rrbのブログ - 2009/10のエントリ
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今京都 むしやしない 2009/10/04 12:00 am
むしやしない
「晩ごはんまで、まだ間があるさかい、ムシヤシナイにパンでも食べていて」 虫養い。空腹を一時的にしのぐ軽食のこと。腹の中の虫を養うという意味から。「何もあらしまへんけど、オムシヤシナイにどうぞおあがりやす」 丁寧にオムシヤシナイという。江戸時代には、客をもてなすときに、食後に出す食べ物を「後段(ごだん)」といった。幕末の英和辞書には、dessertは「後段」と訳されている。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
羅漢



地蔵物語(278)


「晩ごはんまで、まだ間があるさかい、ムシヤシナイにパンでも食べていて」 虫養い。空腹を一時的にしのぐ軽食のこと。腹の中の虫を養うという意味から。「何もあらしまへんけど、オムシヤシナイにどうぞおあがりやす」 丁寧にオムシヤシナイという。江戸時代には、客をもてなすときに、食後に出す食べ物を「後段(ごだん)」といった。幕末の英和辞書には、dessertは「後段」と訳されている。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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地蔵物語(278)



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今京都 つろくする 2009/10/03 12:00 am
つろくする
釣り合いがとれる。調和する。「おまえにツロクした学校に入れたらええ」「この服にこの靴ではちょっとツロクせんわな」 対禄(ついろく)という意味からか。禄高が釣り合う、禄に相当するということからツロクというようになった。ツーロクという地域もある。縁談のときにも使用した語。京都人はツロクする付き合いを重んじた。分相応の生活を心掛ける風習は町家に住む人たちの知恵でもあった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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中秋の名月。格別に意識して撮ろうとは思っていないが、何気なく撮ってしまう月。また、突然、衝撃的に出会う月。最近の記憶では嵐山で見た月(←クリック)が印象的だった。
昨年からここ数年後の名月の予定
平成20(2008)年 - 9月14日
平成21(2009)年 - 10月03日
平成22(2010)年 - 9月22日
平成23(2011)年 - 9月12日
平成24(2012)年 - 9月30日
平成25(2013)年 - 9月19日
平成26(2014)年 - 9月08日
平成27(2015)年 - 9月27日
平成28(2016)年 - 9月15日
今日は名月だ。昨年の名月の記事はここ(←クリック)。
えびす神 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月31日掲載)
ふくよかな表情でタイを抱え、右手に釣りざおを持つ。商売繁盛のご利益があるとされるえびす神は、七福神の中で唯一、日本で生まれたと伝わる。「えべっさん」の愛称で庶民から親しまれているため、えびす神を祭る神社は全国で数千に上るという。

京都のゑびす神社は、西宮神社、大阪今宮神社とともに「日本三大えびす」に数えられ、庶民のえびす信仰発祥地の一つ。ゑびす神社のえびす神伝説は、神社の縁起と深くかかわっている。ゑびす神社は、臨済宗の開祖栄西が建仁寺を建てるための鎮守社として1202(建仁2)年に創建した。栄西は航海の危険性から約200年間途絶えていた海外留学に挑み、宋に2度渡った。

江戸中期刊行の「都名所車」に逸話が残っている。栄西は船で宋に向かう途中嵐に巻き込まれたが、慌てる様子もなく海に向かって拝んだ。すると波間からえびす神が現れ、船首に立つと、たちまち波風が静まったという。栄西はその姿を写しとどめ、えびす神をまつる社を建てた。「渡航中にえびす神が現れる話は海の神、旅の神としての接点もあるが、えびす神は万能で霊験あらたかな神。神職出身の栄西禅師はもともとえびす神を深く信仰していたのではないか」といわれる。

ゑびす神社によると、室町時代には京都で同神社を含む「七福神めぐり」が始まった。江戸時代には商売繁盛や旅の安全を祈る人たちでにぎわいを増した。江戸中期に大衆に広まった「都林泉名所図会」には、大勢の人が詰め掛ける境内の様子が描かれている。絵の中で人々が手にするササは、ゑびす神社が江戸時代に配り始めた札の代わりという。これが全国に広まり、「えべっさんのササ」が定着したといわれる。

1月の十日えびすには、5日間で全国から100万人が訪れるという。 もっと儲かるようにと考えるのではなく、心新たに1年の無事を祈るのが本来の祈願。景気の良い悪いに関係なく、毎年多くの人にお参りいただきたいというのが本社の真意かも知れない…今京都。

釣り合いがとれる。調和する。「おまえにツロクした学校に入れたらええ」「この服にこの靴ではちょっとツロクせんわな」 対禄(ついろく)という意味からか。禄高が釣り合う、禄に相当するということからツロクというようになった。ツーロクという地域もある。縁談のときにも使用した語。京都人はツロクする付き合いを重んじた。分相応の生活を心掛ける風習は町家に住む人たちの知恵でもあった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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中秋の名月。格別に意識して撮ろうとは思っていないが、何気なく撮ってしまう月。また、突然、衝撃的に出会う月。最近の記憶では嵐山で見た月(←クリック)が印象的だった。
昨年からここ数年後の名月の予定
平成20(2008)年 - 9月14日
平成21(2009)年 - 10月03日
平成22(2010)年 - 9月22日
平成23(2011)年 - 9月12日
平成24(2012)年 - 9月30日
平成25(2013)年 - 9月19日
平成26(2014)年 - 9月08日
平成27(2015)年 - 9月27日
平成28(2016)年 - 9月15日
今日は名月だ。昨年の名月の記事はここ(←クリック)。
えびす神 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月31日掲載)
ふくよかな表情でタイを抱え、右手に釣りざおを持つ。商売繁盛のご利益があるとされるえびす神は、七福神の中で唯一、日本で生まれたと伝わる。「えべっさん」の愛称で庶民から親しまれているため、えびす神を祭る神社は全国で数千に上るという。

京都のゑびす神社は、西宮神社、大阪今宮神社とともに「日本三大えびす」に数えられ、庶民のえびす信仰発祥地の一つ。ゑびす神社のえびす神伝説は、神社の縁起と深くかかわっている。ゑびす神社は、臨済宗の開祖栄西が建仁寺を建てるための鎮守社として1202(建仁2)年に創建した。栄西は航海の危険性から約200年間途絶えていた海外留学に挑み、宋に2度渡った。

江戸中期刊行の「都名所車」に逸話が残っている。栄西は船で宋に向かう途中嵐に巻き込まれたが、慌てる様子もなく海に向かって拝んだ。すると波間からえびす神が現れ、船首に立つと、たちまち波風が静まったという。栄西はその姿を写しとどめ、えびす神をまつる社を建てた。「渡航中にえびす神が現れる話は海の神、旅の神としての接点もあるが、えびす神は万能で霊験あらたかな神。神職出身の栄西禅師はもともとえびす神を深く信仰していたのではないか」といわれる。

ゑびす神社によると、室町時代には京都で同神社を含む「七福神めぐり」が始まった。江戸時代には商売繁盛や旅の安全を祈る人たちでにぎわいを増した。江戸中期に大衆に広まった「都林泉名所図会」には、大勢の人が詰め掛ける境内の様子が描かれている。絵の中で人々が手にするササは、ゑびす神社が江戸時代に配り始めた札の代わりという。これが全国に広まり、「えべっさんのササ」が定着したといわれる。

1月の十日えびすには、5日間で全国から100万人が訪れるという。 もっと儲かるようにと考えるのではなく、心新たに1年の無事を祈るのが本来の祈願。景気の良い悪いに関係なく、毎年多くの人にお参りいただきたいというのが本社の真意かも知れない…今京都。


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今京都 せわしない 2009/10/01 12:00 am
せわしない
忙しい。「ようけ仕事がたまって、ほんまにセワシナイな」 セワシナイ人は落ち着かない人。コゼワシナイとコをつけてもいう。セワシイとも。世話は室町時代には「日常の言葉」という意味であった。セワナは「世話のかかる」 他人のために忙しくし、面倒をみることに使う。セツロシイはセワシナイの類義語で、セツは「切に」の意で急迫したさまの形容。「やんやん言わんといてんか。セツロシイやんか」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
神無月、今日から10月だ。出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなる、というものが一般的な通説。この出雲の神々で記憶にあり、ある意味ショッキングなお話に「因幡の白兎」がある。なぜショッキングとかというと…それは明日掲載しよう。
白峯神宮/鞠の精 (旧フォトヴィレッジ 2007年7月26日掲載)
京都市上京区今出川通堀川東入ルに保元の乱(1156年)で讃岐国(香川県)に配流された崇徳天皇(1119〜1164年)と、藤原仲麻呂の乱で廃位され淡路島に流された淳仁天皇(733〜765年)を祭神としている白峯神宮(しらみねじんぐう)がある。今ではサッカーの神様しとてのほうが有名かもしれない。


鞠(まり)をけりながら清水寺の舞台の欄干上を往復したり、座らせた人たちの肩の上で鞠を蹴り続けても「タカが手に止まったほどに思われた」と言わしめた達人。鞠を蹴り上げれば、上空の雲まで達したという。平安時代後期の公卿藤原成通(ふじわらなりみち)は蹴鞠(けまり)の名手とされ、驚異的な逸話が「古今著聞集」などに残されている。

その努力の仕方も常人の域を超えていたという。病気になっても寝ながら鞠をけり、土砂降りの雨でも大極殿で練習するなど、200日の間、1日も欠かすことなく鞠をけり続け、蹴鞠場通いは7000日を超えたという。そんな成通(なりみち)の前に現れたのが、鞠の精だった。成通は蹴鞠の上達のために1000日間練習を行うとの誓いを立てた。誓いをやり通した夜、祭壇に置いた鞠が転げ落ちた。成通が目を向けると、顔は人間だが、手足と体はサルのような姿をした3人の鞠の精が立っていた。鞠の精は成通の偉業をたたえるとともに、「蹴鞠をする時には、私たちを呼んでください。すぐに参上します。私たちはあなたを守護し、蹴鞠の道に上達することを約束しましょう」と告げ、姿を消したという。



鞠の精が自分たちの名前を紹介する際、それぞれの額に金色で書かれた「春楊花」「夏安林」「秋園」の文字を示した。その呼び名から、鞠をける時の掛け声が「アリ」「オウ」などとなったともいわれる。鞠の精は、白峯神宮で「精大明神」として祭られている。白峯神宮は、鞠と和歌の宗家である飛鳥井家が明治維新で東京に移った際、その邸宅跡に建てられた。そのため、飛鳥井家が代々、祭ってきた「精大明神」が境内に末社として残った。

4月14日の春季大祭と7月7日の「精大明神祭」では、境内で蹴鞠が奉納される。2001年には、蹴鞠の碑が建立され、球技の上達を願う中高生らが後を絶たないという。「精大明神」は、時代とともに、技能や芸能の神としても祭られるようになった。サッカーワールドカップのフランス大会で日本が初出場した際に新聞やテレビで紹介されたのをきっかけにして、京都以外からも多くの人が参拝に訪れるという。今ではサッカーの神様、白峯神宮…今京都。

忙しい。「ようけ仕事がたまって、ほんまにセワシナイな」 セワシナイ人は落ち着かない人。コゼワシナイとコをつけてもいう。セワシイとも。世話は室町時代には「日常の言葉」という意味であった。セワナは「世話のかかる」 他人のために忙しくし、面倒をみることに使う。セツロシイはセワシナイの類義語で、セツは「切に」の意で急迫したさまの形容。「やんやん言わんといてんか。セツロシイやんか」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
神無月、今日から10月だ。出雲大社に全国の神が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなる、というものが一般的な通説。この出雲の神々で記憶にあり、ある意味ショッキングなお話に「因幡の白兎」がある。なぜショッキングとかというと…それは明日掲載しよう。
白峯神宮/鞠の精 (旧フォトヴィレッジ 2007年7月26日掲載)
京都市上京区今出川通堀川東入ルに保元の乱(1156年)で讃岐国(香川県)に配流された崇徳天皇(1119〜1164年)と、藤原仲麻呂の乱で廃位され淡路島に流された淳仁天皇(733〜765年)を祭神としている白峯神宮(しらみねじんぐう)がある。今ではサッカーの神様しとてのほうが有名かもしれない。


鞠(まり)をけりながら清水寺の舞台の欄干上を往復したり、座らせた人たちの肩の上で鞠を蹴り続けても「タカが手に止まったほどに思われた」と言わしめた達人。鞠を蹴り上げれば、上空の雲まで達したという。平安時代後期の公卿藤原成通(ふじわらなりみち)は蹴鞠(けまり)の名手とされ、驚異的な逸話が「古今著聞集」などに残されている。

その努力の仕方も常人の域を超えていたという。病気になっても寝ながら鞠をけり、土砂降りの雨でも大極殿で練習するなど、200日の間、1日も欠かすことなく鞠をけり続け、蹴鞠場通いは7000日を超えたという。そんな成通(なりみち)の前に現れたのが、鞠の精だった。成通は蹴鞠の上達のために1000日間練習を行うとの誓いを立てた。誓いをやり通した夜、祭壇に置いた鞠が転げ落ちた。成通が目を向けると、顔は人間だが、手足と体はサルのような姿をした3人の鞠の精が立っていた。鞠の精は成通の偉業をたたえるとともに、「蹴鞠をする時には、私たちを呼んでください。すぐに参上します。私たちはあなたを守護し、蹴鞠の道に上達することを約束しましょう」と告げ、姿を消したという。



鞠の精が自分たちの名前を紹介する際、それぞれの額に金色で書かれた「春楊花」「夏安林」「秋園」の文字を示した。その呼び名から、鞠をける時の掛け声が「アリ」「オウ」などとなったともいわれる。鞠の精は、白峯神宮で「精大明神」として祭られている。白峯神宮は、鞠と和歌の宗家である飛鳥井家が明治維新で東京に移った際、その邸宅跡に建てられた。そのため、飛鳥井家が代々、祭ってきた「精大明神」が境内に末社として残った。

4月14日の春季大祭と7月7日の「精大明神祭」では、境内で蹴鞠が奉納される。2001年には、蹴鞠の碑が建立され、球技の上達を願う中高生らが後を絶たないという。「精大明神」は、時代とともに、技能や芸能の神としても祭られるようになった。サッカーワールドカップのフランス大会で日本が初出場した際に新聞やテレビで紹介されたのをきっかけにして、京都以外からも多くの人が参拝に訪れるという。今ではサッカーの神様、白峯神宮…今京都。

