rrbのブログ - 2010/01/09のエントリ
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今京都 おことーさんどす 2010/01/09 12:00 am
おことーさんどす
年末になって、正月の準備に忙しいときにいう。むかし商人は、集金先でオコトーサンドスとあいさつした。「ご繁盛で何より結構です」ということ。「事多し、お事の多いことです」の意味から。大晦日にお茶屋に入る舞妓・芸妓もオコトーサンドスと言った。祇園花街では12月13日は「事始め」で、舞妓・芸妓は芸事の師匠にあいさつに行く。商家では別家から本家へ鏡餅を持参するしきたりがあった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
車折神社
京福電車嵐山線(嵐電)には、読み方が難しい駅名が多い。蚕ノ社(かいこのやしろ)、太秦(うずまさ)、帷子ノ辻(かたびらのつじ)、有栖川(ありすがわ)、車折(くるまざき)、鹿王院(ろくおういん)…。京都の人には当り前になっているが、いちど頭をまっさらにして、漢字を眺めてみると、こんなに読みづらい地名が続く観光地は他にないような気がする。

蚕ノ社、太秦の地名は、秦氏の渡来文化によることが知られている。しかし、問題は車折である。読もうとすれば「くるまおり」と読めるところを「くるまざき」と読む。それに考えてみたら、京都の古社で「車」などとつく名前は、少なくとも牛車(ぎっしゃ)の登場後ではないか。車折とは通称名なのか、それとも、もとは別の名称があったのかもしれない。それから、車折神社といえば芸能人がお詣りに行くので有名な神社。芸能の神様である「芸能神社」が境内にあって、有名人の名前も随所に読める玉垣がどんどん境内に延びている。そのことと車折は、何かつながりがあるのだろうか。こういう疑問が沸き起こる。


そもそも車折神社の名前の由来は、後嵯峨天皇(1242〜46)が大堰川(おおいがわ)へ行幸する際、神社の前にある石のそばを通りかかると、急に車の轅(ながえ・牛に引かせる二本の長柄)が折れた。天皇はここに清原頼業が祀られていることを知り、非礼をわびて「車折大明神」の神号と正一位の位を贈った。こうして「車折神社」の名がついたのだという。この神社はもともと清原頼業、すなわち経書(けいしょ)と法律の大学者であった人を子孫が祀った「宝寿院」というお寺であった。


古くは「車折神社」でなく、「車前神社」や「車裂神社」の漢字が使われていたそうだ。それが「車析神社」に統一され、さらに現在の「車折神社」と書かれるようになったのは江戸時代末期からとのことだ。後嵯峨天皇の命名からすれば「車前」や「車裂」はその意味をよく表わしている。地名に松前を「まさき」と読む例があるように、前には「先」という意味があり、古くは前と先を同意語のように使っていたことが考えられる。漢和辞典を見ると、裂は「裂(さ)く」と読み「さける、ばらばらに分かれる」。そして「析」にも同様に「さく(割く)」という意味が紹介されている。現在使われている「折」の手偏は「析」の木偏が誤り伝わった形、とも書いてある。

「車折」にいたる漢字の変遷が、おぼろげながらも見えてくる。「車前」や「車裂」は意味通りではあるが、神社名としてふさわしくなかったのかもしれない。また江戸時代には「析」の字がいまよりもっとひんぱんに使われていたのに、現在「分析」や「解析」にしか用いないように、「車析」もまた「車折」に改められたのではないか、などと勝手に想像してみたり。

このややこしい神社名を世に送り出すきっかけとなったその石。後嵯峨天皇の前で神威をあらわし車の轅を折ったとされる石が境内にあるという。拝殿に向かって右手前、石垣と木々に囲われ、注連がはられて、ひっそりと小さな石が祀られていた…今京都。

年末になって、正月の準備に忙しいときにいう。むかし商人は、集金先でオコトーサンドスとあいさつした。「ご繁盛で何より結構です」ということ。「事多し、お事の多いことです」の意味から。大晦日にお茶屋に入る舞妓・芸妓もオコトーサンドスと言った。祇園花街では12月13日は「事始め」で、舞妓・芸妓は芸事の師匠にあいさつに行く。商家では別家から本家へ鏡餅を持参するしきたりがあった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
車折神社
京福電車嵐山線(嵐電)には、読み方が難しい駅名が多い。蚕ノ社(かいこのやしろ)、太秦(うずまさ)、帷子ノ辻(かたびらのつじ)、有栖川(ありすがわ)、車折(くるまざき)、鹿王院(ろくおういん)…。京都の人には当り前になっているが、いちど頭をまっさらにして、漢字を眺めてみると、こんなに読みづらい地名が続く観光地は他にないような気がする。

蚕ノ社、太秦の地名は、秦氏の渡来文化によることが知られている。しかし、問題は車折である。読もうとすれば「くるまおり」と読めるところを「くるまざき」と読む。それに考えてみたら、京都の古社で「車」などとつく名前は、少なくとも牛車(ぎっしゃ)の登場後ではないか。車折とは通称名なのか、それとも、もとは別の名称があったのかもしれない。それから、車折神社といえば芸能人がお詣りに行くので有名な神社。芸能の神様である「芸能神社」が境内にあって、有名人の名前も随所に読める玉垣がどんどん境内に延びている。そのことと車折は、何かつながりがあるのだろうか。こういう疑問が沸き起こる。


そもそも車折神社の名前の由来は、後嵯峨天皇(1242〜46)が大堰川(おおいがわ)へ行幸する際、神社の前にある石のそばを通りかかると、急に車の轅(ながえ・牛に引かせる二本の長柄)が折れた。天皇はここに清原頼業が祀られていることを知り、非礼をわびて「車折大明神」の神号と正一位の位を贈った。こうして「車折神社」の名がついたのだという。この神社はもともと清原頼業、すなわち経書(けいしょ)と法律の大学者であった人を子孫が祀った「宝寿院」というお寺であった。


古くは「車折神社」でなく、「車前神社」や「車裂神社」の漢字が使われていたそうだ。それが「車析神社」に統一され、さらに現在の「車折神社」と書かれるようになったのは江戸時代末期からとのことだ。後嵯峨天皇の命名からすれば「車前」や「車裂」はその意味をよく表わしている。地名に松前を「まさき」と読む例があるように、前には「先」という意味があり、古くは前と先を同意語のように使っていたことが考えられる。漢和辞典を見ると、裂は「裂(さ)く」と読み「さける、ばらばらに分かれる」。そして「析」にも同様に「さく(割く)」という意味が紹介されている。現在使われている「折」の手偏は「析」の木偏が誤り伝わった形、とも書いてある。

「車折」にいたる漢字の変遷が、おぼろげながらも見えてくる。「車前」や「車裂」は意味通りではあるが、神社名としてふさわしくなかったのかもしれない。また江戸時代には「析」の字がいまよりもっとひんぱんに使われていたのに、現在「分析」や「解析」にしか用いないように、「車析」もまた「車折」に改められたのではないか、などと勝手に想像してみたり。

このややこしい神社名を世に送り出すきっかけとなったその石。後嵯峨天皇の前で神威をあらわし車の轅を折ったとされる石が境内にあるという。拝殿に向かって右手前、石垣と木々に囲われ、注連がはられて、ひっそりと小さな石が祀られていた…今京都。

