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rrbのブログ - 2009/05のエントリ

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天を仰いで思うこと はしり 2009/05/18 12:00 am

しり
台所の流し元。「お茶碗やお皿をハシリまで持って行って」 東京のナガシに対する。ハシリモトは台所の水の流れるもと、水道の蛇口のもとを指す。台所はダイドコとも。宮中の清涼殿内の女房の詰め所である台盤所の略。台所に設置して茶器などを収納するタンス風のものをミズヤという。「お茶碗をミズヤにいれてナオス(しまう)」 水屋はもとは茶室の隣室に設けた茶器を洗う場所。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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方山話(7)
ポストの色 (エキサイト 2008年2月9日掲載)



日本に最初にポストができたのは、今から130年以上も前の1871年のこと。このころは、まだポストは木で作られており、今のように赤い色はしていなかった。つまり、ポストは最初から赤かったわけではない。



ポストが赤くなったのは、最初のポストができてから37年後の1908年のこと。この年、初めて鉄でできた赤いポストが町に置かれた。このときポストを赤くぬった理由は、やはり赤が一番目につくからということ。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

町の中に置いたときにどんな色にすればよく目立つかということから決定された。なぜポストが赤いかは、その色がよく目立つためという理由。
そういえば、「カラスがカーァと鳴くのも、角のポストが赤いのも、みんなの成績が悪いのも、みーんなワタシが悪いんです」という先生がいた。高校のときの英語の先生だった…と、天を仰いで思うこと。


 

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天を仰いで思うこと いぬ 2009/05/15 12:00 am


「えらい遅うなったし、もうイヌわ」 「帰る」の意で、丹後ではイヌルという。奈良時代から使われてきた。江戸時代後期に四段活用で使用。インデクルともいい、「忘れ物したし、インデクルわ」 イノーは帰ろう。インデコイは帰れで、離縁する意味にもなった。『万葉集』では「行く」や「過ぎ去る」の意味もあった。「うぐひすぞ鳴きていぬなる梅が下枝(しずえ)に」のこのイヌは「移っていく」ことを表す。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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方山話(1)
絵馬について思うこと (エキサイト 2008年1月30日〜2月4日掲載)



常日頃、神仏に頼っていない人でも大半の人は行っているのが「初詣」。今年も年の初めに様々な願い事を何人もの人が奉納したことには違いない。寺社仏閣への行ったときのひとつの楽しみは絵馬である。ハシタナイけれど奉納されている絵馬を見てしまう。ひっくり返してまでは見ないけれど、見えている範囲で読んでしまう。神社の本殿に立って心の中で願い事をつぶやく、絵馬に願い事を文字にして奉納する。どちらも願い事を託すことには変わりない。この絵馬を見ると世相の一端が見えるような気がするし、絵馬を読むのは結構楽しい。以前の合格祈願は大学・高等学校が占めていた。しかし、最近は私立の小学校・中学校ばかりでなく、幼稚園入園の合格祈願も増えている。当然、資格関係の合格祈願もある。



その絵馬について気になることがある。絵馬にはどうして氏名はもちろん住所まで書いているのだろう。そもそも絵馬に氏名・住所は必要なのだろうか? 本殿の前で手を合わせて願い事を心でつぶやく時、「自分はどこどこの誰々です」とつぶやくだろうか? 誰もつぶやいていないと思う。少なくとも自分はつぶやいていない。恋愛成就や結婚祈願の場合、相手の名前をつぶやくことがあったとしても、自分の氏名などはつぶやいていない。しかし、絵馬には、自分の氏名はもちろん住所までしっかり書いているものが大半なのである。なぜ? 絵馬奉納のルールなのか? 絵馬に氏名とか住所を書くのが奉納のルールとするならば、今は個人情報保護が叫ばれる時代。「他人に読まれることがありますよ、よろしいですか?」という許諾が必要となってくるはずであるが、そんな説明は聞いたことがない。しかし、絵馬を書くときには大半の人が氏名や住所まで書く。いや、書いてしまうのである。なぜ書いてしまうのか…考えながら絵馬を見ていたとき、「どこどこの誰々って書かないと神様が誰のことかわからなくなるでしょ」と子供に説明している親の言葉が耳に飛び込んできた。「なるほど!」と言いたいが、本殿の前で手を合わせて願い事を心でつぶやく時、「自分はどこどこの誰々です」とつぶやかないのが通常である。本殿の前に立ったときは容姿をさらけ出しているから特定されている、あるいは、直接頼んだから大丈夫という安心なのか?


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

今は個人情報保護に気をつかう時代。他人様の絵馬を読みながら、心の中では個人情報への配慮と楽しさと心配の葛藤がある。その絵馬も最近変わってきた。縁結びのお社で発見したのであるが、書いた上にシールを貼る絵馬が誕生している。「やっぱり、個人情報保護!」と思ったが、どうも違うようである。このシールは個人情報の保護という考えではなく、絵馬を誰かに見られることを意識しないようにというもの。誰かに見られると意識してしまうと、願い事を書くのにためらいがでてくる人に対する配慮だという。シール貼る絵馬、シールで見えなくしても神様は願い事をかなえてくれるの?と思うが、本殿にお参りするとき、何かに願い事を書くわけでもなく心の中でつぶやくだけである。つまり、神様と心のやり取りをするのである。絵馬に文字にして書いたときこそが神様との心のやり取りなのであって、絵馬を掛けた(奉納した)時ではないのである。気持ちをもめて書けば、たとえシールで隠されていても、神様とは心のやり取りができている。そこには、当然、氏名も住所もいらない。神様は全てお見通しということ。誰かに当てたメッセージや見ていただくのを目的とした場合、目印となるものは書くことにして、氏名も住所も書かず奉納することにしよう。神様は全てお見通しだし、個人情報保護の時代でもあるし…と、天を仰いで思うこと。


 

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天を仰いで思うこと おやかまっさん 2009/05/13 12:00 am

やかまっさん
「おおきに、オヤカマッサンどした」と辞去の時のあいさつ。お邪魔しました、お騒がせしてすみませんでしたの意。やかましいに基づく。オ〜サンを用いて丁寧語に。平安時代に「あなかま」といえば「ああ騒がしい」で、「あな」は感動詞、「かまし」は騒がしい。公家は「ごめんどう申し上げました」、お付の者は「ごめんどうさんをあそばしましてございます」とあいさつした。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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方山話(50) ちょっと気になる「ことば」の話
おビールお持ちしました



最近、飲みに行くとよく聞くこの言葉。実は少し違和感を覚えている。「おビール」と「お持ちしました」の部分だと思う。「おビール」は、最近、ごく普通に使用されているから、違和感を覚える人も少ないだろうが、実は違和感がある。たとえば「(先生の)おカバンをお持ちします」の場合の「おカバン」は、先生の持ち物で、先生を高めるために「お」をつけるが、「ビール」は誰の持ち物でもなく、極端にいえば、運んできた自分の物で、尊敬すべき相手がない。この場合、「ビール」に「お」をつけるのは言葉を上品に美しくするためで、「おビール」のような語を美化語という。「おカバン」も前掲のように相手を高めるために使った場合は尊敬語になるが、「私はおカバンを買いました」のように自分の物についていった場合は美化語となる。美化語は上品な物言いをして自分の品位を高めるための表現だから、使うか使わないかは大きな個人差がある。



さて、「おビール」であるが、これは飲食店などで使われ始めその世界では既に定着しているようだ。美化語は、自分が上品だということを示すための表現であるから、一般化していないものほど使用効果が高いといえるが、あまり使いすぎるとかえって品位を失うことになる。不足すると乱暴な言葉遣いになるし、過剰になると顰蹙を買う。「おジュース」なんてあり得ない。
次に「お持ちする」だが、「持つ」は自分の行為だから「お」をつけるのはおかしいと感じる人がいるかも知れない。さりとて相手を高めているわけだから、美化語とも考えられない。「お〜する」は全体で謙譲語であるから問題はないと考え違和感を持っていない。しかし、金田一京助氏は「お〜する」を謙譲に使用するのは間違いしているから、大正の頃は正しくない表現だと考えられていたようだ。現在では「(先生を)お誘いする」「(先生のために)お調べする」などは最も普通の謙譲表現であるが、以前は不自然だと感じられていたようだ。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

現在ではさらに「(私は会社を)お休みします」のように行為が開いてに及ばず謙譲にならない「お〜する」も使用されており、美化語としかいうしかない。年配の人には違和感を強く訴える人もいるが、若い女性などには広く使われているようだ。こうみると「お〜する」は、謙譲の使い方も認められない時期から、それの認められる時期、そして美化語として使われる時期と、3回も変化していることになる。美化語的な「お〜する」も、やがては違和感なく認められる時期がくるということか…。「おビール」「おジュース」はまだ一般化した表現ではなく、美化語も使いすぎるとかえって品位を失うというお話。
お酒はOKでおビールはNG。おそばはOKでおパスタはNG。お召しものはOKでおスーツはNG。まぁ、英語に敬語はないからなぁ…と、天を仰いで思うこと。


 

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天を仰いで思うこと おいでやすおこしやす 2009/05/11 12:00 am

いでやすおこしやす
「ようこそいらっしゃいました」をオイデヤスという。もっと丁寧な感じを表現する時にはオコシヤス。また、「オイデヤシトクレヤス」「ようこそオコシヤシトクレヤシタ」の言い方もある。銭湯などでは来た客にも帰る客にも使い、帰る客には「またオイデヤス」と声をかけた。接頭辞「オ」と接尾辞「ヤス」をはさむ敬語表現は京ことばに多い。「オ読みヤス」「オ書きヤス」など。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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のネタ雑学(40)
日焼けのあとがかゆいのはなぜ?



天ぷら油などが飛んで火傷したとき、赤く晴れてヒリヒリ痛み、水膨れになることがある。やがて治ってくると、皮は茶色くなってむけてしまう。日焼けもこれと同じ。つまり軽い火傷である。だから、日焼けのひどいものは水膨れになるし、時間が経てば皮がむけてくる。


(季節は過ぎたけれど、まだ在庫があるので掲載)

ところで日焼けが痒いのはなぜだろう。それは痛みとかゆみは兄弟のようなもので、痛みがうんと軽いときは、かゆく感じられる。皮膚には痛みを感じる痛点がある。痛点をそっと触れるとゾクゾク感じる。これがかゆみである。やけどをしたり、蚊に喰われたときは、皮膚のすぐ内側の小さな袋が破れて、中からヒスタミンというかゆみの成分がでる。このため、痛さが強くないときはかゆみを感じるのである。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

かゆみ止めには、ヒスタミンを抑える成分が入っている。かゆいときにかくともっとかゆくなるのは、かくことでヒスタミンの袋がさらに破れて、ヒスタミンがたくさんでるからである。これからの季節、日焼けにも注意をしたい…と、天を仰いで思うこと。
★前回はここ(←クリック)


 

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天を仰いで思うこと よーいやさー 2009/05/08 12:00 am

ーいやさー
祇園甲部歌舞練場で開催する都をどりの開幕のときの囃子(はやし)ことばである。囃子と三味線の軽やかな音色とともに幕が上ると、地方(じかた)の筆頭から「みやこおどりわー」と独特のよく通る声が響く。それを受けて、舞妓たちが、「ヨーイヤサー」と東西の花道から列をなして華やかに舞台へと進み出る。都をどりは、1872(明治5)年の京都博覧会の余興として行われたのが最初である。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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のネタ雑学(39)
泣くと涙や鼻水が出るのはなぜ?



焚き火の煙に巻かれたり、強い北風に当たったり、玉ネギの皮をむいたりすると涙がでる。これは目を刺激するものを洗い出そうと涙の量が増えるため。ふだんでも涙は目を乾かさないように流れている。でも、目の内側にある涙道から鼻へ流れる量が少ないので見えない。


(季節は過ぎたけれど、まだ在庫があるので掲載)

しかし、涙の量が増えると、涙道では処理しきれず目からあふれ出てくる。もちろん涙道からも洪水となって鼻腔へ流れる。これが鼻水。ところで生まれてから数ヶ月の間、赤ちゃんは涙を流さない。感情的に流す涙は自分の気持ちを伝えるのに効果的だと学習して、はじめて出るものだから。女性が男性よりよく涙が出るのもこの学習をした成果である。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

欠伸をしても涙が出るが、これは顔の筋肉が動かされることで、涙道に流れる前に溜めておく涙嚢(るいのう)という袋が圧迫されるため。だから何回も欠伸をしていると涙はでなくなる。女性の涙は学習のたまものであるということにご用心!…と、天を仰いで思うこと。
★前回はここ(←クリック)


 

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