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rrbのブログ - 2009/07のエントリ

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今京都 ねき 2009/07/12 12:00 am


そば、近くのことをいう。「もうちょっとネキに寄ってんか」「車のネキで、うろちょろすんな」「根際(ねぎわ)」という語から、ネキとなった。根際は「草木の根の近辺」ということで、室町時代のことばを集めた日本語・ポルトガル語の『日葡辞書』に記載されている。ネキとよく似たハタも、そば・端の意味で用いるが、「ハタから口を出す」とはいうが、「ネキから」とはいわない。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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蔵物語(268)




 

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今京都 よろしおあがりやす 2009/07/11 12:00 am

ろしおあがりやす
ヨロシオアガリとも。どうぞ召し上がってください。食事をいただく人に向かっていう。「ごっつぉよばれますわ」「ヨロシオアガリヤス」 食後にもいう。「おーきに、ごっつぉはんどした」「ヨロシオアガリヤス」 この場合、「お粗末でした」の意味を含む。ヨロシをヨロシューとも。「よろしい」のもとは「寄らし」からで「寄る」の意味があった。室町時代にアガルは高位の人の食事が終わることにいった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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水(そすい) (旧フォトヴィレッジ 2007年9月6、7日掲載)
水路閣で触れた疎水について少し掲載してみよう。琵琶湖疎水は都が東京へと移り、人口も35万の都市から25万人へと激減し産業も衰退していく中で、京都復興の大事業として計画されたものだった。その初めての測量は1881(明治14)年4月に、起工式は4年後の1885(明治18)年6月に、竣工式は1890(明治23)年4月にと実に9年間にも及ぶ大工事だった。1872(明治5)年、旧暦の9月12日、新橋−横浜間に日本最初の鉄道が開業。この鉄道工事を含め当時の大工事の殆どが外国人技術者の設計や監督に頼っていた中にあって、この琵琶湖疎水工事は設計も工事も全て日本人の手による初の事業。滋賀県の大津市、三井寺近くから長等山をトンネルで抜け、山科盆地の山麓、幾つかのトンネルを流れ、日ノ岡山のトンネルを抜ける経路、中でも長等山の第一トンネル(2,436m)は当時、類をみない長大トンネルだった。





この大事業に際して当時の北垣国道知事は工部大学、今の東京大学を卒業したばかりの21才の青年技師を抜擢する。この琵琶湖疎水計画の元々の発案者は下京区の吉本源之助なる人物と云われている。この源之助が京都府に宛てた「新川通船之儀ニ付願」がその物語の始まり。源之助は友人の菊井重左衛門の東京から京へ来る度に悩まされる日ノ岡峠越えの難渋、それによる荷役運賃割の割り増しによる物価の高騰は、新川を開いて水運を充実させれば解決すると云う助言の元に先の願いを提出する。それまでにも高瀬川を開いた角倉了以が琵琶湖から高瀬川に新川を開く構想など、幾つかあったが、実現の可能性のある具体的な計画は、この願いによるものが初めてだったとのこと。





1881(明治14)年2月、北垣国道が京都府知事に就任。北垣知事は就任すると同じくして官営事業を全て廃止し、民間に払い下げるなど数々の改革を行った。京都府知事に就任した北垣は、琵琶湖疎水計画の実現を決断する。その時、北垣は琵琶湖疎水工事計画を題材とした卒業論文を仕上げている田邊(たなべ)朔朗の存在を知り、朔朗の情熱に満ちた話しぶりに北垣知事は21歳の青年技師に事業を任せることを即座に決断したといわれている。





こうして田邊朔朗を中心として疎水工事は始まる。未熟な土木技術、余り役に立たない機械類では、まだまだ人海戦術が主たる工法で、当然成功を危ぶむ声もあり、大金を投じての大事業に反対の声も大きかった。工事は難儀を極め、作業は重労働、一時は刑務所の囚人までも動員したといわれている。その囚人達の再犯率は非常に低かったということが、いかに過酷な重労働があったのかを示す一例だといわれている。計画途中で水力発電事業が計画に組み込まれるなどの変遷を経て、ダイナマイトとセメント以外の資財は外国製に頼らず、自前で調達しながらの難工事も1890(明治23)年9月、竣工式を迎える。当時の新聞は、「大文字の送り火が灯され、祇園祭の月鉾、鶏鉾、天神山、郭巨山が立ち並び、日の丸提灯行列が行われた」と伝えたという。





これにより琵琶湖より京都への水運が可能になり、九条山より蹴上にかけては、582mに36mの標高差があり勾配が15分の1の急であるためインクライン(傾斜鉄道)により三十石船をそのまま台車に載せて上下させた。また蹴上発電所で発電された電力は日本最初の路面電車開業へとつながり、各家に電灯が灯ることになる。今ではインクラインは廃止されているが、琵琶湖から山科を経て、南禅寺から鴨川への本流、そして南禅寺から哲学の道、北白川に至る分線は上水道、防火用水として、あるいはインクラインの桜並木、哲学の道を始めとする水辺に親しめる憩いの場、南禅寺水路閣は文化財として、竣工110年を迎える現在も機能している。京都の命の水ともなっている琵琶湖疎水のお話…今京都。


 

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今京都 はったいのこ 2009/07/09 12:00 am

ったいのこ
麦こがし。大麦を炒って粉にしたもの。「ハッタイノコ、要りまへんか」と売りにきた。昭和初期の子どものおやつで、砂糖を加えて食べる。江戸時代の辞書『物類称呼(ぶつるいしょうこ)』には「東国にて、こがし、又みづのこといふ。畿内及西国にて、はったいと云ふ」とある。ハッタイコ・ハッタイともいう。菱の実も戦前はおやつになった。鋭い角形の突起をもつ菱を蒸し、割って種子を食べた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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路閣 (旧フォトヴィレッジ 2007年3月7〜9日掲載)
憧れの水路閣。掲示板には、
史跡琵琶湖疎水のうち「水路閣」
疎水事業は、京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者として、明治18年起工され、同23年に竣工した。
水路閣は、この疎水事業の一環として、施工された水路橋で、延長93.17メートル、幅4.06メートル、水路幅2.42メートル、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つとなっている。
また、ここから西500メートルにあるインクラインは、高低差のある蹴上げの舟だまりと南禅寺の舟だまりを結ぶ傾斜地に上下2本のレールを敷き、艇架台により舟を運ぶ施設で、冬至の舟運による交通事情がよくうかがえる。
いずれも、西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計、施工されたもので、土木技術史上、極めて貴重なものであり、昭和58年7月1日に「疎水運河のうち水路閣及びインクライン」として京都市指定史跡に指定された。
また、平成8年6月には、この水路閣、インクラインに加え、第1疎水の第1・第2・第3隧道の各出入り口、第1竪坑、第2竪坑、明治36年に架設された日本初の鉄筋コンクリート橋(日ノ岡第11号橋)、同37年架設の山ノ谷橋などが日本を代表する近代化遺跡として国の史跡に指定された。

と記載されている。





疏水は、琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路。疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業、潅漑用水、防火用水などである。水路閣は琵琶湖疎水という、琵琶湖と京都の間に立ちはだかる山々をぶちぬいて流れる長大な運河にしつらえられた水道橋である。



物語は明治14年にさかのぼる。その当時、京都の水脈はもっぱら地下水か、北方の山々に流れを発する川しかなかった。しかし、いずれも急流でもなければ豊富な水量でもなかった。山をいくつか越えれば、日本最大の湖・琵琶湖がそににある。そこで考えられたのは、琵琶湖の水を京都へ引こうというもの。いくつもの山をぶち抜いて長大な水路を造ろうというものだった。それは滋賀県大津市三井寺の近くから長等山にトンネルをぶち抜いて水路を確保し、山科盆地の山々を同じように幾つものトンネルをうがち、さらに日ノ岡山のトンネル…とまるで現在の新幹線の開通工事のように、いやそれ以上に掘って掘って掘りまくるものだった。その中でも長等山の第一トンネルは2,436mと当時類をみない長大トンネルである。この琵琶湖疎水工事は設計も工事も全て日本人の手による初の大事業でもあった。琵琶湖の水を京都へ! 考えを実現させた技術と根性には驚くばかりである。さて、肝心の水路はどこに!?





水路閣の上に登ってみた。あった、あった、水路があった。水路橋の上には入れないが、疎水に沿って歩くことができる。ここは山腹に造られている。水が勢いよく流れている。ここが水路閣への水導入の水門。水の勢いと音が結構スゴイ。その水量は毎秒2トンということだからたまげる。



あいにく水路閣以外の疎水を追っかけて観ることはなかなか難しい。ほとんどは険しい山の中を貫いているし、一般人が見物できる場所も限られた区域だけ。しかし、その水門やトンネルの出入り口は水路閣同様に凝りに凝った様式デザインのもので、あっさりしているが力強い中に美しさを秘めたものと様々で、いずれもひとつとして手抜きのないものばかりだと伝え聞く。水路閣という名前にも「浪漫」というか、熱い情熱で眼をキラキラさせながら世紀の大土木事業を成し遂げた青年の誇らしげな笑顔が浮かぶような気がする。



琵琶湖疎水は、はじめに掘られた大津市三保ヶ崎から京都市東山区蹴上までの水路を「第一疏水」、次いで掘られた先の水路にほぼ沿う全線暗渠のものを「第二疏水」、南禅寺境内を横切り哲学の道に沿って流れ高野川・賀茂川を横切って堀川に至るものを「疏水分線」、蹴上から出たあと南禅寺船溜を経て平安神宮の前を流れるものを「鴨東運河」、その水路が夷川ダムを過ぎて一部鴨川に流出しその後鴨川左岸沿いに一部は暗渠となって南下し伏見に至るものを「鴨川運河」と称している。これら全てが琵琶湖疎水。この水路閣は疎水分線の一角。



疎水の殆どが自然放流(水は高いところから低いところへ流れる)の原理を利用して導かれている。簡単に言えば琵琶湖から高低さを利用して水を京都に流しているということ。もっと簡単に言えば、緩やかな勾配をとりつつ目標地点まで自然と流れる川を造ったということ。この南禅寺の水路閣はこの地点までの山腹と次の山腹への谷間を渡す橋、つまり勾配を守り谷間を渡るための橋と考えれば高架となっているのも理解できる。1890(明治23)年にこの琵琶湖疎水が完成した結果、日本初の水力発電所ができ、東京よりも先に街灯にアーク灯が点り、さらに1895(明治28)年には日本初の電車である京都市電が開通することとなる。そのとき京都は1100年の古都であると同時に最先端のハイテク都市でもあったというわけだ。とはいうものの建設当時、純和風で古式ゆかしい南禅寺の境内にいきなりハイテクで外国的な建造物が現れたのだから、保守的な人はもとよりそうでない人もさぞやぶったまげたことだろう。



調べによると反対運動らしきものもあったとかというけれど、今と違って政府の力が絶対的な明治の世の中。ある程度は有無を言わせず断行したのかも知れない、「おかみの命であるぞ!」と取り締まっているお髭姿が目に浮かぶ。それにしても驚く。「何が!?」って? 写真からも感じとれるように、すっかりと風景に溶け込んでいること。まるで「100年後のレンガの醸し出す雰囲気まで計算していたのではないか」と思えるということ。つまり、今の時代ですっかりとモダン建築として馴染んでいるということに。



さらに、ここを訪れる人やここで生活している人など誰に尋ねても南禅寺の境内でなくてはならない存在となっているのは間違いない。もしかしたら田辺朔郎はそんなところまで計算していたのではないか!? と考えてしまった。もしそうならば、まさに天才だ。そんな勝手な想像はともかく、緑に包まれた水路閣の水路は毎秒2トンの水がいまだに絶えることなく流れ、京都市民の生活を支えていることは紛れもない事実。水に困らない生活ができているのもこの疎水のおかげ。100年以上も前に生活のことを考え5年の歳月をかけて成し遂げた一大事業が、現在でも生き続け、京都市民の生活を支えている。この恩恵に感謝して、一滴たりの水も粗末にしない意識をもって生活したい。憧れの水路閣、満足いくまで掲載できた…今京都。


 

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今京都 みとーみ 2009/07/07 12:00 am

とーみ
見なさい。「あんたこれミトーミ」「それミテミー」は、それ見たことかの気持ちでいう。ミトミとも。丁寧に「ミトーミやす」「見てオミ」の変化したもの。オミは「見よ」に「お」を付けた敬称。シトーミ(してみなさい)、ユートーミ(言ってみなさい)は、「してオミ」「言うてオミ」から。読んドーミ、かぞえトーミのような構成もある。「言うてミテミ」「聞いてミテミ」などはミテミが加わる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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町柳(でまちやなぎ) (旧フォトヴィレッジ 2007年7月3・4日掲載)
「出町柳」とはなんとも郷愁を誘う響き。高野川と賀茂川が合流するすぐそばに叡山電車(略して叡電)「出町柳」駅がある。京都人にとって「出町」の名前は出町商店街とかでも馴染みがある。しかし「出町」という呼び名は随分と広範囲で使用されている。叡電の「出町柳」駅周辺も「出町」なら、寺町今出川も「出町」。この間、歩けば5分はかかる距離。京都人は間違っても「出町で待ち合わせ」などとはいわない。今回はこの「出町柳」のお話。



そもそも「出町」とは、頭に、いぶした薪の黒木(くろき)や芝を載せて都で売り歩く大原女(おはらめ)が、大原の里から若狭街道を下ってきて、初めて出くわした町というのが由来だそうだ。豊臣秀吉が御土居(おどい)を築いたその出入り口である七口の大原口、今出川口と呼ばれた地点に新しく形成された新地ゾーンが「出町」と呼ばれるようになったらしい。寺町今出川の東北角に、いまでも大きな石の道標が立っている。





ここが大原口の四つの角にあたり、昔から「大原の辻」と呼ばれてきた。だから「出町」とは、このあたりから賀茂川・高野川を渡る橋の一帯をこう呼んでいたと考えられる。ちなみに若狭街道や白川街道へ出て行くこの橋は、今は賀茂川にかかる出町橋、高野川にかかる河合橋と二本に別れているが、古くは長い一本の「出町橋」だった。



「出町橋」のそばには「鯖街道口」の石碑も立てられている。現在、南側にある賀茂大橋は、市電開通にともない、のちに架けられた橋。したがって、この「出町橋」こそが都と郊外の架け橋であったといえる。しかし「出町」の呼称がこれだけ馴染み深く、広範囲に使われているにもかかわらず「出町柳」と呼ぶのは駅だけなのである。柳は確かに植えられているのであるが…。大正末期まで、いまの出町柳駅前に大きな柳の木が立っており、寺町今出川の「大原の辻」に対して、出町橋東詰の街道分岐点は「柳の辻」と呼ばれていた。そして駅前のお寺、長徳寺は「柳の寺」とも呼ばれている。その昔、現在の駅の場所には「柳茶屋」という茶店もあったらしい。



「出町柳」駅の誕生は1925(大正14)年。京都電灯(現・関西電力)鉄道部が八瀬まで初めて電車を走らせ、叡山にケーブルカー、ロープウェイをつけた。待望の発着駅の誕生に際して、賀茂川・高野川をはさんだ川向こうの「出町」と、こちらがわの「柳の辻」の地名を合体させて「出町柳」駅と名づけたということだ。その後、「柳の辻」という呼び名は聞かれず、そのために駅名の由来を知る人はほとんどいなくなったとのこと。



「出町柳」駅。比叡山参拝はそれまで健脚でも1日がかりだったのが、市内から頂上までわずか40分で結ばれるようになった。そして、今では京阪電車が乗り入れして京阪グループとなり、にぎやかなイラスト入りの車体の電車が走ったりしている…今京都。


 

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今京都 なんぎやなあ 2009/07/05 12:00 am

んぎやなあ
困ったね。「ナンギヤナアまだこの仕事やってくれてへんのか」ナンギは難儀。幕末ごろから多用し始めた。よわったなあという気持ちを表し、「仕方がない」というあきらめの表現でもある。「ナンギなこっちゃなあ」とも言う。「もう銀行しまってしもたんか、お金おろせへんわ。ナンギなこっちゃなあ」 難儀はもと、難しいこと、苦しみ悩むこと、面倒で困難なことのような意味で用いた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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