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rrbのブログ - 2009/07のエントリ

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今京都 すぼっこな 2009/07/30 12:00 am

ぼっこな
無愛想な、あっさりした、堅苦しくなくの意。「あの店には、スボッコナ娘がいる」 スボッコイは気前がよいの意味で、ボッコは古語のヲコ(馬鹿)から転じた。接頭語スを付け、抜かりなく行動するさまをいう。ヲコから、鎌倉時代にアホやバカができた。スボッコナは、気性が激しく、他人の顔色など気にしないことから、無愛想なの意になった。「アホ、バカ、スボケ」とはやすが、スボケはボケルに基づく。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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条通「妖怪ストリート」 (旧フォトヴィレッジ 2007年6月21日掲載)
一条通は京都御苑から西大路通まで約2.5kmにわたり、幅6mほどの道がまっすぐ伸びる。東から歩けば学校や官公庁があり、時折、機音の聞こえる京町家の家並みや商店街を通る。人々の暮らしがさまざまな形で息づく落ち着いた通り。その通りを「妖怪ストリート」として地域を盛り上げる試みがされている。





そもそも平安時代の一条は平安京の北端であり、官庁街の大内裏に面して、京の街の内と外の境目にあった。怪しげな「百鬼夜行」の行き交った伝説があると聞くと、その歴史の深みがさらに感じられる。平安末期の「今昔物語」には、大みそかの夜に一条堀川の橋(一条戻橋)を渡っていた侍が、灯を持った鬼の集団に出会い、人から見えない透明人間に変えられてしまうという一節がある。「宇治拾遺物語」には、一条大路の建物に女性と泊まった男性が夜、馬の顔をした大きな鬼に出くわす話が出てくる。さらに、室町時代の「付喪神記」は、捨てられた古道具たちが人間に仕返しするため変身し、祭礼で一条大路を東へ行列する。しかし、関白の一行にやっつけられる筋書きがある。





こうした文献の研究から、傘や木づち、楽器、鍋などが化けたユーモラスな妖怪の姿で知られる「百鬼夜行絵巻」と「付喪神」を関連付け催されているという「妖怪ストリート」。各お店の前には手作りの妖怪が並び道行く人を見つめている。このイベントは実にユニークであり、楽しいものだ。かつて繁華だった通りが時代とともに寂れてしまった都の北面の一条大路に、後の人々が幻視したイメージをかぶらせており、室町時代に盛んになった職人の生産と、今なら「もったいないおばけ」といえる捨てられた器物の恨みも関連させているのかも知れない。





この通りには平安京の北西端を守る方位の神をまつる大将軍八神社がある。「大江山や愛宕山…都の北西は鬼の入り口。昔の人は特に気になっていた」という伝承を今風にアレンジして、神社近くの大将軍商店街振興組合(26店舗)は数年前から、夜に怪談を聞く催しをしたり、妖怪の仮装行列で地域を盛り上げているという。





妖怪のオブジェを店頭に飾り道行く人を楽しませている。町興しに携わる大将軍商店街振興組合の方々は「捨てたら化けるという昔の人のエコロジーの発想は今に通じる」と、時代を超えて人の心を引き付ける妖怪の魅力を語っているという。決して派手ではないけれど、「ものを大切にする心」を後世まで伝えて欲しいイベントであることには違いない…今京都。


 

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今京都 しょぼくさい 2009/07/28 12:00 am

ょぼくさい
貧相な。「また、ショボクサイ格好してるな」 ショボは、雨露に濡れて、ぐっしょりしたさまをいう「しほしほ」から。クサイは不快を示す接尾語。俳人安原貞室の『片言』(かたこと)には「袖袂などの雨露にぐっしょりぬれたるを、しほしほといふはよろしけれど、しぼしぼぞ、じっぽりぞなど云は如何」とある。「又しょぼくさなどは如何。但草といふはこと葉の縁にて侍れば、苦しかるまじきにや」と解説している。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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抜地蔵(石像寺) (旧フォトヴィレッジ 2007年3月23〜25日掲載)



ここは京都市上京区の千本今出川を北へ上がったところにある釘抜地蔵。819(弘仁10)年に真言宗の開祖・空海(弘法大師)が開創したと伝わる。境内には空海手掘りといわれる京都三井の一つや、平安時代の歌人・藤原家隆、定家、定長の供養塔がある。



道沿いの門をくぐり、30mほどの参道の脇には、大きな釘と釘抜きのようなものが設置されている。境内に入る第二の門から本堂を臨む。中央には先ほど参道にもあった釘と釘抜きのようなものが…。参拝者はまずここで手を合わせる。このお地蔵さまは苦しみや痛みを抜き去る御利益があるといわれ、「苦抜(くぬき)地蔵」とも呼ばれている。





それは戦国時代のことだった。紀の国屋道林(40歳)という都でも有数の商人がいた。ある日突然、何の前触れもなく両手が痛み出す。痛みに耐えかね、治療を尽くしたけれど、そのかいもなく痛みが続く。おまけに病名も分からない。そこで頼るは「神仏」と霊験あらたかなお地蔵さまに願掛けした。その願掛けの満願の夕べに、お地蔵さまが夢に現れお告げがあった。
そのお告げとは、
「この痛みは病ではない。おまえの前世が人をうらみ、人形を作って両手に八寸の釘(くぎ)を打ってのろった。その罪が返ってきて、おまえの身に苦しみを与えている。」
夢のお告げはさらに続く。
「幸いにもおまえはわたしのところに来た。神力をもって、そのうらみの釘を抜き取ってやろう。」
というもの。
夢から覚めると、両手の痛みは消えていた。驚いた道林は急いで寺に向かい、お地蔵さまが安置された厨子(ずし)の前に伏して拝んだ。すると朱に染まった二本の八寸釘が置いてあるのが目に入った。それからというもの、道林は百日を期して日参し、少しでも恩に報いたという。お地蔵さまを安置する本堂の外壁には、八寸釘が二本と釘抜きを取り付けた絵馬が、すき間なく張り付けられている。





八寸釘が二本と釘抜きを取り付けた絵馬は、言い伝えにちなみ、お地蔵さまにお参りした後、御利益があった時だけ奉納が許されるという。「苦しみは釘のようなもの。悩んだり、苦しんだりすると、釘が刺さったような気持ちになる。お地蔵さまとのかかわりのなかで、願いが成就した方だけに奉納していただく」という考えのもとだという。お千度で本堂をぐるぐるとまわったり、仏具の五鈷杵(ごこしょ)をなでて手を合わせたりする人々。科学万能の今の時代にも、信仰心はしっかりと生きているという証ね。釘抜地蔵のある石像寺は現在、浄土宗の寺院で、毎月24日が縁日となっている。





次から次へと参拝者が絶えない。「苦抜(くぬき)地蔵」とも呼ばれている通り、何かの苦痛・苦悩を取り除きたいのか!? そういえば現代は苦痛・苦悩だらけ。そしてどの時代にも必ず存在するのが「現代病」という病気だ。お若いお二人も参拝。突然、ひとりのおばあちゃんが、お二人に話しかけていた。
「あんたら、お参りの仕方を知ってるかぁ。知らんやろ、教えたろ。」と。
「あんなぁ、まず手を清めてなぁ。清めたらな…」と説明が続く。



傍でお話を聞いていると、おばあちゃんは20年近く毎日毎日欠かさず奉仕しているという。ご住職のお話を聞くより、おばあちゃんのお話のほうが楽しいかも知れない。それは、そこにあるのは難しいお経とか教義とかではなく、信徒の純朴な心だからだろう。そして、その純朴な心こそが今の時代でも地蔵信仰を支えている要因なんだと感じた。



「あんたも、そんなことばかりしてんと、お参りしとき!」
その言葉に慌てて参拝。「まずは手を清めてから」…今京都。


 

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今京都 しばく 2009/07/26 12:00 am

ばく
たたく。「文句あるのか。シバイたろか」 江戸時代から使われる。「撓(たわ)む」の意味の「しわる」からか。「しわる」は圧力を受けて撓むことで、室町時代には「腹がすく」ことを「むねがしわる」といった。ドツクは、殴るよりも軽い感じの語。「腹がたつし、ドツイたろか」と言う。東京のブツに対して、上方ではツクに強調の接頭語「ド」をつける。ドツクは江戸時代から使用する。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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蔵物語(270)




 

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今京都 ぽち 2009/07/25 12:00 am


祝儀、心付け、チップのことをいう。「髪結いさんにポチ渡しといてんか」 祝儀袋をポチブクロという。ポチは「ほくのポッチリ」の意味で花街用語からか。フランス語のプチ(小さい)からというのは民間語源説であろう。フランス語でチップはプルボワールである。小さい点をポチというが、これと関係するかどうか分からない。「これポッチ」のポッチと結び付くかどうかも疑問である。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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解地名 (旧フォトヴィレッジ 2007年6月15・16日掲載)
京都は地名も難しいが、読み方も難しい。受け継がれている難解地名は京都の歴史そのものかも知れない。さて、ここで問題。なんと読むでしょう? ちょっと多いけれど頑張って!



(あ)安居院  (い)悪王子町  (う)不明門通  (え)化野  (お)和泉式部町  (か)一口  (き)外郎町  (く)艮町  (け)正親町小路  (こ)巨椋池  (さ)勘解由小路  (し)勘解由小路通  (す)岩栖院町  (せ)上終町  (そ)釜座通  (た)上切通し  (ち)鴨田  (つ)花遊小路  (て)櫛笥通  (と)神足  (な)御幸町通  (に)皀莢町  (ぬ)西石垣通  (ね)佐女牛井町  (の)鹿々谷通  (は)諏訪町  (ひ)清和井  (ふ)芹生  (へ)糺の森  (ほ)天使突抜通  (ま)木賊山町  (み)百々町  (む)日暮通  (め)坤町  (も)日ノ岡ホッパラ町  (ら)罧原町  (り)卜見金仏町  (る)万里小路  (れ)御陵  (ろ)山端



答えは次のとおり。
(あ)安居院(あぐい)  (い)悪王子町(あくおうじちょう)  (う)不明門通(あけずどおり)  (え)化野(あだしの) (お)和泉式部町(いずみしきぶちょう)  (か)一口(いもあらい)  (き)外郎町(ういろうのちょう)  (く)艮町(うしとらちょう)  (け)正親町小路(おおぎまちこうじ)  (こ)巨椋池(おぐらいけ)  (さ)勘解由小路(かげゆこうじ)  (し)勘解由小路通(かでのこうじどおり)  (す)岩栖院町(がせいんちょう)  (せ)上終町(かみはてちょう)  (そ)釜座通(かまんざどおり)  (た)上切通し(かみきりどおし)  (ち)鴨田(かもんでん)  (つ)花遊小路(かゆこうじ)  (て)櫛笥通(くしげどおり)  (と)神足(こうたり)  (な)御幸町通(ごこまちどおり)  (に)皀莢町(さいかちちょう)  (ぬ)西石垣通(さいせきどおり)  (ね)佐女牛井町(さめがいちょう)  (の)鹿々谷通(ししがたにどおり)  (は)諏訪町(すわんちょ)  (ひ)清和井(せがい)  (ふ)芹生(せりょう)  (へ)糺の森(ただすのもり)  (ほ)天使突抜通(てんしつきぬけどおり)  (ま)木賊山町(とくさやまちょう)  (み)百々町(どどちょう)  (む)日暮通(ひぐらしどおり)  (め)坤町(ひつじさるちょう)  (も)日ノ岡ホッパラ町(ひのおかほっぱらちょう)  (ら)罧原町(ふしはらちょう)  (り)卜見金仏町(ぼくみかなぶつちょう)  (る)万里小路(までのこうじ)  (れ)御陵(みささぎ)  (ろ)山端(やまばな)



どれだけ読めた? これはごく一部。特に厄介なのは、(け)の「正親町小路(おおぎまちこうじ)」なんかは「正親小学校」となれば「せいしんしょうがっこう」と読む。「冷泉家(れいぜんけ)」というのに「冷泉通」となると「れいせんどおり」となる。なんとも新旧の入り乱れが悩みの種。極めつけは、「安居院(あぐい)」、「清和井(せがい)」、「岩栖院(がせいん)」、「諏訪町(すわんちょ)」など、なんとなくフランス語流にリエゾンしているところに京ことばの特徴があるような気がするのだけれど、さてどうだかね…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。


 

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今京都 あわさ 2009/07/23 12:00 am

わさ
間。すきま。「歯のアワサに何かはさまって、なかなか取れへん」 アワサイ、アワイサとも。「タンスのアワサイに定規が落ちてしもうた」 あわい(間)に基づく。時間的にはアイサニという。「アイサニええこと言わはるな」 空間的にはアワイサ、時間的にはアイサニと使い分ける。アイもアワイも「間」の意。アワイからアンバイという語を作った。アワイは物と物の交わるところ、人と人の関係をいった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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火天満宮(すいかてんまんぐう) (旧フォトヴィレッジ 2007年8月25日掲載)
水火天満宮は、水難火難除けの神として知られている。1952(昭和27)年の堀川通拡張工事に伴い堀川通を挟んだ西側の上天神町から現在地に移転されたという。社伝によれば、923(延長元)年6月25日に醍醐天皇の勅願で菅原道真の神霊を勧請し建立されている。もとは悲田院の鎮守社であったが、菅公信仰と結びついたと伝えられている。





表鳥居の前に「日本最初 水火天満宮」と刻した大きな石標と、「孝学堂跡」と刻した小さなの石柱が見られる。孝学堂は、江戸時代に天満宮宮司の孝道が境内に開設した学問塾をいう。



境内にある「登天石(とうてんせき)」は、903(延喜3)年、菅原道真公が大宰府の地において亡くなられた後、都では雷火の災いが重なったことから人々は菅公の怨霊のせいだと不安が高まった。醍醐天皇は延暦寺の法性坊尊意僧正に祈祷を依頼。勅命を受けた尊意が急いで宮中へ向かう途中、鴨川が急に増水して渡れなくなったが、尊意はあわてず手にした数珠をひともみし、祈願したところたちまち水位が下り、水面が二つ分かれ流れの間から一つの石が現れ、その上に菅公が現れやがて昇天し雲の中へ消え、雷雨も止んだという。のちにその石を陸に移動して供養して「登天石」といしたという由来をもつ石がある。





また、傍には近年出世した人が寄進された「出世石」がある。さらには、眼に効能があるという「金龍水」と称する湧き水もある。
なお、「登天石」の横に「是より洛中荷馬口付のもの乗へからす(乗るべからず)」と刻した石柱がある。この意味は「馬に乗ったまま洛中へ入ってはならない。荷を載せた馬は,馬の口取り(馬子)が手綱を引いて歩くように」という意味で、江戸時代の1695(元禄8)年に市街地の交通安全のために、都への出入り口30カ所に木杭で設置された。水火天満宮は、鞍馬口街道沿いである。その後、朽ちたので1717(享保2)年石漂に作り替えた、その中の一つとされる。



車の通行量が多い堀川通りに面していると思えないくらいひっそりとした佇まいの境内。それにしてもここにも菅原道真公の影が! 恐るべし菅原道真公…今京都。


 

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