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rrbのブログ - 2009/03のエントリ

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今京都 大黒柱 2009/03/14 12:00 am

いこくばしら…家の中央にある太い柱のこと。そこから、家族や団体などの中心人物。
◇ちょっと予備知識 → 「大黒」は仏教で、飲食を司る神のこと。
                類義語に支柱(しちゅう)・柱石(ちゅうせき)がある。


るてるぼうず(童謡物語第5弾)  (旧フォトヴィレッジ 2006年10月26日掲載)

「てるてるぼうず」
作詞:浅原鏡村 作曲:中山晋平

てるてるぼうず てるぼうず  あしたてんきに しておくれ
いつかのゆめの そらのよに  はれたらきんの すずあげよう

てるてるぼうず てるぼうず  あしたてんきにしておくれ
わたしのねがいを きいたなら  あまいおさけを たんとのましょ

てるてるぼうず てるぼうず  あしたてんきに しておくれ
それでもくもって ないたなら  そなたのくびを ちょんときるぞ

明日は待ちに待った遠足か、いや運動会か、なんでもよい。お子たちが軒先に
 ♪ あしたてんきに しておくれ
と、「てるてるぼうず」を吊るす、こんな光景は今では見ないかも知れない。しかし、ひと世代くらい前までは「やったなぁ〜」という記憶があるのではないだろうか? この歌の面白いところは、約束を守ってくれたら、
 ♪ きんの すずあげよう
とか
 ♪ あまいおさけを たんとのましょ
と交換条件を出し、最後は
 ♪ そなたのくびを ちょんときるぞ
と、残酷な脅しになるところ。なんか人間社会の駆け引きがそのまま歌になっているような感じがする。



「てるてるぼうず」は漢字で書くと「照照坊主」。この坊主、最初は男でなく女だったというから意外。生まれは中国で、正体は中国の掃晴娘(そうせいじょう)だとされている。掃晴娘は、必ず掃除のための箒(ほうき)を持っていた。箒は霊や悪事だけでなく福をも掃き払うほどに力を持つとされた一種の呪具(じゅぐ)で、その箒を使って雲を掃き払い晴天に導くのが掃晴娘の役目。だから中国では箒を持った人形を吊るしていたという。この風習が日本に入ってきたのは平安時代だとされている。天気占いとはいえ、ひとつの祈祷を施すわけだから、日本では普通僧侶がその任を承る。年かさの少ない若い娘より坊さんのほうが効果があると信じられていた。経験がものをいうというやつね。だから「照照坊主」となった。作詞をした浅原鏡村はこの歌一曲だけで童謡界に名をはせたという。



この歌詞、初めは
 ♪ はれたらきんの すずあげよう
のくだりは二番になっていて、代わりに一番には
 ♪ もしも曇って泣いてたら 空を見上げてみんな泣こう
となっていたらしい。なんと慈悲深い歌詞なんだ。しかし、三番は首をちょん切ると残忍な歌詞。この背景には朝原鏡村の父の生き様が影響しているといわれている。父は事業失敗後の1908年に牧師をしている。いつもむごたらしい形で十字架にかけられているキリストの像を目の当たりにしていたから「首をちょん切る」といった発想ができたともいわれている。当時、キリスト教は弾圧されており、父は迫害にも近い嫌がらせをいつも受けていた。その環境の中でも牧師生活を貫き通した父を心底立派だと尊敬していたのね。もし「照照坊主」という名の神が子供の望みを叶えられぬような邪神であれば、そのときは首を切ってもかまわないだろう…そう思わずにはいられなくなっていたのではないか…と考えられている。



 ♪ もしも曇って泣いてたら 空を見上げてみんな泣こう
は聖母マリアのイメージさせる。宗教弾圧の時代背景がこの歌詞を変更させ、邪神であればそのときは首を切ってもかまわないだろうという発想が生まれる。この童謡にもそんな時代背景が反映されているのだろうか…今京都。 ※写真は京都府南丹市美山町の風景で本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第4弾「村祭り」はここ(←クリック)


 

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今京都 走馬灯 2009/03/12 12:00 am

うまとう…回りどうろう。中にあるろうそくに火をつけると、影絵が次々に回って見えるもの。
◇ちょっと予備知識 → 「走馬灯のように」というかたちで、過ぎ去った昔のことを次々に思い出す場合に使う。


〜…、最近は再掲ばかりで少し飽きてきた。早く本来の形に戻したいが、旧フォトヴィレッジのサーバーも不調だし。旧フォトヴィレッジのときは何日かに分けて掲載した内容でも、再掲は分けずに掲載するようにしよう…と思う。


祭り(童謡物語第4弾)  (旧フォトヴィレッジ 2006年10月25日掲載)

「村祭り」
文部省唱歌

村の鎮守の神様の 今日はめでたいお祭り日
どんどんひゃらら どんひゃらら どんどんひゃらら どんひゃらら
朝から聞こえる笛太鼓

年も豊年満作で 村は総出の大祭り
どんどんひゃらら どんひゃらら どんどんひゃらら どんひゃらら
夜までにぎわう宮の森

みのりの秋に神様の めぐみたたえる村祭り
どんどんひゃらら どんひゃらら どんどんひゃらら どんひゃらら
聞いても心が勇み立つ

祭りは春夏秋冬、どの季節にも存在する。この「村祭り」は秋の祭りの歌。
 ♪ 年も豊年満作で
となっているから、米の収穫祭の歌であることが容易に想像できる。村の人々は今年も稲刈りが終わり、ほっとした気分を持ちながら神々に感謝の念を抱く。日本の風景や日本人の気質を見事にとらえた歌だといえるのではないだろうか。しかし、そんな願いと喜びにあふれるこの歌を知らない子供たちが多くなっているという。理由は学校でこの歌を教えなくなったからということであるが、教えなくなった理由というのがちょっと驚く。



この唱歌が、はじめて教科書に載せられたのは1912(明治45)年。第122代天皇である明治天皇の在位は、この歌が生まれた年にすでに45年目を迎えていた。その長期を寿ぎこの歌も作られたという。天皇は、それまでの徳川封建国家を一新し、世界の大国のひとつに成長させる。国会の開設や学校制度の確立、身分制度の廃止など日本の近代化を急速に進める。まさに「神としてのお働き」。だから、当時、三番の歌詞は
 ♪ 治まる御代に神様の めぐみあおぐや 村祭り
となっており、戦後になって天皇が人間宣言をするとともに、今の
 ♪ みのりの秋に神様の
に変化していったそうだ。それからは長いことこの歌は必ず学校で教わる歌として君臨し続けた。日本の祭りのルーツ、日本の主食である米への感謝、そして農民へのねぎらいといった大切な日本の心がしっかりと描かれている歌だったからに違いない。



日本人は農耕民族。手をかけ時間をかけて、秋に主食である米を収穫する人々が多くを占める国。米ができるまでは、春の田植えに始まってやっと訪れる実りの秋まで優に半年を要す。太陽のめぐみ、米のめぐみに感謝し、降りすぎても降らなすぎても命取りになる雨の神、つまり天の神に祈りをささげる。草取り、虫の駆除、ねずみや野鳥の被害などを切り抜けたにもかかわらず、収穫前に無残にも押し寄せる台風。俗に半年で八十八回も手がかかるとされるのが米作りである。そんな手間隙がかかる米作り。しかし、それが生きるすべだった。だからこそ収穫が終わると人々は喜び勇んだ。苦労から解き放たれるひと休みの期間の到来。同時にたまったストレスからの解放。そこにやってくるのが待ちに待った
 ♪ 神様の めぐみたたえる村祭り
なのである。
この歌は日本の祭りのルーツを歌を通して教えている。五穀豊穣、豊年満作への感謝と翌年の祈願が祭りを発祥させたのである。つまり人は生きるために働く、懸命に働いて働いて働き抜けば、その後に必ず幸せが訪れるという日本人気質こそが、楽しい収穫祭を生んだといえる。そんな大事なことを教えてくれるこの歌が教科書から消えたのは、1962(昭和37)年に端を発する。どの都道府県にもあった村が町村合併で消えていくことにある。教科書は全国で使用されるもの。たとえひとつふたつの県だけであっても、村が存在しなくなったとき、この歌は時代にそぐわない歌と決めつけられ、自然と教科書から消されていった。今、日本語の大切さや日本文化の継承が叫ばれている。こういった古きよき時代の教訓こそ、しっかり子孫に受け継がなければならないのではないだろうかと感じる。



 ♪ どんどんひゃらら どんひゃらら
ウキウキしてくる祭りの興奮。祭りの喜びは苦労の後のご褒美。やらなければならないことをしなければ、後についてくる喜びもない。ごくごく当たり前なことなのに、何故か欠けてしまったそんな教えをこの歌はしっかりと教えてくれているのではないだろうか…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第3弾「赤とんぼ」はここ(←クリック)


 

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今京都 先入観 2009/03/10 12:00 am

んにゅうかん…ある事柄に対して、初めから持っている固定観念。自由な発想を妨げる思い込み。
◇ちょっと予備知識 → 「先入感」とのは誤り。
                類義語に先入見(せんにゅうけん)・先入主(せんにゅうしゅ)・成心(せいしん)・
                色眼鏡(いろめがね)がある。


とんぼ(童謡物語第3弾)  (旧フォトヴィレッジ 2006年10月17日掲載)

「赤とんぼ」
作詞:三木露風 作曲:山田耕筰

ゆうやけ こやけの あかとんぼ   おわれて みたのは いつの ひか
やまの はたけの くわの みを   こかごに つんだは まぼろしか
じゅうごで ねえやは よめに ゆき   おさとの たよりも たえはてた
ゆうやけ こやけの あかとんぼ   とまって いるよ さおの さき

老若男女を問わず、最も人気が高い童謡といえるのが「赤とんぼ」。なんとなくこの光景は幼いときに体験している…と、思ってしまう。頭の中での美化現象化もしれないけれど、この童謡にも裏話が存在している。裏話の代表のひとつは一般に知られるまでに相当の時間を要したということだ。
もうひとつは
 ♪ おわれて みたのは いつの ひか
という部分。さて、どんな裏話があるのだろうか…。


(「捕まえてごらん」と言われてるようだったので…)

三木露風が作詞したのが1921(大正10)年、露風32歳。山田耕筰が作曲したのは、6年後の1927(昭和2)年。レコードになったのが、さらに4年後の1931(昭和6)年。しかし売れなかったのである。売れない理由もちゃんとあった。
突然だけれど「夢」という言葉を声に出して発音してみて欲しい。「ゆ」よりも「め」のほうが高い音で発するのが普通のアクセント。音楽になっても一緒で当時は「ゆ」より「め」のほうが高い音を使うのが普通とされており、それがヒット作を生み出す手法のひとつだとされていた。ところが、この「赤とんぼ」は珍しくアクセント完全無視の曲であったということ。
 ♪ こかごに つんだは まぼろしか
の「つんだ」「まぼろし」が逆。通常、話し言葉では「つんだ」「まぼろし」は「つ」と「ぼ」にアクセントがある。しかし曲では「つ」「ま」にアクセントがつけられている。その他にもアンバランスがたくさん存在している。今一度、話し言葉のアクセントと曲の音の高低を考えながら検証していただければわかると思う。それが、売れなかった最大の理由ということだ。


(「寄りすぎだろ!」って言われそう…)

この曲が突然クローズアップされたのは映画がきっかけ。松竹映画「ここに泉あり」は、その年の人気ベストテンで5位に選ばれたヒット作品。その映画の感動を覚えずにはいられないシーンで子供たちが歌っていたのがきっかけとなる。また外国曲に日本語の歌詞をつけた歌も増えてきたので、いつの間にかアクセントの違いなどはあまり問題視されなくなったという背景も手伝っているという。
ドラマからヒット曲が誕生する先駆けだといえる。で、ヒットするようになってから、「この歌のある部分の歌詞が不思議だ」という議論がされるようになった。
その部分とは、
 ♪ おわれて みたのは いつの ひか
というところの「おわれて」である。最近は「追われて」と勘違いされているようだけれど、正しくは「負われて」。で、誰の背中に負われて赤とんぼを見たのか…ということが議論されるようになった。結論から言うと「ねえや」。「ねえや」とは当時、女中さんとよばれた子守奉公の女の子のことで子守娘のこと。
「私の作った童謡『赤とんぼ』は、なつかしい心持から書いた。ふりかえってみて、幼い時の自己をいとおしむという気持ちであった。私の子守娘が、私を背負って広場で遊んでいた。その時、私が背の上で見たのが赤とんぼである」と1937(昭和12)年に日本蓄音器商会から発行された『日本童謡全集』に記されていたという。


(コスモスを背景にキレイに…)

と、なれば母がまだ若い頃から「ねえや」がいた裕福な家庭だったのか…イヤイヤ、露風の父は裕福に育った影響からか、自由奔放で身持ちが悪く、露風の母を実家に戻した後すぐに後妻を迎え、弟も生まれているという。そういう環境に露風は育っている。一番母親が恋しい時代に引き裂かれた露風にとって、「ねえや」が母親代わり。母への思慕、そして母を思い悲しむ胸のうちがこの童謡をつくり上げ、映画をきっかけに日本の名曲へと育っていった。
 ♪ ゆうやけ こやけの あかとんぼ
どこかに憂いがあって、どこかに悲しい響きがある『赤とんぼ』。子の母への思慕がその根底にあったということではないだろうか…今京都。 ※写真は京都の風景で本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第2弾「里の秋」はここ(←クリック)


 

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今京都 瀬戸際 2009/03/08 12:00 am

とぎわ…物事の勝敗や成否などの、重大な分かれ目。運命の分かれ目。
◇ちょっと予備知識 → 「瀬戸」は狭い海峡。瀬戸と海との境界のことから。
                類義語に境目(さかいめ)・鍔際(つばぎわ)・先途(せんど)・
                土俵際(どひょうぎわ)がある。





(カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4)

和み、癒し、どの言葉も当てはまると思うよ、羅漢さん。見ているとイヤなことを忘れさせ、心優しくなれるような気がする…今京都。

蔵物語(247)



道ばたに安置されているお地蔵さん。お地蔵さんの宝庫だ…今京都。


 

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今京都 赤裸裸 2009/03/07 12:00 am

きらら…包み隠しのないこと。ありのまま。
◇ちょっと予備知識 → 「赤」は、裸、むき出しのこと。何もみにつけていない丸裸ということから。
                類義語に露骨(ろこつ)・暴露(ばくろ)・裸出(らしゅつ)がある。
                対義語は隠蔽(いんぺい)・婉曲(えんきょく)。


の秋(童謡物語第2弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年10月12日掲載)

「里の秋」
作詞:斉藤信夫 作曲:海沼 実

静かな 静かな 里の秋 お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただふたり 栗の実煮てます いろりばた

あかるい あかるい 星の空 鳴き鳴き夜鴨の わたる夜は
ああ父さんの あの笑顔 栗の実食べては 思い出す

さよなら さよなら 椰子の島 おふねにゆられて 帰られる
ああ父さんよ ごぶじでと 今夜も母さんと 祈ります

この「里の秋」、最初は故郷を思い出す秋の景色の童謡として作られたのではなく、背景には第二次世界大戦の暗く悲しいドラマが潜んでいる。この歌がはじめて放送で発表されたのは戦争が終わった年の1945(昭和20)年の12月24日。この日の午後1時、南方で戦っていた兵士の引き揚げ第一便が浦賀港に入港することを祝してNHKが特別番組を放送するという中での一回きりの放送だけに作られた。



1945(昭和20)年8月15日、敗戦。日本人は希望も夢も、そして食べるものもなく、焦土に立ちすくむ。9日前には広島に、6日前には長崎に原子爆弾が落とされ多くの尊い命が一瞬にしてはかなく消えた。そんな中で兵士の引き揚げ船が日本に着くというニュースは忘れかけていたひとつの明るさの象徴だった。大勢の出迎えの人々が浦賀港の埠頭をうめつくし、この感動の場面の放送の中で歌われた。



戦地から運良く帰ってきた人たち、船がつくたび迎えに行っても帰らぬ人たち…。
 ♪ おふねにゆられて 帰られる …
その頃はまだ、戦地から父や夫、兄弟、息子たちが帰っていない家族がたくさんいた。その中には結婚を約束した恋人を待つ人もいた。
 ♪ ああ父さんの あの笑顔 栗の実食べては 思い出す …
人々は、それぞれの境遇に照らし合わせながら、この歌を聞きおのおの涙を流した。そこは悲しみと喜び両方のドラマがいつも生まれたに違いない。童謡「里の秋」にはこういう背景があったといわれている。



この説が正しいかどうかはわからない。けれど、夫の戦死の報が届いて、やむなく他の人と結婚した後に夫が帰り着いたという例、父も母も身寄りも亡くした子が人身売買された例、食べる物すらなく代わりに自分の身体を売る夜の女に変貌していった人の例。これらは事実であり、その事実は全て戦争が生み出した悲劇といえる。
戦争は全てを狂わせ、全てを失わせる。戦争を知らない子供たちの世代になっても、こんな悲しい童謡を二度とふたたび、子供たちに歌わせないためにも、戦争がいかに無意味でつまらないものかを決して忘れてはいけないと思う。しかし、世界のどこかで今でも争いは絶えていない…今京都。 ※写真は京都府南丹市美山町の「茅葺きの里」(2007年撮影)で本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第1弾「七つの子」はここ(←クリック)


 

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