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rrbのブログ - 2009/10のエントリ

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今京都 べにさしゆび 2009/10/11 12:00 am

にさしゆび
薬指。婦人が紅をさすときに用いた指なのでいう。紅はもと、この指で指すべきものとの信仰があった。薬指というのも、この指で薬をつけるからである。呪力をもつ指との意識が、昔からあった。クスシユビともいった。平安時代からナナシ(名無し)ユビという語も見られた。他の指の名前として、京都では中指をタカタカユビ、小指をコヤユビ・コヤイビという。コヤユビは親指からの類推による。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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蔵物語(279)




 

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今京都 さぎしらず 2009/10/10 12:00 am

ぎしらず
鷺知らずは、ゴリなどの小魚をいう。ゴリのつくだ煮やイサザのあめ煮も呼ぶ。鷺もみつけられないほど小さい魚ということから名づけられた。小さいことをコマコイというが、コマコイ魚である。明治時代にできた「鉄道唱歌」の歌詞には、京都の名産品をならべた個所がある。「扇おしろい京都紅 また加茂川の鷺知らず」と歌われた。この名産の名前を復活させてみてはどうだろうか。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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見義民/御香宮神社 (旧フォトヴィレッジ 2007年9月22日掲載)
緑に包まれた京都市伏見区にある御香宮神社の築山に高さ約4mの白い石碑が立っている。石の表面には、江戸時代に命がけで町を救った七人の伏見義民(ふしみぎみん)をたたえる文が刻まれている。



「御訴訟でございます」1785(天明5)年、秋の江戸。下城途中の寺社奉行松平伯耆守を乗せたかごに、ふたりの男が駆け寄る。伏見の鍛冶職人文珠九助と、農業を営む丸屋九兵衛が差し出した訴状には、伏見奉行小堀政方の暴政が記されていた。当時、伏見は京都と大阪を結ぶ船の港があり、参勤交代の宿場町としても栄えた。幕府は政治、経済の要所として直轄の伏見奉行所を設けていた。



御香宮神社や氏子らでつくる伏見義民顕彰会などによると、小堀は幕府で権勢をふるった老中田沼意次の推挙を受けて着任したが、間もなく愛人らと酒におぼれる。その費用は増税や家の普請時に取り立てる御用金などで賄った。大飢饉の混乱も重なり、町衆は苦しめられた。



悪政に耐えかねた文珠ら伏見の町人七人は、処罰を覚悟で幕府への直訴を計画し実行。伯耆守の温情や権力争いの影響もあり小堀は罷免。しかし、直訴直後に病死した一人をのぞく六人が捕らわれ、四人は獄死、残る二人も江戸で取り調べ中に亡くなったとされる。



「直訴の成功は封建社会において衝撃的な事件だったはず。町民の誇りを示す出来事になった」と事件を物語風に記した「雨中之鑵子(うちゅうのかんす)」などの文献や義民の宿坊などゆかりの地も今に残る。「雨中之鑵子」は昭和初期の大恐慌時の混乱で散逸した。石碑は1887(明治20)年、義民の百年祭に合わせて伏見の有志らが建立。文は勝海舟、題字は三条実美が揮毫(きごう)したという。



碑は御香宮神社境内の南西にあり、門扉で閉ざされ近寄ることができない。碑に書かれた文字も見れなかったけれど、命がけで町を救った七人の伏見義民に触れることができた。18日には、顕彰会による恒例の慰霊祭が営まれ、義民たちを偲ぶという…今京都。


 

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天を仰いで思うこと かーかーかーこーこーこー 2009/10/09 12:00 am

ーかーかーこーこーこー
烏相撲の神事が、9月9日に上賀茂神社で行われる。弓矢を手にした神官が、横飛びをしながら土俵付近の盛り砂の前に出て、カーカーカー、コーコーコーと烏の鳴き声を三度する。続いて小学生たちの相撲が始まる。重陽の節句に当たり、長寿や厄除けを願って奉納する。祭神の賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が、神武天皇の東征を先導したとき、八咫烏(やたがらす)が天皇の弓先にとまっという故事に基づく。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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方山話(77)
秋に思うこと



今の季節、部屋の中で秋らしい気分を味わうには、ススキを飾るのが手っ取り早い。原っぱから何本か、ハサミで切ってきて花瓶に投げ込むと、演出効果はてきめんだ。窓の向こうの景色さえ心なしか澄みわたる。秋の七草を、指を折り挙げてみると、萩(はぎ)、尾花、葛(くず)、撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、それに朝顔となる。朝顔はいまの桔梗(ききょう)か木槿(むくげ)だという。ススキを尾花と呼ぶのは、花穂が動物の尻尾(しっぽ)に似ているためらしい。



原っぱなどに生えているススキの群れは、風になびいて「おいで、おいで」をする。その様を、江戸時代の俳人・去来は「さよなら」に見立てた。「君が手もまじるなるべし花芒(はなすすき)」 見送ってくれる人の振る手が、銀の穂波と一緒にいつまでも揺れている。秋風の立つような余韻を残す。「夕焼、小焼、薄(すすき)のさきに火がついた」 これで全文の「薄」という童謡をつくったのは、北原白秋。秋の夕暮れは赤々と落ちていく。説明抜きの郷愁を、ススキは呼びさます。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

さて、この秋はどういう写真を撮ろう。ススキと月の写真などを撮ってみたい。秋の季語の「花野」をイメージして撮るのもよい。それだけの腕があれば…の話だが…と、天を仰いで思うこと。


 

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今京都 ほうける 2009/10/08 12:00 am

うける
ぼんやりする。ぼれる。夢中になる。「勉強せんと遊びホーケテ、どもならん(どうにもならない)」 フケルと同系の語。人がぼんやりして平常心を失うさまをフケルといった。年を取ってフケルのは、時間的に深いということだろう。愚か者をフーケ・コケという地方があるが、「ぼける」とも無縁のことばではない。室町時代には「ほれる」は、年を取ってぼける、ぼんやりするの意味でも用いていた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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風18号の影響、京都市内は大きな影響はなかったようです。皆さんのところはどうでしょうか? 無事でありますように…。

勝寺/ひょうたんに願い (旧フォトヴィレッジ 2007年9月8日掲載)
千本通から出水通を西に入ると、右手にどっしりとした福勝寺の山門が現れる。もともと九条家の屋敷の門だったといい、原則として、節分の日にしか開門されない。お寺は江戸時代、寺町通丸太町下ルにあったといわれ、宝永の大火(1708年)の後、現在の場所に移設された。当時、天皇の勅願寺として発展しており、今は「ひょうたん寺」の通称で親しまれている。



通称のいわれはお寺に伝わるひょうたんのお守り。正式な名前は「宝珠尊融通御守(ほうしゅそんゆうづうおんまもり)」。弘法大師が中国で学んだ、貧苦の衆生を救済する秘法「如意宝珠の修法」に由来する。「如意宝珠」とは何でも思い通りになるという不思議な玉。これをふたつ重ねた姿に似ているひょうたんが鎌倉時代ごろから用いられるようになったという。節分の日にしか授与されないお守りは口コミで評判になっていった。8年ほど前までは、熱心な参拝者が前日から列をなして開門を待っていたほどだという。現在では混雑を避けるため予約制をとっている。それでも節分の当日、境内は約3000人の参拝者でにぎわいをみせるというからスゴイ。



ひょうたんにまつわる別の故事もある。戦国時代に豊臣秀吉がお寺に信仰を寄せていた。秀吉は出陣のたびに武運長久を願って奉納したひょうたんで「千成ひょうたん」の旗印を作ったという。ひょうたんのお守りは壊れやすく、気軽に持ち歩くわけにいかない。そこで携帯用として扇子のお守りも授与している。「開いてしまうと御利益はない」という注意書きが添えられている。



すでに来年分の予約の手紙が京都だけでなく北海道や九州からも続々とお寺に届いているという。「来年のことをいえば鬼が笑う」というけれど、節分の日のことだけに笑えないかも知れない…今京都。


 

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天を仰いで思うこと いきどしい 2009/10/07 12:00 am

きどしい
「急いで走ってきたさかい、イキドシイのや」息苦しい。呼吸が早くて切ない。「息労し(いきいたはし)」から。平安時代は「いきだはし」で、それが「いきどほし」となった。平安時代の辞書『色葉字類抄(いろはるいしょう)』に「イキダハシ」とある。「息」を活用させイキルという動詞を作った。意気込む、気張る、調子に乗るなどの意で、「あんまりイキルと長続きせんで」という。息遣いを荒くすることから、調子に乗り騒ぐことをいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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方山話(76)
台風に思うこと



1957(昭和32)年に5000円札が、翌年には10000円札が続いて出た。これにより、聖徳太子は高度成長の顔となったといえる。都市には労働者が密集し、家電が普及し始めたのもこの頃だろう。そんな時代を未曽有の災害が襲う。1959年(昭和34)年9月26日、この日は今年と同じ土曜日。名古屋の地方気象台は、怪物のような台風15号に忙殺されていた。接近時の中心気圧は900ヘクトパスカルを下回り、夕刻、ほとんど衰えないまま紀伊半島に上陸。停電で情報が途絶える中、南からの暴風に乗って5mもの高潮が襲う。港の貯木場から流れ出た巨木が家々をつぶし、死者・不明者は名古屋市の低地を中心に5098人となった。この台風は4日後に伊勢湾台風と名づけられる。



調べてみると、阪神大震災まで、これが戦後最悪の天変地異だという。濁流にのまれ、闇に引き裂かれた家族は数知れず、多くの悲話が残る。翌年に出た『伊勢湾台風物語』(寺沢鎮著)には、ある家で5歳ほどの男の子の亡きがらが見つかった。傍らに水筒とリュック、財布には1枚の5000札が入っていた。親は「この子だけは」と手を尽くし、水にさらわれたらしい。初任給が10000円前後の頃である。こうして、中京地区の物づくりを支えるはずだった幾多の命が失われた、という話などが綴られている。一説によると、気象台は台風の進路を読み切り、早めに警報を出しており、行政が避難を徹底させれば死者は250人に抑えられた、との分析もあるらしい。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

「わが身は己で守るだけ」と、以後、電池式の携帯ラジオが普及したという。この「自助」が命を救うという防災の教訓は、半世紀を経ても色あせていない。
最近、専門家たちの間で危惧されているのが、伊勢湾台風なみの、いやそれ以上の台風の発生である。地球温暖化の影響で、伊勢湾台風以上の勢力をもつ台風を産み出すという。「超伊勢湾台風」と名づけ警戒している。
今、台風18号が日本に接近している。大きな影響が出なければいいが…と、天を仰いで思うこと。


 

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