、参詣者で大いに賑わったという。神社は応仁の乱など度重なる兵火に巻き込まれ、由緒書は残らない。頼るのは義経記などの書物の記述のみだという。1961(昭和36)年には鴨川の五条大橋西詰めに義経と弁慶の石像が完成した。義経と弁慶の物語は鎮守の森から橋の上へと対決の場を移す。


(五条橋)


(松原橋)

物語の場となる松原橋も五条橋も今は車が絶え間なく行きかって騒々しいが、義経と弁慶の物語は世紀を超えて私たちを楽しませ続けていることには変わりない。付近には今も「天使突抜(てんしつきぬけ)」という地名が並ぶ。キリシタンとのゆかりを考える向きもあるというが、もしそうだとすると、「天使社」と名づけられた古代に一体何があったのだろう。異界伝説を想像してみたくなる「まじないの神様」である。また、好奇心が鎌首を持ち上げてきそうな…今京都。


 

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天を仰いで思うこと はる、よる 2009/06/24 12:00 am

る、よる
軽い尊敬の意を表す。「この本読まハルか」「なさる」から「なはる」を経てハルに。「お馬が通らハル」のように動物にも用い、「この子よう泣かハリますやろ」と自分の子に対しても使う。一方、〜ヨルは第三者の動作を軽く侮っていう男性語。「嫌なやつが来ヨッタ」 言いヨル、行きヨル、読みヨル、書きヨルのように動詞の連用形にヨルをつけた。行ッキョル、書ッキョルのようにもいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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方山話(57)
日常品について思うこと



(1)平安時代には神事の際の装身具として使われていた。
(2)使用している材料が貴重品だったために奈良時代にも庶民には浸透していない。
(3)鎌倉時代になって少しずつ普及し始める。
(4)江戸時代には生活必需品として定着していった。
(5)機能性だけではなく、芸術性も重視されるようになったのも江戸時代。
(6)考案したデザインで作り上げて競う合いもあった。
(7)明治時代には新しい技法が考案された。
(8)昭和の頃は日常品の枠を超えて全国に広がった。
さて、何のことだと思う? 実は「てぬぐい」のこと。



再掲すると、
(1)平安時代には神事の際の装身具として使われていた。
(2)布が貴重品だったため奈良時代にも庶民には浸透せず、鎌倉時代から少しずつ普及し始める。
(3)江戸時代には綿の栽培が各地で行われるようになり、「てぬぐい」は生活必需品として定着していった。
(4)機能性だけではなく、芸術性を重視されるようになったのもこの頃。
(5)「てぬぐい合わせ」という催しが粋な人々の間で広がり、それぞれの考案したデザインを「てぬぐい」に染めて競い合った。
(6)それにより染めの技術も発達。
(7)明治時代にはいって、「注染」という染めの技法が考案され、染め業界に大革命がおこる。
(8)昭和の頃には「てぬぐい」を趣味とした会ができるなど日常品の枠を超えて全国に広がる。
(9)今では様々な色柄の「てぬぐい」が生まれ、自由な発想で使われている。
というのが「てぬぐい」のざっとした歴史。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

「てぬぐい」を、少しばかり持っている。最近はハンカチを使うより「手ぬぐい」愛好家だ。和物を扱うお店も増えている。使用用途は様々で、アイデア次第でお洒落なアイテムとなる。確かに便利な代物だ…と、天を仰いで思うこと。


 

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今京都 けなりい 2009/06/23 12:00 am

なりい
うらやましい。「おうちの子たちは、みなようおできになるさかいケナリイわ」 ケナルイとも。もとは「異(け)なり」から。「けなり」に「い」を付けて形容詞にした。普通とは違っている、特異である、殊勝な、の意味に基づく。ケナゲ(健気)はもと「けなりげ」からで、勇ましい、健やかな、子どもなどが懸命に努めるさまを指す。また、ウラヤム(羨む)り「うら」は心。心が病むから妬(ねた)むの意味になった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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ヶ辻 (旧フォトヴィレッジ 2007年7月5日掲載)
京都御所を囲む築地塀。その北東角の辺りを「猿ヶ辻(さるがつじ)」と呼ぶ。



御所の鬼門にあたるここは魔よけのために塀の角がへこませてある。そして、よく見ると、軒下に御幣を持った猿の彫像が祭られている。幕末の動乱期、この「鬼門よけ」のへこみに何者かが身を潜め、尊皇攘夷派の若い公家を暗殺する事件が起きた。1863年5月の「猿ヶ辻の変」。「猿ヶ辻の変」は歴史小説の題材にもなり、司馬遼太郎の作品などに描かれている。





その「猿ヶ辻の変」のお話とは…。
襲われたのは当時、三条実美とともに攘夷派の中心人物だった姉小路公知。日米修好通商条約の締結に反対し、前年には朝廷の副勅使として幕府に攘夷実行を強く迫っていた。5月20日夜、御所での会議を終えて門を出た公知は従者3人とともに帰途につく。猿ヶ辻に差しかかった時、突然、刀を持った黒い影に道を遮られた。公知は従者に「太刀を」と求めたが、太刀と提灯を持った従者2人は後ずさりして逃げてしまう。公知は手元にあった扇で応戦するほかなく、顔や胸を切られて重傷を負った。残った一人の従者に抱えられて屋敷に戻ったが、まもなく息絶えたという。



後に、凶漢は三人で、公知は胸に深さ12cmの傷を負いながらも、相手の太刀を奪って切り返したという。また、突然の訃報に、京都では「泣く者ばかり」だった、ともいわれている。事件後、犯人として一人の薩摩藩士が浮上し、取り調べられた。しかし彼は詳細を語らないまま自殺してしまう。誰の陰謀で誰が実行したのか、真相は歴史の闇、というもの。



このへこみにたたずんでいると、確かに、死角になる。もしも「鬼門よけ」という死角がなかったら、待ち伏せは成功しなかったかもしれない。あの夜、築地塀から真犯人を見ていたであろう猿の彫像は、今もただ静かに座っている、ここは京都御所の「猿ヶ辻」…今京都。


 

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今京都 けたつ 2009/06/22 12:00 am

たつ
踏み台。「庭の木を切るし、ケタツ持ってきて」 ケタツは脚立から。クラカケとも。「はしごに鞍掛(くらかけ)いらんかなー」と、梅ヶ畑から京の町中に振り売りに来る女性の声がよく聞かれた。クラカケは鞍を掛けておく四脚の台を、踏み台として用いたことに始まる。四脚の高い踏み台をアシツギといい、足継ぎの意。「棚のもん、降ろすさかい、アシツギ持ってきてんか」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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現在、京都を離れています。ブログの更新はいたしますが、皆様のブログへの訪問は無理だと思います。ご容赦ください。明日より、復活する予定です。










 

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今京都 さらば 2009/06/21 12:00 am

らば
さようなら。寄り合いをして別れるときにいうあいさつことば。洛北・八瀬で老年層が使用してきた。今の若者はバイバイというが、かつてはサイナラということが多かった。「サイナラ三角また来て四角」と子どもが別れる時によく言い合った。サラバもサイナラも、もともと「そうであるならば」の意味。「サラバ、明日は早く起きられるように」などと次に言葉を続けたものである。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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現在、京都を離れています。ブログの更新はいたしますが、皆様のブログへの訪問は無理だと思います。ご容赦ください。また、この間(月曜日まで)、羅漢をお楽しみください。










 

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