rrbのブログ - 2009/07/14のエントリ
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おいえ2009/07/14 12:00 am
おいえ
座敷。「オイエ上がって遊んでばっかりいんと、外(かど)で遊んどいで」 オイエは「お上(うえ)」ということからで、使用人が言い始めた。この場合のイエは家の意味ではない。町家の家庭の主婦を大阪でオイエサンというのも「お上様(うえさま)」からで、東京のオカミサンと同種の命名法。座敷は昔は板張りで、しとね・円座などを敷いて座った。座を敷くから座敷であった。畳はもと敷物の総称でたたむことができた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
五山送り火 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月21日掲載)
京都の夏の風物詩といえば、今週の17日に山鉾巡行が行われる祇園祭と8月16日に行われる五山の送り火。大文字の送り火を「大文字焼き」という人がいるが、京都人は「焼き」とは決して言わない、送り火。
この五山の送り火は、京都盆地と周囲の山々をひとつの舞台に見立てた壮大な炎のページェント。東に「大文字」、北に「妙法」「船形」、西に「左大文字」「鳥居形」と五つの火文字。このとてつもない演出法を、いったい誰が思いついたのか…この歴史都市京都においても、いつから始まったのか、どのようにして始まったのかが実は不明というから面白い。
この五山送り火を調べてみると、かつては市原に「い」、鳴滝に「一」、北嵯峨に「蛇蛇」、西山に「竹の先に鈴」、観空寺(かっこうじ)村に「長刀(なぎなた)」などと、さまざまな送り火があったということが判明。「い」「一」は明治に入って姿を消し、「竹に鈴」あるいは「竿に鈴」は大正初期にはまだあったという。こうして今に至り残っているのが五山というわけ。
送り火は精霊送りの意味をもつお盆行事のひとつ。お盆の行事が一般に広く行なわれるようになったのは、仏教が庶民の間に浸透した中世、室町時代以降だろうとされている。送り火のことが記録に初めて登場するのは、公家・舟橋秀賢(ふなはしひでかた)がきした「慶長日件録」という日記の1603(慶長8)年7月16日の記述。「晩に及び冷泉亭に行く、山々灯を焼く、見物に東河原に出でおわんぬ」というのが、鴨の河原からの送り火見物のようで、ここには「万灯籠見物」とも書かれている。戦国時代の京都には、大灯籠を作る風習があった。お盆には、意匠を凝らしたたくさんの灯籠を飾る万灯籠や、それを持って踊る灯籠踊りが流行。二間四方もある大灯籠を作って人々を驚かせたり、町内ごとに大灯籠を作って趣向を競ったりもした。この万灯籠が「山々灯を焼く」送り火になったのではないかとみられている。
いずれにしても、大文字五山送り火の起源が明らかでないのは、この行事が地元の人々によって支えられ、伝えられてきた証であるという。なぜなら、歴史の中の公式記録は時の権力者が残してきたもので、庶民の歴史は記録にとどめられることはなかったからである。今年も地元の人々やボランティアの方々のおかげで行われる京都五山送り火…今京都。
座敷。「オイエ上がって遊んでばっかりいんと、外(かど)で遊んどいで」 オイエは「お上(うえ)」ということからで、使用人が言い始めた。この場合のイエは家の意味ではない。町家の家庭の主婦を大阪でオイエサンというのも「お上様(うえさま)」からで、東京のオカミサンと同種の命名法。座敷は昔は板張りで、しとね・円座などを敷いて座った。座を敷くから座敷であった。畳はもと敷物の総称でたたむことができた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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五山送り火 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月21日掲載)
京都の夏の風物詩といえば、今週の17日に山鉾巡行が行われる祇園祭と8月16日に行われる五山の送り火。大文字の送り火を「大文字焼き」という人がいるが、京都人は「焼き」とは決して言わない、送り火。
この五山の送り火は、京都盆地と周囲の山々をひとつの舞台に見立てた壮大な炎のページェント。東に「大文字」、北に「妙法」「船形」、西に「左大文字」「鳥居形」と五つの火文字。このとてつもない演出法を、いったい誰が思いついたのか…この歴史都市京都においても、いつから始まったのか、どのようにして始まったのかが実は不明というから面白い。
この五山送り火を調べてみると、かつては市原に「い」、鳴滝に「一」、北嵯峨に「蛇蛇」、西山に「竹の先に鈴」、観空寺(かっこうじ)村に「長刀(なぎなた)」などと、さまざまな送り火があったということが判明。「い」「一」は明治に入って姿を消し、「竹に鈴」あるいは「竿に鈴」は大正初期にはまだあったという。こうして今に至り残っているのが五山というわけ。
送り火は精霊送りの意味をもつお盆行事のひとつ。お盆の行事が一般に広く行なわれるようになったのは、仏教が庶民の間に浸透した中世、室町時代以降だろうとされている。送り火のことが記録に初めて登場するのは、公家・舟橋秀賢(ふなはしひでかた)がきした「慶長日件録」という日記の1603(慶長8)年7月16日の記述。「晩に及び冷泉亭に行く、山々灯を焼く、見物に東河原に出でおわんぬ」というのが、鴨の河原からの送り火見物のようで、ここには「万灯籠見物」とも書かれている。戦国時代の京都には、大灯籠を作る風習があった。お盆には、意匠を凝らしたたくさんの灯籠を飾る万灯籠や、それを持って踊る灯籠踊りが流行。二間四方もある大灯籠を作って人々を驚かせたり、町内ごとに大灯籠を作って趣向を競ったりもした。この万灯籠が「山々灯を焼く」送り火になったのではないかとみられている。
いずれにしても、大文字五山送り火の起源が明らかでないのは、この行事が地元の人々によって支えられ、伝えられてきた証であるという。なぜなら、歴史の中の公式記録は時の権力者が残してきたもので、庶民の歴史は記録にとどめられることはなかったからである。今年も地元の人々やボランティアの方々のおかげで行われる京都五山送り火…今京都。
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