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rrbのブログ - 2009/07のエントリ

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今京都 あらける 2009/07/21 12:00 am

らける
火を掻き広げる。昔は火鉢の生活が普通であったが、「火鉢にひー(火)が、おぼんだる(埋めてある)さかい、アラケてぬくもりや」と言った。イラケルともいう。イラケルはイラウ(いじる)とアラケルが交錯した形。アラケルは、粗くし、ちりじりになる意から。開きがある、間隔をとるの意味でもいう。「あこの嫁さんは、ご主人と年がアラケタル」 アダケルは京都府北部で転げ落ちるの意味で使う。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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蔵物語 (旧フォトヴィレッジ 2007年6月17日掲載)
京都のお地蔵さんの多さは日々の「今京都」でも伝えているとおりだ。今回、さらに調べることができたのでリポートしておく。



地蔵盆の発祥の地は間違いなく京都なんだけれど、今日のように子ども行事になったのは明治以降のことみたい。江戸時代は「仏像の前に通夜して酒盛りあそべり…」と『覇旅録(きりょまんろく)』にあるように、大人が中心となって楽しむものであったことがうかがえる。他にも江戸時代の記録には醍醐(だいご)の地蔵会(じぞうえ)では市(いち)が立ち、常盤(ときわ)の里では書相撲、深泥池(みどろがいけ)では夜相撲が催されたなどがある。さらに江戸末期の京都では、町組(ちょうぐみ)の境となる木戸ごとにお地蔵さんが祀られていたそうだから、その数の多さは想像できる。しかし、そんなお地蔵さんにも受難の時代があった。



その受難とは、明治維新の神仏分離令である。1871(明治4)年から翌年にかけて、京都府から「地蔵取除(とりのぞき)令」「祭祀(さいし)禁止令」が出され、町中の地蔵やお堂が処分され、お盆の施餓鬼も送り火も、盆踊りも地蔵盆も禁止された。また石地蔵が集められ、石垣や小学校建築の柱石に転用された例は多いという。それでも人々は町のお地蔵さんをお寺に預けたり、地中に埋めたり、井戸の中に避難させたり、また町年寄りが自宅内にかくまったりして、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のほとぼりが過ぎるのを待った。この禁令は数年後にはゆるみ、徐々に復活するのだが、この約10年の空白をはさんで、江戸時代と明治時代以降の地蔵盆が性格を変えたのではないかと仮定されている。



また、ある調査によると下鴨・葵の両学区において確認できた地蔵堂や祠(ほこら)は計46箇所。そのうち平安期のものと見られる歴史的なものが2箇所。それ以外で最古の安置は明治初期と見られるものが3箇所、大正期が2箇所。時期不明のものもあるが、その他の30箇所は昭和の時代に祀られたものだという。もともとは信仰のための地蔵だったものが、昭和のころから次第に地蔵盆のために祀っておく地蔵に変遷していったともいわれている。



さらに下鴨学区でいえば1955(昭和30)年頃までは、およそ一町に1箇所のお地蔵さんがあったが、それ以降は宅地化が進んでもお地蔵さんが置かれておらず、むしろ土地の処分でお地蔵さんの行き場所がなくなったり、管理する人がいなくなって撤去されることもあるという。宅地化が進むとともに自治会の崩壊が始まり、お地蔵さんを世話する信仰心のある人々が減ってくるという社会現象だ。それにしても下鴨・葵の両学区はまだ街撮りに行っていない地区だけれど、そこでも46箇所はあるということだから、この地蔵物語はどれだけ続くのだろう? と、少し気が遠くなるが、いきつくところまでいきたいと思う…今京都。 ※写真は京都の街並みで本文とは関係ないのであしからず。
★関連記事はここ(←クリック)とここ(←クリック)


 

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今京都 いかれこれ 2009/07/19 12:00 am

かれこれ
してやられたかたち。打ち負かされた格好。参った。「ほんまにイカレコレや」 イカレルからイカレコレを作った。イカレコロともいう。イカレコレは、「コロッとイカレテしもた」の「コロッ」と「イカレ」を転置した形であろう。イカレルは、してやられる、先手を打たれるの意味。「あんなこと言われて、先生も生徒にイカレテルやないか」「あいつにうまいことイカレテしもたわ」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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蔵物語(269)




 

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今京都 おきばりやす 2009/07/18 12:00 am

きばりやす
精出してがんばってください。「よう勉強しやはりますな、オキバリヤス」 キバルは「気張る」からで、もとは息をつめて力むこと。「オ〜ヤス」の構成で敬意を示す。仕事をしている人に呼びかけるあいさつことば。祇園花街では、舞妓・芸妓をお座敷に送り出すときに、子方屋の女主人が「オキバリヤッシャ」という。「キバッタハリマスナ」と呼びかけることがある。やや皮肉を込めて受け取ることもある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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斗町(ぽんとちょう) (旧フォトヴィレッジ 2007年8月30日掲載)
知らなければ読めない「先斗町」。この町はもと鴨川の河原で、1670(寛文10)年、鴨川の護岸工事により三条通から四条通一町下ルの間に細長く伸びる新しい町ができた。新河原町と名づけられていたのだが、やがて四条以北を先斗町といい、四条以南を西石垣(さいせき)と呼ぶようになった。



初めは鴨川べりの先端だけに4・5軒ばかりの家が建ち、高瀬川のある西側には家がまったくなかったので「先斗(さきばかり)」といったそうだ。ポルトガル語でポンタは先、ポント(英語ではポイント)は点を意味し、漢字では「先斗」と書く。そういったところから「先斗町」という名になったらしいのだが…。



この「先斗町」の読み方は、1682(天和2)年に出版された井原西鶴「好色一代男」の中に、既に「・・・ぽんと町の小宿にかへりぬ」と登場している。1670(寛永10)年の鴨川護岸工事から12年後のことであるから「ぽんと町」の呼び名が定着するのにそれほど時間がかからなかったということか。



西鶴の小説では、先斗町は宿屋街として描かれている。町が開かれた当初は、水運盛んな高瀬川の旅客や船頭を相手にする宿屋が建ち並んでいたようである。先斗町が花街になったのは、ずっとのちの1813(文化10)年からである。



「ぽんと町」という変わった読み方や、外国語をいちはやく町名に取り入れるあたり、京の花街らしいと理解しがちだが、実はそうではない。新しくできた普通の町に「ぽんと町」とはなんとも大胆なネーミングをしたものであると理解したほうがすっきりする。



先斗町の15番路地には、お参りをすると「おおきに、おおきに」と応えてくれる、音声つきの大明神さんが祀られている。その名を「十五大明神」といい、千社札がびっしりと貼られている。1978(昭和53)年に先斗町で火事があったとき、この15番地路地で火が鎮まったのは、ここにいた信楽焼きのおタヌキさんのおかげというのでそのおタヌキさんを祀ったというのだが…。



夜には、ほろ酔い加減の男性が行き交う。憧れは祇園? それとも先斗町? いずれにしても祇園と並ぶ遊興地、先斗町…今京都。


 

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今京都 おため 2009/07/16 12:00 am

ため
贈り物を受けたときに出す返礼の品。贈り物を持参した人に「ちょっと待っておくれやす。オタメ入れさせてもらいますよって」といい、オタメガミを進物の盆の上に載せて渡した。オタメガミは半紙を二枚四つ折りにしたもの。かつて京都御所ではオトビ・トビと言った。宮廷の公式日記『お湯殿(ゆどの)の上(うえ)の日記』にも記される。オウツリともいう。オツリと同じく釣り合いを保つの意味からである。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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うひとつの五山 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月22日掲載)
先日に続いて、もうひとつ大文字のお話。それは「雪大文字」。五山の楽しみ方は夏の夜の炎に浮かび上がる文字だけではない。冬の朝、里に薄っすらと雪が積もった日には、「大」の字がくっきりと白く雪で浮かび上がる。それは日差しを浴びると消えてしまいそうな、朝のひとときの美しさ。人々はそれを「雪大文字」と呼んで「雪大文字を見た日はええことがおすえ」と言い合ったという。残念なことに「雪大文字」は最近撮れていない。地球温暖化による影響からか、京都は雪が減った。少し積もったと思っても、写真が撮れる光の当たり具合になるまでは溶けてしまう。



調べて見ると大文字にまつわるおまじないは「雪大文字」以外にもたくさんある。
「お盆やお椀に水を入れて、『大』の字を映して飲むと、その年は一年中風邪を引かない」
「燃え盛る大文字の火影を、盃に映して飲み干すと、中風にならない」
「茄子に穴をあけて大文字を見ると、目を患わない」
「燃焼し尽くして炭になった送り火の燃え木は、家の魔除けになる」
「松が燃えた後の消し炭は、粉にして飲むと胃の薬になる」
「大文字の消し炭や灰は、中風や痔の薬になる」
などなど。また、送り火の翌朝は、燃え木を拾って除災招福を願おうと、早朝から山に登る人が後を絶たない。大文字のおまじないは、今も信じる人が多いのか、燃え木も消し炭も一夜のうちになくなってしまうという。少し前までは、送り火の点火時間が近づくと、潮が引くように街の灯が消えて、それもまた風情だった。最近は、点火時間が迫っても、街の灯が消える気配もなく、実際に消えていない。



この風情ある夏の壮大な炎のページェントをもっと楽しむために、「外灯や家の灯を消して、大文字五山送り火を拝むと、願いがかなう」なんておまじないを加えたい気もする。また五山送り火の「大」の字が「太」や「犬」になった時がある。当然、わざと「太」「犬」としたわけでなく、風で飛ばされた炎のイタズラ。「大」以外の文字となった時は何か不吉なことがあるかも知れないと心配したけれど、結局、良いことも悪いこともなかった。「大」以外の文字に化けることは無かった今年の五山送り火。このように五山は8月16日の夜のイベントだけでなく、日々の生活に溶け込んで京都の街を優しく見守っている。京都で暮す人々の心の支え、見上げればいつもそこにある存在。どのようにして始まったのか不明ではあるが、太古の時代から人々の暮らしとともに守られてきた。そして、まるで駅伝のたすきのように時代から時代へその文化が継承されているのは確かである。これこそ歴史都市京都の真髄かも知れない…今京都。


 

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今京都 おいえ 2009/07/14 12:00 am

いえ
座敷。「オイエ上がって遊んでばっかりいんと、外(かど)で遊んどいで」 オイエは「お上(うえ)」ということからで、使用人が言い始めた。この場合のイエは家の意味ではない。町家の家庭の主婦を大阪でオイエサンというのも「お上様(うえさま)」からで、東京のオカミサンと同種の命名法。座敷は昔は板張りで、しとね・円座などを敷いて座った。座を敷くから座敷であった。畳はもと敷物の総称でたたむことができた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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山送り火 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月21日掲載)
京都の夏の風物詩といえば、今週の17日に山鉾巡行が行われる祇園祭と8月16日に行われる五山の送り火。大文字の送り火を「大文字焼き」という人がいるが、京都人は「焼き」とは決して言わない、送り火。



この五山の送り火は、京都盆地と周囲の山々をひとつの舞台に見立てた壮大な炎のページェント。東に「大文字」、北に「妙法」「船形」、西に「左大文字」「鳥居形」と五つの火文字。このとてつもない演出法を、いったい誰が思いついたのか…この歴史都市京都においても、いつから始まったのか、どのようにして始まったのかが実は不明というから面白い。



この五山送り火を調べてみると、かつては市原に「い」、鳴滝に「一」、北嵯峨に「蛇蛇」、西山に「竹の先に鈴」、観空寺(かっこうじ)村に「長刀(なぎなた)」などと、さまざまな送り火があったということが判明。「い」「一」は明治に入って姿を消し、「竹に鈴」あるいは「竿に鈴」は大正初期にはまだあったという。こうして今に至り残っているのが五山というわけ。



送り火は精霊送りの意味をもつお盆行事のひとつ。お盆の行事が一般に広く行なわれるようになったのは、仏教が庶民の間に浸透した中世、室町時代以降だろうとされている。送り火のことが記録に初めて登場するのは、公家・舟橋秀賢(ふなはしひでかた)がきした「慶長日件録」という日記の1603(慶長8)年7月16日の記述。「晩に及び冷泉亭に行く、山々灯を焼く、見物に東河原に出でおわんぬ」というのが、鴨の河原からの送り火見物のようで、ここには「万灯籠見物」とも書かれている。戦国時代の京都には、大灯籠を作る風習があった。お盆には、意匠を凝らしたたくさんの灯籠を飾る万灯籠や、それを持って踊る灯籠踊りが流行。二間四方もある大灯籠を作って人々を驚かせたり、町内ごとに大灯籠を作って趣向を競ったりもした。この万灯籠が「山々灯を焼く」送り火になったのではないかとみられている。



いずれにしても、大文字五山送り火の起源が明らかでないのは、この行事が地元の人々によって支えられ、伝えられてきた証であるという。なぜなら、歴史の中の公式記録は時の権力者が残してきたもので、庶民の歴史は記録にとどめられることはなかったからである。今年も地元の人々やボランティアの方々のおかげで行われる京都五山送り火…今京都。


 

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