rrbのブログ - 2009/03/19のエントリ
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太平楽2009/03/19 12:00 am
たいへいらく…好き放題に言うこと。のんきに構えていること。
◇ちょっと予備知識 → もとは雅楽の曲名からきたとされる。略して「太平」ともいう。
類義語に後生楽(ごしょうらく)・安閑(あんかん)・安逸(あんいつ)・気儘(きまま)がある。
京都・東山花灯路2009に駆け足で行った。「花灯路(はなとうろ)」という響きがとてもいい。18時〜21時30分までと短い時間だから、一回の訪問で全てを回るのは駆け足となる。随所で写真を撮っていると、何回も来ないと撮りきれない。期間は3月13日(金)〜3月22日(日)までの10日間。初めての花灯路だったが、なかなかいい。昨年末に開催された嵐山・花灯路には残念ながら行けなかった。その分も合わせて短い時間だったけれど楽しんだ。
寺社仏閣・石畳の道や石塀の路地などの約4.6kmの散策路にはイルミネーションよりも電球色の灯りが似合う。足元をほんのり照らしてくれるのは、京焼・清水焼、北山杉、京銘竹、漆塗りなど伝統工芸による6種類約2,400基の露地行灯。春まだ浅い東山一帯が、温かな灯りに包まれる催し物だと思う。やがて、「今京都」で写真を掲載するけれど、少しだけ掲載しておこう。

しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
ソーダ村…の情報を募集しています。詳細はここ(←クリック) よろしくお願いします。
しゃぼん玉(童謡物語第7弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年11月10日掲載)
「しゃぼん玉」
作詞:野口雨情 作曲:中山晋平
しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで こわれてきえた
しゃぼん玉きえた とばずにきえた うまれてすぐに こわれてきえた
かぜ かぜ ふくな しゃぼん玉とばそ かぜ かぜ ふくな しゃぼん玉とばそ
お子はしゃぼん玉が好き。フワーっと大きくなって、風にのって飛んでゆくしゃぼん玉には、夢と希望がつまっているように見える。薄い石鹸水でできたしゃぼん玉…こわれずにとんで…という願いか。しかし、この歌はそんな夢と希望がつまっている歌ではなかった。

「しゃぼん玉」が野口雨情の手によって作られ最初に雑誌に載った年は資料によってまちまちである。
1920(大正9)年、1922(大正11)年、1923(大正12)年、1924(大正13)年という説がある。
♪ うまれてすぐに こわれてきえた
のが、その頃に亡くなった雨情の娘「恒子」のことを歌っているといわれている。しかし、その後の調査では、詩をしたためたのが娘「恒子」の亡くなる前だということが明らかにされている。では、雨情はこの詩に何を込めたのだろうか…。実は、雨情は「恒子」の前にも子供を失っている。初めての子の死。それも生まれてわずか一週間後の死。まさに
♪ うまれてすぐに こわれてきえた
なのである。1908(明治41)年3月23日、長女「みどり」は北海道小樽で生まれて、わずか八日目に亡くなった。現代とは違い、その当時は、まだまだ医学の発達が遅れており、抵抗力のない子供がすぐに亡くなることは、あまり珍しいことではなかった。しかし、初めて授かった子供の成長を見守ることなく突然失うのは、この上なく辛いことであったに違いない。

「みどり」の死後、次女、三女と次々と生まれているが、頭から長女の死が離れなかった。次女も三女もまだ幼い。
♪ うまれてすぐに
こわれないまでも、
♪ 屋根までとんで こわれて
消えることもありうるから、雨情は恐れていた。雨情には、どこかにいつも、生まれたばかりの子供を成長させてあげれなかったことへの負い目があったに違いない。まして、この歌を作った頃に、後に亡くなる「恒子」が生まれている。
♪ うまれてすぐに こわれて
消えないで欲しいという内面から湧き出る願いこそがこの詩を作らせたのではないかといわれている。しかし、雨情は彼の性格上そんな身内の不幸からだけでこの詩をつくったのではなかった。雨情がいつもかわいがっていた親戚の子供が死んだからとか、雨情が住んでいた東京の近所の子供の死を悼んでとか、色々な説があるのだが、純粋に雨情は不平等に人生を謳歌できぬまま死んでいく子供たちの運命を悲しんでいた。「どうして人生は平等ではないのか」と嘆き悲しみ、「平等であって欲しい」と願っていたという。

大正デモクラシーが叫ばれ、第一次世界大戦勃発の中、その頃の世情はまさに混沌としていた。1918(大正7)年から翌年にかけてはスペインで猛威を振るった流行性感冒「スペイン風邪」が世界的に大流行し、その波は日本にも押し寄せた。その影響でなんと15万人もの人々が死亡する。さらに戦争の影響で各地で起こる米騒動。戦争と貧困の中の犠牲者は、いつも弱い立場の子供だった。病で死ぬ子だけでなく、子供の数の多さに養いきれず涙をのんで親が自ら生児に手をかける、いわゆる間引きで死んでいった子供の数も少なくない。子供も哀れだが、親だって決して好き好んで人の道を踏み外した行為を選んでるのではない。しかし、そうでもしないと生きていけないのである。そんな世の中への反感と嘆き、そして安穏な暮らしを破壊するものへの抵抗こそが、雨情に「しゃぼん玉」を書かせたのではないか。
♪ かぜ かぜ ふくな
「あぁ、世間の冷たい風よ、どうぞ吹かないでおくれ。そうしてくれなければ、屋根まで飛ぶ前に命がまたひとつ消えてしまう。神よ仏よ、こんな冷たく恐ろしい風を止めてくれ…お願いだ…」そんな悲痛な思いが込められていたに違いない。しかし、無情にも風は吹くのをやめなかった…1923(大正12)年9月1日、関東大震災が起こる。

♪ しゃぼん玉きえた とばずにきえた
雨情の願いは、今度もまた届かなかった。この詩は、不特定多数の子供たちへの鎮魂歌なんだろう。だったら、この歌はスローテンポで語りかけるように歌ったほうがいいかもしれない。
♪ しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ
そう、スローテンポで、語りかけるように…今京都。 ※写真はしゃぼん玉遊びの光景。
★前回の童謡物語第6弾「ちいさい秋みつけた」はここ(←クリック)

◇ちょっと予備知識 → もとは雅楽の曲名からきたとされる。略して「太平」ともいう。
類義語に後生楽(ごしょうらく)・安閑(あんかん)・安逸(あんいつ)・気儘(きまま)がある。
京都・東山花灯路2009に駆け足で行った。「花灯路(はなとうろ)」という響きがとてもいい。18時〜21時30分までと短い時間だから、一回の訪問で全てを回るのは駆け足となる。随所で写真を撮っていると、何回も来ないと撮りきれない。期間は3月13日(金)〜3月22日(日)までの10日間。初めての花灯路だったが、なかなかいい。昨年末に開催された嵐山・花灯路には残念ながら行けなかった。その分も合わせて短い時間だったけれど楽しんだ。
寺社仏閣・石畳の道や石塀の路地などの約4.6kmの散策路にはイルミネーションよりも電球色の灯りが似合う。足元をほんのり照らしてくれるのは、京焼・清水焼、北山杉、京銘竹、漆塗りなど伝統工芸による6種類約2,400基の露地行灯。春まだ浅い東山一帯が、温かな灯りに包まれる催し物だと思う。やがて、「今京都」で写真を掲載するけれど、少しだけ掲載しておこう。



しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
ソーダ村…の情報を募集しています。詳細はここ(←クリック) よろしくお願いします。
しゃぼん玉(童謡物語第7弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年11月10日掲載)
「しゃぼん玉」
作詞:野口雨情 作曲:中山晋平
しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで こわれてきえた
しゃぼん玉きえた とばずにきえた うまれてすぐに こわれてきえた
かぜ かぜ ふくな しゃぼん玉とばそ かぜ かぜ ふくな しゃぼん玉とばそ
お子はしゃぼん玉が好き。フワーっと大きくなって、風にのって飛んでゆくしゃぼん玉には、夢と希望がつまっているように見える。薄い石鹸水でできたしゃぼん玉…こわれずにとんで…という願いか。しかし、この歌はそんな夢と希望がつまっている歌ではなかった。

「しゃぼん玉」が野口雨情の手によって作られ最初に雑誌に載った年は資料によってまちまちである。
1920(大正9)年、1922(大正11)年、1923(大正12)年、1924(大正13)年という説がある。
♪ うまれてすぐに こわれてきえた
のが、その頃に亡くなった雨情の娘「恒子」のことを歌っているといわれている。しかし、その後の調査では、詩をしたためたのが娘「恒子」の亡くなる前だということが明らかにされている。では、雨情はこの詩に何を込めたのだろうか…。実は、雨情は「恒子」の前にも子供を失っている。初めての子の死。それも生まれてわずか一週間後の死。まさに
♪ うまれてすぐに こわれてきえた
なのである。1908(明治41)年3月23日、長女「みどり」は北海道小樽で生まれて、わずか八日目に亡くなった。現代とは違い、その当時は、まだまだ医学の発達が遅れており、抵抗力のない子供がすぐに亡くなることは、あまり珍しいことではなかった。しかし、初めて授かった子供の成長を見守ることなく突然失うのは、この上なく辛いことであったに違いない。

「みどり」の死後、次女、三女と次々と生まれているが、頭から長女の死が離れなかった。次女も三女もまだ幼い。
♪ うまれてすぐに
こわれないまでも、
♪ 屋根までとんで こわれて
消えることもありうるから、雨情は恐れていた。雨情には、どこかにいつも、生まれたばかりの子供を成長させてあげれなかったことへの負い目があったに違いない。まして、この歌を作った頃に、後に亡くなる「恒子」が生まれている。
♪ うまれてすぐに こわれて
消えないで欲しいという内面から湧き出る願いこそがこの詩を作らせたのではないかといわれている。しかし、雨情は彼の性格上そんな身内の不幸からだけでこの詩をつくったのではなかった。雨情がいつもかわいがっていた親戚の子供が死んだからとか、雨情が住んでいた東京の近所の子供の死を悼んでとか、色々な説があるのだが、純粋に雨情は不平等に人生を謳歌できぬまま死んでいく子供たちの運命を悲しんでいた。「どうして人生は平等ではないのか」と嘆き悲しみ、「平等であって欲しい」と願っていたという。

大正デモクラシーが叫ばれ、第一次世界大戦勃発の中、その頃の世情はまさに混沌としていた。1918(大正7)年から翌年にかけてはスペインで猛威を振るった流行性感冒「スペイン風邪」が世界的に大流行し、その波は日本にも押し寄せた。その影響でなんと15万人もの人々が死亡する。さらに戦争の影響で各地で起こる米騒動。戦争と貧困の中の犠牲者は、いつも弱い立場の子供だった。病で死ぬ子だけでなく、子供の数の多さに養いきれず涙をのんで親が自ら生児に手をかける、いわゆる間引きで死んでいった子供の数も少なくない。子供も哀れだが、親だって決して好き好んで人の道を踏み外した行為を選んでるのではない。しかし、そうでもしないと生きていけないのである。そんな世の中への反感と嘆き、そして安穏な暮らしを破壊するものへの抵抗こそが、雨情に「しゃぼん玉」を書かせたのではないか。
♪ かぜ かぜ ふくな
「あぁ、世間の冷たい風よ、どうぞ吹かないでおくれ。そうしてくれなければ、屋根まで飛ぶ前に命がまたひとつ消えてしまう。神よ仏よ、こんな冷たく恐ろしい風を止めてくれ…お願いだ…」そんな悲痛な思いが込められていたに違いない。しかし、無情にも風は吹くのをやめなかった…1923(大正12)年9月1日、関東大震災が起こる。

♪ しゃぼん玉きえた とばずにきえた
雨情の願いは、今度もまた届かなかった。この詩は、不特定多数の子供たちへの鎮魂歌なんだろう。だったら、この歌はスローテンポで語りかけるように歌ったほうがいいかもしれない。
♪ しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ
そう、スローテンポで、語りかけるように…今京都。 ※写真はしゃぼん玉遊びの光景。
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