rrbのブログ - 2009/02のエントリ
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今京都 金字塔 2009/02/10 12:00 am
きんじとう…永く後世に伝えられる不滅の業績。だれも達成したことのない偉業。
◇ちょっと予備知識 → ピラミッドのように、金の字の形をしている塔から。
類義語に偉業(いぎょう)・大業(たいぎょう)がある。
うるさい (旧フォトヴィレッジ 2007年7月15日掲載)
「うるさい」は「うるさし」がもと。その語源は平安時代にまでさかのぼる。もともと「うるさし」は「右流左死」。このただならぬ字面にはちゃんとエピソードがある。京都・北野天満宮に祀られる学問の神様・菅原道真。道真公が平安時代、右大臣についたとき、いっぽうの左大臣は藤原時平。ふたりはいずれも並外れた優秀さで、互いに激しいライバル意識を持ち合わせていた。

晩年、道真が九州の大宰府に流され、悲しみのうちに亡くなる。それは宇多天皇の信任厚い道真を左遷し、政界において藤原氏の地位を揺るぎないものにしようともくろむライバル時平の陰謀だった。ところが都で胸をなでおろしたはずの政敵・右大臣時平。いよいよこれからというときに、時平が39歳の若さで急死するという事件が起こる。以後、京の都に災難や天変地異が起こりはじめる。そしてついには、御所の清涼殿が落雷にあい炎上。即死者は出るし、醍醐天皇はショックを受けて病に倒れるし、あげくのはてはその秋に死去するという悲劇が続いた。

都の人々は、「これぞ道真公のたたりじゃ! 右大臣が流され、左大臣が死に『ああ右流左死』」と嘆いた。「うるさし」はここから生じた言葉だと、平安時代の故事や世間の雑事を語った話をまとめた「江談抄(ごうだんしょう)」には書いてある。平安時代から歳月が流れて、鎌倉時代の吉田兼好は「徒然草」第35段のなかで、
手のわろき人の、はばからず、文書き散らすは、よし。見ぐるしとて、人に書かするは、うるさし
(筆の下手な人が、遠慮なく、手紙をどんどん書くのはよい。見苦しいと、人に書かせるのは、わざとらしくていやみだ)と、「うるさし」という言葉をこのように使用している。

現在、用いられている「うるさい」という言葉が意味する「面倒」だとか、「しつこい」だとか、「やかましい、騒々しい」だとかいった意味はここには感じられない。「わざとらしくて嫌気がさす」、つまり「策を弄す」とか、「背景に謀りごとがある」という点では「ああ右流左死」の時代の語源がまだ生きているように思える。
現在でも「ああ右流左死」のニュアンスが残っている用い方は「あの人は写真にはうるさい」などだう。意味は「並で満足せず高い水準を求めてしつこいさま」ということだ。また、夏目漱石は「うるさい」を「五月蝿い」と漢字で書いている。これは、五月の蠅は追っても追っても飛んできてまとわりつく、しつこい(京都人は「ひつこい」と発音する場合が多い)、いやになる、もううるさい! という代表的な用い方かも知れない。意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.3(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
★前回の京が語源「水に流す」はここ(←クリック)

◇ちょっと予備知識 → ピラミッドのように、金の字の形をしている塔から。
類義語に偉業(いぎょう)・大業(たいぎょう)がある。
うるさい (旧フォトヴィレッジ 2007年7月15日掲載)
「うるさい」は「うるさし」がもと。その語源は平安時代にまでさかのぼる。もともと「うるさし」は「右流左死」。このただならぬ字面にはちゃんとエピソードがある。京都・北野天満宮に祀られる学問の神様・菅原道真。道真公が平安時代、右大臣についたとき、いっぽうの左大臣は藤原時平。ふたりはいずれも並外れた優秀さで、互いに激しいライバル意識を持ち合わせていた。

晩年、道真が九州の大宰府に流され、悲しみのうちに亡くなる。それは宇多天皇の信任厚い道真を左遷し、政界において藤原氏の地位を揺るぎないものにしようともくろむライバル時平の陰謀だった。ところが都で胸をなでおろしたはずの政敵・右大臣時平。いよいよこれからというときに、時平が39歳の若さで急死するという事件が起こる。以後、京の都に災難や天変地異が起こりはじめる。そしてついには、御所の清涼殿が落雷にあい炎上。即死者は出るし、醍醐天皇はショックを受けて病に倒れるし、あげくのはてはその秋に死去するという悲劇が続いた。

都の人々は、「これぞ道真公のたたりじゃ! 右大臣が流され、左大臣が死に『ああ右流左死』」と嘆いた。「うるさし」はここから生じた言葉だと、平安時代の故事や世間の雑事を語った話をまとめた「江談抄(ごうだんしょう)」には書いてある。平安時代から歳月が流れて、鎌倉時代の吉田兼好は「徒然草」第35段のなかで、
手のわろき人の、はばからず、文書き散らすは、よし。見ぐるしとて、人に書かするは、うるさし
(筆の下手な人が、遠慮なく、手紙をどんどん書くのはよい。見苦しいと、人に書かせるのは、わざとらしくていやみだ)と、「うるさし」という言葉をこのように使用している。

現在、用いられている「うるさい」という言葉が意味する「面倒」だとか、「しつこい」だとか、「やかましい、騒々しい」だとかいった意味はここには感じられない。「わざとらしくて嫌気がさす」、つまり「策を弄す」とか、「背景に謀りごとがある」という点では「ああ右流左死」の時代の語源がまだ生きているように思える。
現在でも「ああ右流左死」のニュアンスが残っている用い方は「あの人は写真にはうるさい」などだう。意味は「並で満足せず高い水準を求めてしつこいさま」ということだ。また、夏目漱石は「うるさい」を「五月蝿い」と漢字で書いている。これは、五月の蠅は追っても追っても飛んできてまとわりつく、しつこい(京都人は「ひつこい」と発音する場合が多い)、いやになる、もううるさい! という代表的な用い方かも知れない。意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.3(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
★前回の京が語源「水に流す」はここ(←クリック)


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今京都 綺羅星 2009/02/08 12:00 am
きらぼし…夜空にきらきらと輝く無数の星。
◇ちょっと予備知識 → 「綺羅、星の如く」から、美人や有名人などが顔を並べているさま。
羅漢


この2枚は同じ羅漢さんだけれど、少し撮る角度を変えると印象が違って見える。こういうところも写真の楽しさだといえるが、同時に難しさでもあるといえる。撮る前に時間をかけて、被写体を様々な角度から見て決めたい…今京都。
地蔵物語(243)

京都にはたくさんのお地蔵さんがある。本当に多いと思う…今京都。

◇ちょっと予備知識 → 「綺羅、星の如く」から、美人や有名人などが顔を並べているさま。
羅漢


この2枚は同じ羅漢さんだけれど、少し撮る角度を変えると印象が違って見える。こういうところも写真の楽しさだといえるが、同時に難しさでもあるといえる。撮る前に時間をかけて、被写体を様々な角度から見て決めたい…今京都。
地蔵物語(243)

京都にはたくさんのお地蔵さんがある。本当に多いと思う…今京都。


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今京都 几帳面 2009/02/07 12:00 am
きちょうめん…性格や行動がまじめできちんとしていること。
◇ちょっと予備知識 → 「几帳」は台に柱を立てて幕を下ろし、室内の間仕切りに使った道具のこと。
類義語に正確無比(せいかくむひ)がある。
対義語は大雑把(おおざっぱ)。
関連記事はここ(←クリック)
水に流す (旧フォトヴィレッジ 2007年7月6日掲載)
「このことは、もう水に流してよ」とか、「過去は水に流して…」と、使用される「水に流す」という言葉は京都から生まれた。なんでも、平安時代、京の都で疫病が流行したとき、人々は死の恐怖を前にして水を浴びたり、何度も何度も水をかぶったりして疫病から我が身を守った。「水に流す」という言葉はそこから生まれたのだという。

話がちょっと反れるけど、下鴨・上賀茂の両神社が舞台となる「賀茂祭」こと「葵祭」は疫病が蔓延したことに端を発する。祭りの始まりは544年ともいわれ、京に都がやってくるはるか以前のこと。その昔、春も流行病の季節なら夏も恐怖。冷蔵庫も下水処理も衛生知識もない時代。ものが腐敗しウィルスがはびこる夏が巡りくるたびに疫病が広がり、人々がバタバタと死んでいった。「葵祭」とならぶ「祇園祭」もまた、暑い夏の疫病退散を願う御霊会(ごりょうえ)である。外から進入してくる邪悪な何物かを防がなければならない。神の祟りにふれたくない、病に倒れたくないと必死だった人々の切実な思いが、恐ろしい病を振り払いたい一心となり、水を浴び身を清める。それによって疫病を「水に流す」ことができると考えたのだろうと推測されている。

下鴨神社では毎年、夏の土用の丑の日に「御手洗祭(みたらしまつり)」が行なわれている。夏の土用は7月の下旬、京都では梅雨明け後の太陽が何日も照りつける猛暑のさなか。境内を流れる御手洗川の源である御手洗池にひざまで足を浸して身を清め無病息災を願う。「足つけ神事」ともいわれるこの行事、夏の流行り病を「水に流す」行為そのものとして、現在も伝わっている。日本人は古来より「みそぎ」という習慣がある。祀りごとを行なう前に、海や川の水で身を清める。これが「みそぎ」の儀式で、その語源は「身そそぎ」にあるとも「水そそぎ」にあるともいわれている。

さて、その「水に流す」という言葉であるが、「都合の悪いことはなんでも水に流す」とか、「過去を水に流す」とか最近はあまりいい意味で使用されなくなった。「水に流す」という言葉は、本来は、豊かな水と美しい自然に培われた日本人独特の自然観や清浄感に基づいていた。平安の昔、疫病を「水に流す」ことにより身を守られ、いつしかそれを人と人とをつなぐ知恵として、また自然に寄り添って生きる美学として身につけてきたのではないか、と想像する。この想像が正しいとすると、「水に流す」が「ただリセットボタンを押す」という意味に成り下がっている現在、正しい意味で使用されていないと、少し悲しい気持ちになる。「今言葉」というか現在広く使用されている日常の言葉の中にも「本来の意味が忘れ去られ、都合のいいように使用されている」言葉がたくさんあるかも知れない。

余談であるが、「けがれを水に流す」御手洗池に湧き出る水のあぶくを人の形にかたどったのが「みたらし団子」のルーツ。その昔、御手洗祭の日に下鴨神社境内「糺の森」で売られたのが「みたらし団子」の発祥であるとされているという。意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.2(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
★前回の京が語源「うまい」「さまになる」「にのまいをふむ」はここ(←クリック)

◇ちょっと予備知識 → 「几帳」は台に柱を立てて幕を下ろし、室内の間仕切りに使った道具のこと。
類義語に正確無比(せいかくむひ)がある。
対義語は大雑把(おおざっぱ)。
関連記事はここ(←クリック)
水に流す (旧フォトヴィレッジ 2007年7月6日掲載)
「このことは、もう水に流してよ」とか、「過去は水に流して…」と、使用される「水に流す」という言葉は京都から生まれた。なんでも、平安時代、京の都で疫病が流行したとき、人々は死の恐怖を前にして水を浴びたり、何度も何度も水をかぶったりして疫病から我が身を守った。「水に流す」という言葉はそこから生まれたのだという。

話がちょっと反れるけど、下鴨・上賀茂の両神社が舞台となる「賀茂祭」こと「葵祭」は疫病が蔓延したことに端を発する。祭りの始まりは544年ともいわれ、京に都がやってくるはるか以前のこと。その昔、春も流行病の季節なら夏も恐怖。冷蔵庫も下水処理も衛生知識もない時代。ものが腐敗しウィルスがはびこる夏が巡りくるたびに疫病が広がり、人々がバタバタと死んでいった。「葵祭」とならぶ「祇園祭」もまた、暑い夏の疫病退散を願う御霊会(ごりょうえ)である。外から進入してくる邪悪な何物かを防がなければならない。神の祟りにふれたくない、病に倒れたくないと必死だった人々の切実な思いが、恐ろしい病を振り払いたい一心となり、水を浴び身を清める。それによって疫病を「水に流す」ことができると考えたのだろうと推測されている。

下鴨神社では毎年、夏の土用の丑の日に「御手洗祭(みたらしまつり)」が行なわれている。夏の土用は7月の下旬、京都では梅雨明け後の太陽が何日も照りつける猛暑のさなか。境内を流れる御手洗川の源である御手洗池にひざまで足を浸して身を清め無病息災を願う。「足つけ神事」ともいわれるこの行事、夏の流行り病を「水に流す」行為そのものとして、現在も伝わっている。日本人は古来より「みそぎ」という習慣がある。祀りごとを行なう前に、海や川の水で身を清める。これが「みそぎ」の儀式で、その語源は「身そそぎ」にあるとも「水そそぎ」にあるともいわれている。

さて、その「水に流す」という言葉であるが、「都合の悪いことはなんでも水に流す」とか、「過去を水に流す」とか最近はあまりいい意味で使用されなくなった。「水に流す」という言葉は、本来は、豊かな水と美しい自然に培われた日本人独特の自然観や清浄感に基づいていた。平安の昔、疫病を「水に流す」ことにより身を守られ、いつしかそれを人と人とをつなぐ知恵として、また自然に寄り添って生きる美学として身につけてきたのではないか、と想像する。この想像が正しいとすると、「水に流す」が「ただリセットボタンを押す」という意味に成り下がっている現在、正しい意味で使用されていないと、少し悲しい気持ちになる。「今言葉」というか現在広く使用されている日常の言葉の中にも「本来の意味が忘れ去られ、都合のいいように使用されている」言葉がたくさんあるかも知れない。

余談であるが、「けがれを水に流す」御手洗池に湧き出る水のあぶくを人の形にかたどったのが「みたらし団子」のルーツ。その昔、御手洗祭の日に下鴨神社境内「糺の森」で売られたのが「みたらし団子」の発祥であるとされているという。意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.2(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
★前回の京が語源「うまい」「さまになる」「にのまいをふむ」はここ(←クリック)


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今京都 生一本 2009/02/05 12:00 am
きいっぽん…純粋で混じり気がないこと。心がまっすぐで、一つのことに打ち込む性格。
◇ちょっと予備知識 → 「生」は混ぜ物がないということ。
類義語に一本気(いっぽんぎ)・生粋(きっすい)・無垢(むく)がある。
対義語は不純(ふじゅん)。
以前から気になっていたのだが、旧フォトヴィレッジの運用環境が安定していない。旧フォトヴィレッジで掲載した内容で、いくつかはとっておきたいものがある。「童謡物語」「京が語源」「京の街」なとで残しておきたい記事がある。その改訂・再掲を少しずつしていきたいと思う。
うまい、さまになる、にのまいをふむ (旧フォトヴィレッジ 2007年6月26日掲載)
「京が語源」で初めて取り上げたのが「うまい」「さまになる」「にのまいをふむ」だ。

(少し富士山ぽくなった比叡山) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
何でも舞楽の世界では「さまになる」は「左舞になる」、「うまい」は「右舞」がルーツだといわれているらしい。舞楽には、中国・インド・ベトナムの舞が唐の文化として伝わった唐楽(とうがく)の左舞(さまい)と、朝鮮・満州の舞が高麗経由で伝わった高麗楽(こまがく)の右舞(うまい)がある。
舞人にとっては、右舞より左舞のほうがより高度で難しいとされている。そこで、まず右舞が一人前になると「うまい」、さらに左舞が舞えるようになると、ようやく「さまになる」といわれるそうだ。

(大文字と比叡山) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
ちなみに舞楽に語源をたどれば「にのまいをふむ」という言葉もそうである。これは安南から伝わったインド楽のひとつ「安摩(あま)」という舞楽に由来する。まず二人の舞人が優雅に舞う一の舞が行なわれ、次にそれを真似ようとして真似られず、滑稽な足取り(舞い方)を踏んでしまうというユーモラスな舞が続く。ここから「二の舞を踏む」という言葉が生まれたということ。
平安京で盛んだった舞楽や雅楽、蹴鞠などに現在使用されている言葉の語源がたくさんあるという恐るべし京都の一面だ。
さてさて、写真にしてもブログにしても「うまい」とか「さまになっている」とか、褒められる日がくるのだろうか。いずれにしても「うまい」「さまになる」「にのまいをふむ」は意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.1(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。

◇ちょっと予備知識 → 「生」は混ぜ物がないということ。
類義語に一本気(いっぽんぎ)・生粋(きっすい)・無垢(むく)がある。
対義語は不純(ふじゅん)。
以前から気になっていたのだが、旧フォトヴィレッジの運用環境が安定していない。旧フォトヴィレッジで掲載した内容で、いくつかはとっておきたいものがある。「童謡物語」「京が語源」「京の街」なとで残しておきたい記事がある。その改訂・再掲を少しずつしていきたいと思う。
うまい、さまになる、にのまいをふむ (旧フォトヴィレッジ 2007年6月26日掲載)
「京が語源」で初めて取り上げたのが「うまい」「さまになる」「にのまいをふむ」だ。

(少し富士山ぽくなった比叡山) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
何でも舞楽の世界では「さまになる」は「左舞になる」、「うまい」は「右舞」がルーツだといわれているらしい。舞楽には、中国・インド・ベトナムの舞が唐の文化として伝わった唐楽(とうがく)の左舞(さまい)と、朝鮮・満州の舞が高麗経由で伝わった高麗楽(こまがく)の右舞(うまい)がある。
舞人にとっては、右舞より左舞のほうがより高度で難しいとされている。そこで、まず右舞が一人前になると「うまい」、さらに左舞が舞えるようになると、ようやく「さまになる」といわれるそうだ。

(大文字と比叡山) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
ちなみに舞楽に語源をたどれば「にのまいをふむ」という言葉もそうである。これは安南から伝わったインド楽のひとつ「安摩(あま)」という舞楽に由来する。まず二人の舞人が優雅に舞う一の舞が行なわれ、次にそれを真似ようとして真似られず、滑稽な足取り(舞い方)を踏んでしまうというユーモラスな舞が続く。ここから「二の舞を踏む」という言葉が生まれたということ。
平安京で盛んだった舞楽や雅楽、蹴鞠などに現在使用されている言葉の語源がたくさんあるという恐るべし京都の一面だ。
さてさて、写真にしてもブログにしても「うまい」とか「さまになっている」とか、褒められる日がくるのだろうか。いずれにしても「うまい」「さまになる」「にのまいをふむ」は意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.1(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。


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今京都 皮算用 2009/02/03 12:00 am
かわざんよう…物事を実現しないうちから当てにして待つこと。まだ手に入っていないのに計算に入れること。
◇ちょっと予備知識 → 「とらぬ狸の皮算用」の略。
類義語に胸算用(むなざんよう)がある。
羅漢
今日は節分。節分のおばけが見れるといいなぁ〜。けれど、相変わらず出張中だから無理だ。
皆さんのブログにも訪問できずにごめんなさい。

地蔵物語(242)


◇ちょっと予備知識 → 「とらぬ狸の皮算用」の略。
類義語に胸算用(むなざんよう)がある。
羅漢
今日は節分。節分のおばけが見れるといいなぁ〜。けれど、相変わらず出張中だから無理だ。
皆さんのブログにも訪問できずにごめんなさい。

地蔵物語(242)


