rrbのブログ - 2008/11のエントリ
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今京都 衆人環視 2008/11/05 12:00 am
しゅうじんかんし…大勢の人々が周囲を取り巻いて見ていること。公衆の面前。
◇ちょっと予備知識 → 「衆人」は多くの人。「環視」は、ぐるりと取り囲んで見ること。
「監視」とするのは誤り。
類義語に衆目環視(しゅうもくかんし)がある。
四条大橋
以前に牛若丸と弁慶を追いかけて五条大橋のことを調べていると、興味深いお話に出会った。

五条大橋といえば、昔ながらの擬宝珠(ぎぼし)がシンボルであるが、このデザインは江戸初期の洛中洛外図屏風にも描かれている。以来、地震、洪水、大火に見舞われながらも幕府の管理する橋として改築が繰り返されてきた。そして幕府から京都府の管轄に移った1878(明治11)年、木造の洋風白塗り橋に大変身を遂げるのだが、「市民の非難により、再び戻された」と記録にあるという。

この話、どこかで聞いたような…平安の京都では鴨川にフランス風の橋をかけるかどうかで一時、大論争を巻き起こしたが、なんのことはない。鴨川にかかる橋のデザインは洋風がいいか、和風がいいか、明治初期よりカンカンガクガクやられてきたというわけである。

この五条大橋の一件には、実は前段として1874(明治7)年の四条大橋架け替えがある。

四条大橋はそれまで祗園八坂神社の氏子たちによってつくられた板橋であったが、明治の文明開化とともに周囲もあっと驚く鴨川最初のくろがね(鉄)の橋に大変身した。
この橋材には、おりからの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で府内寺院が京都府に寄付した銅製仏具類があてられたという。さらに工費の半額を負担したのは、明治の民権機運にいちはやく染まる地元祗園の芸舞妓たちである。

「かよわい芸舞妓が鴨川最初のくろがねの橋をつくった」「近来新造鉄橋中のもっとも上等なものなり」と、渡り初め式には祗園の芸舞妓約400人が総出のあでやかさ。橋の欄干には、祗園のシンボルであるつなぎ団子と桜花散らしの模様が刻まれてなかなかの評判であったという。

ところが橋のたもとに番所を設け、大人一銭、車馬二銭の通行料を取ったために、一転して「ゼニ取り橋」と不評を買うことになった。やむなく3年で通行料を撤廃し、橋の管理ほ府に移管してしまった。それが1877(明治10)年のできごと。

その翌年に、五条大橋の洋風化となれば、四条大橋の二番煎じのようで、なるほど非難の声にも納得だ。
それにしても、いったん完成した洋風橋を、擬宝珠(ぎぼし)のある和風デザインに造り替えさせた明治パワーもスゴイが、市民の声を受け止めてやり替えを敢行した当時のお役所も柔軟ではないか。
またそれ以上に、こと鴨川にかかる橋の景観問題に関しては京都人が黙っていられなくなるDNAをもっていること、鴨川は京都人の生命線ともいえる存在なんだと気付かされる。こんな身近なところでも歴史は繰り返されていたのである。

余談だが、2年後の1880(明治13)年、今度は三条大橋の架け替え計画が持ち上がった。五条大橋は純和風、四条大橋は洋風鉄橋、さて、三条大橋は…と、耳目を集めるなか「和風のほうがまさっている」と内務省の横やりが入り、修復だけで終わったそうだ。鴨川初のくろがねの四条大橋は1911(明治44)年、市電開通を前に鉄筋コンクリート橋に架け替えられて姿を消した。四条大橋を渡るたびに、この話を思い出して、微笑んでしまいそうだ…今京都。


◇ちょっと予備知識 → 「衆人」は多くの人。「環視」は、ぐるりと取り囲んで見ること。
「監視」とするのは誤り。
類義語に衆目環視(しゅうもくかんし)がある。
四条大橋
以前に牛若丸と弁慶を追いかけて五条大橋のことを調べていると、興味深いお話に出会った。

五条大橋といえば、昔ながらの擬宝珠(ぎぼし)がシンボルであるが、このデザインは江戸初期の洛中洛外図屏風にも描かれている。以来、地震、洪水、大火に見舞われながらも幕府の管理する橋として改築が繰り返されてきた。そして幕府から京都府の管轄に移った1878(明治11)年、木造の洋風白塗り橋に大変身を遂げるのだが、「市民の非難により、再び戻された」と記録にあるという。

この話、どこかで聞いたような…平安の京都では鴨川にフランス風の橋をかけるかどうかで一時、大論争を巻き起こしたが、なんのことはない。鴨川にかかる橋のデザインは洋風がいいか、和風がいいか、明治初期よりカンカンガクガクやられてきたというわけである。

この五条大橋の一件には、実は前段として1874(明治7)年の四条大橋架け替えがある。

四条大橋はそれまで祗園八坂神社の氏子たちによってつくられた板橋であったが、明治の文明開化とともに周囲もあっと驚く鴨川最初のくろがね(鉄)の橋に大変身した。
この橋材には、おりからの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で府内寺院が京都府に寄付した銅製仏具類があてられたという。さらに工費の半額を負担したのは、明治の民権機運にいちはやく染まる地元祗園の芸舞妓たちである。

「かよわい芸舞妓が鴨川最初のくろがねの橋をつくった」「近来新造鉄橋中のもっとも上等なものなり」と、渡り初め式には祗園の芸舞妓約400人が総出のあでやかさ。橋の欄干には、祗園のシンボルであるつなぎ団子と桜花散らしの模様が刻まれてなかなかの評判であったという。

ところが橋のたもとに番所を設け、大人一銭、車馬二銭の通行料を取ったために、一転して「ゼニ取り橋」と不評を買うことになった。やむなく3年で通行料を撤廃し、橋の管理ほ府に移管してしまった。それが1877(明治10)年のできごと。

その翌年に、五条大橋の洋風化となれば、四条大橋の二番煎じのようで、なるほど非難の声にも納得だ。
それにしても、いったん完成した洋風橋を、擬宝珠(ぎぼし)のある和風デザインに造り替えさせた明治パワーもスゴイが、市民の声を受け止めてやり替えを敢行した当時のお役所も柔軟ではないか。
またそれ以上に、こと鴨川にかかる橋の景観問題に関しては京都人が黙っていられなくなるDNAをもっていること、鴨川は京都人の生命線ともいえる存在なんだと気付かされる。こんな身近なところでも歴史は繰り返されていたのである。

余談だが、2年後の1880(明治13)年、今度は三条大橋の架け替え計画が持ち上がった。五条大橋は純和風、四条大橋は洋風鉄橋、さて、三条大橋は…と、耳目を集めるなか「和風のほうがまさっている」と内務省の横やりが入り、修復だけで終わったそうだ。鴨川初のくろがねの四条大橋は1911(明治44)年、市電開通を前に鉄筋コンクリート橋に架け替えられて姿を消した。四条大橋を渡るたびに、この話を思い出して、微笑んでしまいそうだ…今京都。




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今京都 金城湯池 2008/11/04 12:10 am
きんじょうとうち…守りが非常に堅固な城、またそのような場所。堅固な備えのこと。
◇ちょっと予備知識 → 金属でつくった守りの堅い城に、熱湯をたぎらせた堀をめぐらすところから。
「池」を「地」と書くのは誤り。
類義語に金城鉄壁(きんじょうてっぺき)・湯池鉄城(とうちてつじょう)・
難攻不落(なんこうふらく)・南山不落(なんざんふらく)がある。
車石
洋の東西では、何でも逆のケースが多い。

たとえば手招きをするとき、日本人は「おいでおいで」と掌(てのひら)を下向きにするが、西洋人は掌を上向きにして「カモン」。包丁は、日本では引いてきるが、西洋では押して切る。リンゴの皮を剥くときには、日本では内向きに剥くが、西洋では外向きに剥く。履歴書だって、日本は若いときから順に今現在に至るが、欧米ではまず現在があって、だんだん過去にさかのぼって書く。などなど、見事に逆である。

日本の轍道と西洋の鉄道。音読みにすれば同じ「てつどう」であるが、日本の轍道といわれてもあまりなじみがない。それもそのはず、日本の轍道は江戸時代、京の都へ通じる主要街道にだけ、特別に設置されていた。それ以外の街道では車両の使用は禁止、主要河川はあえて橋をかけない、として江戸幕府は流通を制約していた。しかし、京へ通じる道だけは、そうもいかなかったとみえる。

この轍道には「車石(くるまいし)」という敷石が敷かれていた。三条通を蹴上げから山科へ向かう、九条山の峠越え、下りカーブの手前あたりの道路壁面には、この「車石」が現在でも保存されており、「旧鋪石・車石」の文字が読める。

それを見れば一目瞭然。通行する荷車の車輪幅に合わせて、敷石に凹面のくぼみを二本、レール状に刻み付けてある。その車石を街道に敷き詰めていた。上り坂や起伏の激しい山道でも通行のスピードが落ちないように、また荷車を引く牛の疲れを軽減できるように、とのことだったらしい。これが日本最古のレールである。

いっぽう西洋の鉄道といえば、凸型のレール。これは鉱山で鉱石を運搬するために、木製のレールを用いたのが始まりとされている。日本の凹型レールと、西洋の凸型レール。これはもう駄目押し的ともいえる逆発想ではないだろうか。同じ人間なのに洋の東西に住むというだけで、なぜこうも発想が逆転するのだろう。

(今ではレールも取り除かれ道路になっている)
江戸時代に生まれた日本の轍道こと「車石」は東海道では京都・大津間の「逢坂の関」として名高い逢坂山や日岡峠付近、そのほか伏見港から京へ入る竹田街道、交通の要地である六地蔵から近江への大津街道にも敷かれていた。

(今ではレールも取り除かれ道路になっている)
しかも、そのわだちは水でひたひたになっており、車の滑りをよくしていた。そこを牛が荷車を引いていく。昔の絵を見ると、まるで川の中を進んでいるように見える。そんな車石まお話…今京都。


◇ちょっと予備知識 → 金属でつくった守りの堅い城に、熱湯をたぎらせた堀をめぐらすところから。
「池」を「地」と書くのは誤り。
類義語に金城鉄壁(きんじょうてっぺき)・湯池鉄城(とうちてつじょう)・
難攻不落(なんこうふらく)・南山不落(なんざんふらく)がある。
車石
洋の東西では、何でも逆のケースが多い。

たとえば手招きをするとき、日本人は「おいでおいで」と掌(てのひら)を下向きにするが、西洋人は掌を上向きにして「カモン」。包丁は、日本では引いてきるが、西洋では押して切る。リンゴの皮を剥くときには、日本では内向きに剥くが、西洋では外向きに剥く。履歴書だって、日本は若いときから順に今現在に至るが、欧米ではまず現在があって、だんだん過去にさかのぼって書く。などなど、見事に逆である。

日本の轍道と西洋の鉄道。音読みにすれば同じ「てつどう」であるが、日本の轍道といわれてもあまりなじみがない。それもそのはず、日本の轍道は江戸時代、京の都へ通じる主要街道にだけ、特別に設置されていた。それ以外の街道では車両の使用は禁止、主要河川はあえて橋をかけない、として江戸幕府は流通を制約していた。しかし、京へ通じる道だけは、そうもいかなかったとみえる。

この轍道には「車石(くるまいし)」という敷石が敷かれていた。三条通を蹴上げから山科へ向かう、九条山の峠越え、下りカーブの手前あたりの道路壁面には、この「車石」が現在でも保存されており、「旧鋪石・車石」の文字が読める。

それを見れば一目瞭然。通行する荷車の車輪幅に合わせて、敷石に凹面のくぼみを二本、レール状に刻み付けてある。その車石を街道に敷き詰めていた。上り坂や起伏の激しい山道でも通行のスピードが落ちないように、また荷車を引く牛の疲れを軽減できるように、とのことだったらしい。これが日本最古のレールである。

いっぽう西洋の鉄道といえば、凸型のレール。これは鉱山で鉱石を運搬するために、木製のレールを用いたのが始まりとされている。日本の凹型レールと、西洋の凸型レール。これはもう駄目押し的ともいえる逆発想ではないだろうか。同じ人間なのに洋の東西に住むというだけで、なぜこうも発想が逆転するのだろう。

(今ではレールも取り除かれ道路になっている)
江戸時代に生まれた日本の轍道こと「車石」は東海道では京都・大津間の「逢坂の関」として名高い逢坂山や日岡峠付近、そのほか伏見港から京へ入る竹田街道、交通の要地である六地蔵から近江への大津街道にも敷かれていた。

(今ではレールも取り除かれ道路になっている)
しかも、そのわだちは水でひたひたになっており、車の滑りをよくしていた。そこを牛が荷車を引いていく。昔の絵を見ると、まるで川の中を進んでいるように見える。そんな車石まお話…今京都。




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今京都 一石二鳥 2008/11/03 12:00 am
いっせきにちょう…一度の手間で二つの利益を得ることのたとえ。
◇ちょっと予備知識 → 一つの石を投げて、二羽の鳥を同時にとらえることから、利益が多いことをかけて
「一石三鳥」などと使うこともある。幕末の漢学者が英語の諺からつくった訳語。
類義語に一挙両全(いっきょりょうぜん)・一挙両得(いっきょりょうとく)がある。
対義語は一挙両失(いっきょりょうしつ)・一挙両損(いっきょりょうそん)。
町並み



地蔵物語(216)



◇ちょっと予備知識 → 一つの石を投げて、二羽の鳥を同時にとらえることから、利益が多いことをかけて
「一石三鳥」などと使うこともある。幕末の漢学者が英語の諺からつくった訳語。
類義語に一挙両全(いっきょりょうぜん)・一挙両得(いっきょりょうとく)がある。
対義語は一挙両失(いっきょりょうしつ)・一挙両損(いっきょりょうそん)。
町並み



地蔵物語(216)





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今京都 自由自在 2008/11/02 12:00 am
じゆうじざい…何事にもとらわれず、自分の思うようにできること。思いのままであること。
◇ちょっと予備知識 → 「自在」は束縛するものや邪魔するものがなく、思いのままにできること。
類義語に縦横自在(じゅうおうじざい)・縦横無尽(じゅうおうむじん)がある。
町並み



地蔵物語(215)



◇ちょっと予備知識 → 「自在」は束縛するものや邪魔するものがなく、思いのままにできること。
類義語に縦横自在(じゅうおうじざい)・縦横無尽(じゅうおうむじん)がある。
町並み



地蔵物語(215)





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今京都 琴瑟相和 2008/11/01 12:00 am
きんしつそうわ…夫婦の仲がたいそうよいことのたとえ。また、兄弟や友人の仲がよいことにもいう。
◇ちょっと予備知識 → 「琴瑟」はふつうの琴と、糸の多い大型の琴。
琴と瑟の音がよく整い、調和しているということから。
「琴瑟調和」「琴瑟相(あい)和す」ともいう。
類義語に鴛鴦之契(えんおうのちぎり)・比翼連理(ひよくれんり)がある。
対義語は琴瑟不調(きんしつふちょう)。
霜月。今日から11月。木々は色づいてきているけれど、早くも散り始めているものもある。紅葉や黄葉を迎えず枯れ落ちる木々もある。地球温暖化の影響で春と秋が短くなり、このまま進むと春と秋がなくなるかも知れないという予想は悲しいけれど的外れな予想ではないような気がする。短い秋でもいいから楽しめる秋になって欲しいものだ。
と、昨年に綴ってもう一年になるんだなぁ。
貴船 vol.5(最終回) vol.4はここ
さて、繰り返しになるが、伝説では貴船大神が牛鬼を連れて降臨したのは「丑(うし)年の丑月の丑日の丑刻」とされる。これがある伝承を結びつき今に伝わる。

丑の刻(とき)参りである。白装束に、口紅は濃く、頭の鉄輪にろうそくをともし、わら人形に五寸くぎを打ち据える。牛鬼のごとき形相で相手を呪う法だ。

もとは恨みを抱く娘が貴船神社にこもり鬼になる「平家物語」の「宇治の橋姫」にある。これが謡曲「鉄輪」へ発展した。両説話には、くぎも人形も出てこないが、民間に伝わる中で陰陽道(おんみょうどう)の呪詛(じゅそ)法などと混ざったらしい。

神社は恋愛成就の神さまとして知られる。交通が不便で観光シーズン外、平日という条件にもかかわらず、多くの方が祈りをささげに訪れている。

しかし、夜には相手をのろうため五寸くぎをわら人形に変わるのだろうか。

いやいや、ご安心を。この呪いの話しは大きな誤解。ご降臨の伝承からも丑の刻参りとは心願成就の参拝方法なのである。しかし、時間が時間だけに「呪い」と結びついただけのようだ。

この貴船神社は、水の神様としても知られる。

また、平安時代、和泉式部が神社に参詣して恋愛成就を祈り、願いがかなえられたとの伝えから、縁結びの神としても崇敬される。

こうして、今回の貴船のお話は最終回となる。そうそう、「人を呪わば穴二つ」というから、呪いは絶対にやめようね…今京都。


◇ちょっと予備知識 → 「琴瑟」はふつうの琴と、糸の多い大型の琴。
琴と瑟の音がよく整い、調和しているということから。
「琴瑟調和」「琴瑟相(あい)和す」ともいう。
類義語に鴛鴦之契(えんおうのちぎり)・比翼連理(ひよくれんり)がある。
対義語は琴瑟不調(きんしつふちょう)。
霜月。今日から11月。木々は色づいてきているけれど、早くも散り始めているものもある。紅葉や黄葉を迎えず枯れ落ちる木々もある。地球温暖化の影響で春と秋が短くなり、このまま進むと春と秋がなくなるかも知れないという予想は悲しいけれど的外れな予想ではないような気がする。短い秋でもいいから楽しめる秋になって欲しいものだ。
と、昨年に綴ってもう一年になるんだなぁ。
貴船 vol.5(最終回) vol.4はここ
さて、繰り返しになるが、伝説では貴船大神が牛鬼を連れて降臨したのは「丑(うし)年の丑月の丑日の丑刻」とされる。これがある伝承を結びつき今に伝わる。

丑の刻(とき)参りである。白装束に、口紅は濃く、頭の鉄輪にろうそくをともし、わら人形に五寸くぎを打ち据える。牛鬼のごとき形相で相手を呪う法だ。

もとは恨みを抱く娘が貴船神社にこもり鬼になる「平家物語」の「宇治の橋姫」にある。これが謡曲「鉄輪」へ発展した。両説話には、くぎも人形も出てこないが、民間に伝わる中で陰陽道(おんみょうどう)の呪詛(じゅそ)法などと混ざったらしい。

神社は恋愛成就の神さまとして知られる。交通が不便で観光シーズン外、平日という条件にもかかわらず、多くの方が祈りをささげに訪れている。

しかし、夜には相手をのろうため五寸くぎをわら人形に変わるのだろうか。

いやいや、ご安心を。この呪いの話しは大きな誤解。ご降臨の伝承からも丑の刻参りとは心願成就の参拝方法なのである。しかし、時間が時間だけに「呪い」と結びついただけのようだ。

この貴船神社は、水の神様としても知られる。

また、平安時代、和泉式部が神社に参詣して恋愛成就を祈り、願いがかなえられたとの伝えから、縁結びの神としても崇敬される。

こうして、今回の貴船のお話は最終回となる。そうそう、「人を呪わば穴二つ」というから、呪いは絶対にやめようね…今京都。



