rrbのブログ - 2009/07/04のエントリ
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今京都 あまけのほっさん 2009/07/04 12:00 am
あまけのほっさん
雨気の星さんは、たまにしか出てこないもの。雨模様の夜空を見ても、星はまれにしか出ていないことからいう。「顔を見せるのは、アマケノホッサンほどやな」と慣用句として使う。雨気は雨が降りそうな空模様で、室町時代から使用。「アマケの太鼓でなりがわるい」という洒落ことばがある。「鳴り」を風采の意味の「なり」にかけた洒落。「なりがわるい」はナリクソワルイといい、体裁が悪いの意。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
バス停名(乾隆校・衣笠校) (旧フォトヴィレッジ 2007年6月19日掲載)
京都市上京区の千本通に「けんりゅうこう前」というバス停がある。当初、「高等学校」があるのだと思っていたが、何の何の「乾隆校(けんりゅうこう)」とは小学校なのである。「乾隆校(けんりゅうこう)」つまり「○○校」と聞いて、それが即座に小学校だとわかるのは、おそらく京都人だけだという。京都では中学校・高等学校より小学校のほうが大きな顔をしているといえる。それは「日本で最初に京都の町衆が番組小学校を開校させたから」かも知れない。番組小学校とは、小学校という教育機関だけでなく、学区単位の行政機関でもあるパブリックスペースだった。だから「○○校」といえば、京都人にとっては単なる小学校ではなく、自治の根幹をなすパブリックな拠点となるのである。

さて、バス停の名に戻るが「○○校」と呼ぶバス停は現在「乾隆校前」「衣笠(きぬがさ)校前」「北白川(きたしらかわ)校前」などがある。また、洛中碁盤の目の外にでると「常盤野(ときわの)小学校前」「嵯峨(さが)小学校前」「松尾(まつお)小学校前」「樫原(かたぎはら)小学校前」などと、同じ京都市バスでも「小学校」と呼んでいる。京都市交通局によると「基本は○○小学校前としている」ということらしいが、「その昔、市電が走っていた頃の停留所の呼称を引き継いでいる」ということでもある。しかし、京都の歴史を集めた「創立120周年記念○○校の歴史」などには、「○○校」が並んでいる。その立派な記念誌は、明治初年の開校以来、今日の小学校統廃合によって消え行く「○○校」の名を歴史の中にとどめようとするものだった。

そう、今回、写真を掲載した「乾隆校前」「衣笠校前」のバス停の呼称も、掲載できなかった「北白川校前」のバス停の呼称も、小学校の統廃合という制度がある限り、校名は永遠ではないのである。『「○○校」では小学校とはわからない…』とリポートしたこのブログが懐かしくなる…もしかしたら、そんな時代がもうそこまできているのかも知れない。

(中学校前はちゃんと「中学校」となっている。)
京都人だけに通用する「○○校」の歴史は、既に名前が消えてしまったところも、消えかかっているところも、今記憶にあるうちに住民が作り支えてきた学校として後世に伝えて欲しいと願いたいということらしいが、さてどうなることやら…今京都。
番組小学校について
京都市民の自治組織の最小単位が町(ちょう)。この町の組織が構成町人の合議制により、行政の末端単位として機能。これが江戸時代から伝わる町衆の組織であり、明治以降もその同じ組織を持ち越した。町(ちょう)はひとつの町組をつくる。明治維新後、京都では町組が京都府によって組かえられ、例えば上京5番組みというふうに番号が付された。明治元年から2年にかけて各番組ごとに開校された小学校が「番組小学校」で、上大組1番組小学校や、下大組33番組小学校と名付けられる。明治5年に政府指示で「区」に改められ、上京1区小学校や下京32区小学校となる。明治12年「組」へ改められ、上京1組小学校や下京32組小学校となる。明治25年「学区」制に再編成され、この折に「漢字名」も付けられた。これが現在の「元学区」の初めとなる。上京第1学区小学校(成逸校)や下京第32学区小学校(梅逕校)となる。

雨気の星さんは、たまにしか出てこないもの。雨模様の夜空を見ても、星はまれにしか出ていないことからいう。「顔を見せるのは、アマケノホッサンほどやな」と慣用句として使う。雨気は雨が降りそうな空模様で、室町時代から使用。「アマケの太鼓でなりがわるい」という洒落ことばがある。「鳴り」を風采の意味の「なり」にかけた洒落。「なりがわるい」はナリクソワルイといい、体裁が悪いの意。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
バス停名(乾隆校・衣笠校) (旧フォトヴィレッジ 2007年6月19日掲載)
京都市上京区の千本通に「けんりゅうこう前」というバス停がある。当初、「高等学校」があるのだと思っていたが、何の何の「乾隆校(けんりゅうこう)」とは小学校なのである。「乾隆校(けんりゅうこう)」つまり「○○校」と聞いて、それが即座に小学校だとわかるのは、おそらく京都人だけだという。京都では中学校・高等学校より小学校のほうが大きな顔をしているといえる。それは「日本で最初に京都の町衆が番組小学校を開校させたから」かも知れない。番組小学校とは、小学校という教育機関だけでなく、学区単位の行政機関でもあるパブリックスペースだった。だから「○○校」といえば、京都人にとっては単なる小学校ではなく、自治の根幹をなすパブリックな拠点となるのである。

さて、バス停の名に戻るが「○○校」と呼ぶバス停は現在「乾隆校前」「衣笠(きぬがさ)校前」「北白川(きたしらかわ)校前」などがある。また、洛中碁盤の目の外にでると「常盤野(ときわの)小学校前」「嵯峨(さが)小学校前」「松尾(まつお)小学校前」「樫原(かたぎはら)小学校前」などと、同じ京都市バスでも「小学校」と呼んでいる。京都市交通局によると「基本は○○小学校前としている」ということらしいが、「その昔、市電が走っていた頃の停留所の呼称を引き継いでいる」ということでもある。しかし、京都の歴史を集めた「創立120周年記念○○校の歴史」などには、「○○校」が並んでいる。その立派な記念誌は、明治初年の開校以来、今日の小学校統廃合によって消え行く「○○校」の名を歴史の中にとどめようとするものだった。

そう、今回、写真を掲載した「乾隆校前」「衣笠校前」のバス停の呼称も、掲載できなかった「北白川校前」のバス停の呼称も、小学校の統廃合という制度がある限り、校名は永遠ではないのである。『「○○校」では小学校とはわからない…』とリポートしたこのブログが懐かしくなる…もしかしたら、そんな時代がもうそこまできているのかも知れない。

(中学校前はちゃんと「中学校」となっている。)
京都人だけに通用する「○○校」の歴史は、既に名前が消えてしまったところも、消えかかっているところも、今記憶にあるうちに住民が作り支えてきた学校として後世に伝えて欲しいと願いたいということらしいが、さてどうなることやら…今京都。
番組小学校について
京都市民の自治組織の最小単位が町(ちょう)。この町の組織が構成町人の合議制により、行政の末端単位として機能。これが江戸時代から伝わる町衆の組織であり、明治以降もその同じ組織を持ち越した。町(ちょう)はひとつの町組をつくる。明治維新後、京都では町組が京都府によって組かえられ、例えば上京5番組みというふうに番号が付された。明治元年から2年にかけて各番組ごとに開校された小学校が「番組小学校」で、上大組1番組小学校や、下大組33番組小学校と名付けられる。明治5年に政府指示で「区」に改められ、上京1区小学校や下京32区小学校となる。明治12年「組」へ改められ、上京1組小学校や下京32組小学校となる。明治25年「学区」制に再編成され、この折に「漢字名」も付けられた。これが現在の「元学区」の初めとなる。上京第1学区小学校(成逸校)や下京第32学区小学校(梅逕校)となる。

