rrbのブログ - 2010/10のエントリ
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天を仰いで思うこと 偉大な人物 2010/10/07 12:00 am
偉大な人物
先日、NHKの番組で山口百恵さんの特集がされていた。武道館での最後のコンサートは感動ものである。もっと感動しているのは、これだけの国民的アイドルが、引退後にテレビの世界に復帰していないことだ。とてもカッコイイと思う。それだけ意思が強いということだろう。芸能人の中には、引退したと思えば数年で復帰している方も多い。また、解散したと思ったら、再結成というのもある。復帰する人々の心には、華やかな世界への憧れや名残があるのだろうか。それとも、まだまだ遣り残したことがあることに気づいて、それを成し遂げようとしているのか…想像の域をでない。
自分であればどうするだろう。数年前から、今の職場の引き際を検討している。2〜3年後にはひとつの区切りをつけたいと考えている。その考えは最近さらに強くなってきた。強くなったというより、今の職場に失意をさらに抱いたといったほうがいいだろう。とにかく、限界かな…という気持ちが今は強い。山口百恵さんのようにスッパリと引退することができるであろうか。考えるまでもなく、無理だ。理由は簡単だ。生きていくためには収入が必要である。有名人のように印税がある訳でもないし、爆発的に稼いでおり貯えがある訳でもない。当然、収入を得るためには、別の職場に就く。まぁ、まだ2〜3年後のことだから、焦って考える必要はない。のんびりと考えることにしよう。
話を戻そう。山口百恵さん、今は何をしているのだろう? できることなら、引退後のテレビに現れないその強い決意の根源は何なのか、を聞いてみたい。テレビ界というか芸能界に未練はないのだろうか。こういう偉大な人物の話は聞くだけの価値がある。聞いてみると、案外、「実は芸能界があまり好きではなかった」というのが本音かも知れない。もし、そうならば、もっとカッコイイ。あまり好きではない世界で、ある程度の地位を確立するまで頑張り、それを機にあまり好きでない世界を後にする。なかなかできることではないが、これが事実ならば、見習いたいと考える。しかし、地位の確立はまだまだできていないか。いずれにしても、山口百恵さんは偉大な人物で、生き方を見習いたい…と、天を仰いで思うこと。
先日、NHKの番組で山口百恵さんの特集がされていた。武道館での最後のコンサートは感動ものである。もっと感動しているのは、これだけの国民的アイドルが、引退後にテレビの世界に復帰していないことだ。とてもカッコイイと思う。それだけ意思が強いということだろう。芸能人の中には、引退したと思えば数年で復帰している方も多い。また、解散したと思ったら、再結成というのもある。復帰する人々の心には、華やかな世界への憧れや名残があるのだろうか。それとも、まだまだ遣り残したことがあることに気づいて、それを成し遂げようとしているのか…想像の域をでない。
自分であればどうするだろう。数年前から、今の職場の引き際を検討している。2〜3年後にはひとつの区切りをつけたいと考えている。その考えは最近さらに強くなってきた。強くなったというより、今の職場に失意をさらに抱いたといったほうがいいだろう。とにかく、限界かな…という気持ちが今は強い。山口百恵さんのようにスッパリと引退することができるであろうか。考えるまでもなく、無理だ。理由は簡単だ。生きていくためには収入が必要である。有名人のように印税がある訳でもないし、爆発的に稼いでおり貯えがある訳でもない。当然、収入を得るためには、別の職場に就く。まぁ、まだ2〜3年後のことだから、焦って考える必要はない。のんびりと考えることにしよう。
話を戻そう。山口百恵さん、今は何をしているのだろう? できることなら、引退後のテレビに現れないその強い決意の根源は何なのか、を聞いてみたい。テレビ界というか芸能界に未練はないのだろうか。こういう偉大な人物の話は聞くだけの価値がある。聞いてみると、案外、「実は芸能界があまり好きではなかった」というのが本音かも知れない。もし、そうならば、もっとカッコイイ。あまり好きではない世界で、ある程度の地位を確立するまで頑張り、それを機にあまり好きでない世界を後にする。なかなかできることではないが、これが事実ならば、見習いたいと考える。しかし、地位の確立はまだまだできていないか。いずれにしても、山口百恵さんは偉大な人物で、生き方を見習いたい…と、天を仰いで思うこと。
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天を仰いで思うこと 神無月 2010/10/03 12:00 am
神無月
気がつけば10月になっていた。色々な雑多に身を委ねていると時の経過のなんとはやいことか。「神無月」で思い出すのは、井上陽水さんの「神無月にかこまれて」の歌だ。
人恋しと泣けば十三夜
月はおぼろ 淡い色具合
雲は月を隠さぬように やさしく流れ
丸い月には流れる雲が
ちぎれた雲が よくにあう
井上陽水さんは、やはり詩人だと、つくづく思う。歌詞にある「ちぎれた雲」は、言葉では理解できるが、イメージとしては浮かんでこない。「ポッカリ雲」ではなく「ちぎれた雲」なのである。窓の外から雲を見るが「ちぎれた」イメージの雲はない。
風がさわぐ今や冬隣り
逃げるように渡り鳥がゆく
列についてゆけない者に また来る春が
あるかどうかは誰もしらない
ただひたすらの風まかせ
ここでのお気に入りは「今や冬隣り」である。この表現は思いもつかない。もうそこに冬が来ているというイメージだろうが、まだ10月である。11月ならばまだイメージできるかも…と言いたいが、なんのなんの、陰暦で11月は霜月。霜降りの月。陽暦では大体12月上旬から1月上旬に相当する。ということは、10月は11月の隣りだから、冬隣りとなる。「さすが井上陽水」といったところであろうか。「今や冬隣り」という言葉、機会があれば使用させていただこうと考えている。
神無月に僕は囲まれて
口笛吹く それはこだまする
青い夜の空気の中に 生きてるものは
涙も見せず笑いも忘れ
息をひそめて冬を待つ
小さい頃、夜に口笛を吹いている兄に向かって、祖母が「夜に口笛を吹くと蛇が寄ってくる」といっていた。当然、実際に蛇が寄ってくるわけではない。夜に口笛を吹かないようにしつけるための話だ。井上陽水さんの世代なら「しつけ」として教わっているのではないかと考える。もし、「しつけ」で教わっていたなら、それにも関わらず歌詞にいれるという発想が素敵だ。「ダメ」と抑制されたことへの一種の抵抗ともとれるし、澄んだ秋の夜空にこだまする音としては、「石焼きいも〜」より、口笛の音が相応しいと感じる。「石焼きいも〜」は別の意味で誘惑的ではあるのだが…。
それにしても、もともと言葉の探求や言葉遊びは好きだが、先日から井上陽水さんの世界、特に「歌詞」にはまっている…と、天を仰いで思うこと。
気がつけば10月になっていた。色々な雑多に身を委ねていると時の経過のなんとはやいことか。「神無月」で思い出すのは、井上陽水さんの「神無月にかこまれて」の歌だ。
人恋しと泣けば十三夜
月はおぼろ 淡い色具合
雲は月を隠さぬように やさしく流れ
丸い月には流れる雲が
ちぎれた雲が よくにあう
井上陽水さんは、やはり詩人だと、つくづく思う。歌詞にある「ちぎれた雲」は、言葉では理解できるが、イメージとしては浮かんでこない。「ポッカリ雲」ではなく「ちぎれた雲」なのである。窓の外から雲を見るが「ちぎれた」イメージの雲はない。
風がさわぐ今や冬隣り
逃げるように渡り鳥がゆく
列についてゆけない者に また来る春が
あるかどうかは誰もしらない
ただひたすらの風まかせ
ここでのお気に入りは「今や冬隣り」である。この表現は思いもつかない。もうそこに冬が来ているというイメージだろうが、まだ10月である。11月ならばまだイメージできるかも…と言いたいが、なんのなんの、陰暦で11月は霜月。霜降りの月。陽暦では大体12月上旬から1月上旬に相当する。ということは、10月は11月の隣りだから、冬隣りとなる。「さすが井上陽水」といったところであろうか。「今や冬隣り」という言葉、機会があれば使用させていただこうと考えている。
神無月に僕は囲まれて
口笛吹く それはこだまする
青い夜の空気の中に 生きてるものは
涙も見せず笑いも忘れ
息をひそめて冬を待つ
小さい頃、夜に口笛を吹いている兄に向かって、祖母が「夜に口笛を吹くと蛇が寄ってくる」といっていた。当然、実際に蛇が寄ってくるわけではない。夜に口笛を吹かないようにしつけるための話だ。井上陽水さんの世代なら「しつけ」として教わっているのではないかと考える。もし、「しつけ」で教わっていたなら、それにも関わらず歌詞にいれるという発想が素敵だ。「ダメ」と抑制されたことへの一種の抵抗ともとれるし、澄んだ秋の夜空にこだまする音としては、「石焼きいも〜」より、口笛の音が相応しいと感じる。「石焼きいも〜」は別の意味で誘惑的ではあるのだが…。
それにしても、もともと言葉の探求や言葉遊びは好きだが、先日から井上陽水さんの世界、特に「歌詞」にはまっている…と、天を仰いで思うこと。