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rrbのブログ - 2009/02のエントリ

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今京都 四天王 2009/02/28 12:00 am

てんのう…ある部門において、特に優れている四人。また、家臣や部下の中で最も優秀な四人。
◇ちょっと予備知識 → 仏教語で、帝釈天に仕えて仏法を守る四神の総称。
                類義語に三羽烏(さんばがらす)がある。


れしいひなまつり(童謡物語第14弾) vol.1

サトウハチロー作詞・河村光陽作曲

あかりをつけましょ ぼんぼりに  お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓  今日はたのしい ひな祭り

お内裏様と おひな様  二人ならんで すまし顔
お嫁にいらした 姉様に  よく似た官女(かんじょ)の 白い顔

金のびょうぶに うつる灯を  かすかにゆする 春の風
すこし白酒 めされたか  あかいお顔の 右大臣

着物をきかえて 帯しめて  今日はわたしも はれ姿
春のやよいの このよき日  なによりうれしい ひな祭り


3月3日は桃の節句。女の子の成長を祝うひな祭り。日本的行事のこの日、今でも必ず歌われている童謡が「うれしいひなまつり」。お琴の演奏曲としても知られ、海外でも日本の代表的な曲として有名な歌。でも諸外国では「うれしい」はずが、なぜか「悲しいみなしごの歌」という題名になっている。確かに「うれしい」というよりは、「悲しい」と思える曲であり、歌詞でもある。
2番に出てくる
 ♪ お嫁にいらした 姉様に
なぜ身内に対して、敬語の「いらした」が使われているのか。それにこの「いらした」をよくよく考えると、「いらした」は「行く」の尊敬語でもあり「来る」の尊敬語でもあるから、白い顔の官女に似ているお姉さんは、果たして他家に嫁いでいったのだろうか、それともこの家に嫁いで来たのだろうか。「いらした」ならどちらでもとれてしまう。



歌の謎解きの前に、ひな祭りのルーツを探ってみる。現在のひな祭りといえば、ひな人形を飾り、白酒、甘酒を召し、ひし餅にはまぐりのお吸い物などを食べてお祝いしている。しかし、実はこのひな祭りというもの、裸になって水浴びをする風習からはじまった。これは昔、まだ風呂がない時代のこと。春の終わりに川や海の水につかって冬の間の汚れた垢を落とす習慣があった。身体をキレイにすることにより、罪穢れも清められるとされていた。



3月3日に水浴びでは、いくら垢がたまっていても寒すぎないか。イヤ、旧暦の3月3日は今の4月の終わりから5月の初め、つまりゴールデンウィーク時期ということになるからまぁ大丈夫か。
家族や親戚縁者が集い、水浴びをした後に、その年の健康や幸福を祈りながら、貝を拾ったり、花をめでたり、ごちそうや酒を飲む行事がひらかれていた。そして、それらが潮干狩りや花見などになっていった。
平安王朝時代になると、水浴びの風習がすたれ、代わりに人形に穢れをつけて水に流すようになった。「流しびいな」とよばれるものである。



「びいな」とは、紙などで作った人形のこと。後に「ひな」となり、「ひな人形」となる。それとともに、貴族の間では、贅沢な人形を飾る「ひいな遊び」が流行りだす。これが公家から武家、さらに江戸時代になると庶民の間でも人形が飾られるようになっていった。だからもともとは女の子に限らず、誰もが行う水浴びの習慣が、いつの間にか人形を飾ることにより、女の子をいとおしんで育てようという心を教えた祭りに変貌を遂げたのだった。それと同時に中国の行事にならって、徳川幕府がいわゆる「五節句」を定めた。1月7日を人日(じんじつ)とよばれる「七草の節句」、5月5日が端午、「菖蒲の節句」、さらに7月7日が七夕(しちせき)の「七夕祭」で、9月9日は重陽(ちょうよう)こと「菊の節句」とした。そして3月3日が上巳(じょうし)、「桃の節句」となったのである…今京都。(次回 2009年3月3日に続く) ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第13弾「お猿のかごや」はここ (←クリック)


 

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今京都 試金石 2009/02/26 12:00 am

きんせき…そのものの価値や、人物の才能などを判断するために試してみる物事。
◇ちょっと予備知識 → もとは貴金属をこすりつけて純度を判定した硬い石。
                類義語に瀬踏(せぶみ)がある。


もじい  (旧フォトヴィレッジ 2007年9月9日掲載)
現在の日本においては「ひもじい」なんて言葉はもう死語かも知れないと思われるほど飽食社会。しかし、100年に一度といわれる不況のさなか、再び使われるようになるかも知れない、とは勝手な想像か。



『日葡辞書』に「ひもじ」は収められている。それによると「空腹である。これは女ことばである」とされている。「ひもじ」は、鮒のことを「ふもじ」、髪のことを「かもじ」、御鮨を「すもじ、おすもじ」、杓子を「しゃもじ」などといった「御所ことば」のひとつであるという。言葉の上一字に「文字(もじ)」という語をつける「御所ことば」は他にもある。烏賊(いか)は「いもじ」、海老は「えもじ」、蛸は「たもじ」、にんにくは「にもじ」。しかし、ニラはなぜか「にもじ」とならず「ふたもじ」、さらに、ネギは「ねもじ」とならず「ひともじ」、蕎麦は「そもじ」、帯は「おもじ」、我は「わもじ」、そなたは「そもじ」、娘は「ごもじ」といった具合。まるで暗号のような言葉だけれど、そもそも「御所ことば」というものは室町時代の初期に宮中御所の女房たちの間で発生した。南北朝時代の頃から公家社会と庶民の間に接触する機会が多くなり、庶民の口にする食べ物が貴族階級の食膳にものぼるようになってきた。そこで女房たちは庶民の用いる名称をさけて、隠語的婉曲的な性格をもつ「御所ことば」を形成していったという。



15世紀のはじめには、「御所ことば」は宮中だけでなく室町御所、つまり足利将軍家でも使用されるようになる。御所ことばは日常生活に密着した食べ物、身の回りのものをさす言葉が多い。その中で空腹という状態を表す「ひもじ」は、どちらかといえば異質な「御所ことば」といえる。恥ずかしいは「はもじ」、心配は「しんもじ」、急ぐことを「いそもじ」、お目にかかることを「おめもじ」など。



「ひもじ」のもとの言葉は「ひだるい」であった。この最初の「ひ」一字に「文字」をつけて「ひもじ」。末尾の「い」はのちに形容詞的につけられたということ。「ひもじと言ふ事は強い武士の謂はぬ事」とは、近松門左衛門の浄瑠璃の一節。まさに「武士は食わねど高楊枝」の心境である。武家社会のなかで、メンツに生きる男性社会。いっぽう、ひもじいときはひもじいのだと、御所のなかで隠語めいて「ひもじ」という言葉を語り合った女房たち。ここにもタテマエを重んじる男とホンネで生きる女の好対照ぶりが見えそうね。



この隠語めいた言葉は現在の高校生の間で案外流行るかも知れないと思う。形は違うがギャル文字やら絵文字がその隠語に通じるものがあるからね。意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.10(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
★前回の京が語源「あいづちを打つ」はここ(←クリック)
★旧フォトヴィレッジで掲載した「京が語源」はここまでで、vol.11「らちがあく」へとつながる。


 

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今京都 三羽烏 2009/02/24 12:00 am

んばがらす…ある集団や部門において、特に優れている三人の部下や弟子などのこと。
◇ちょっと予備知識 → 「烏」を「鳥」と書くのは誤り。
                類義語に四天王(してんのう)がある。


いづちを打つ  (旧フォトヴィレッジ 2007年8月24日掲載)
暫時(しばし)もやまずに 槌(つち)うつ響(ひびき)
飛び散る火の花、はしる湯玉(ゆだま)
鞴(ふいご)の風さえ 息をも継(つ)がず
仕事に精出す 村の鍛冶屋(かじや)



これは作詞作曲不詳/文部省唱歌(4年)「村の鍛冶屋(かじや)」の1番。
「あいづちを打つ」。この語源は鍛冶用語にある。あいづちとは「相槌」のことで、鍛冶で師と弟子が向かい合ってトンカンと互いに打つ槌のこと。そこから転じて、今では「相手の言葉に同意のしるしを表してうなづく。相手の話に調子を合わせる」といった意味に使われる。心の底から同意して「あいづちを打つ」場合はいいが、適当に「あいづちを打つ」こともしばしばあり、千年前に活躍した京の刀鍛冶たちが聞いたら、さぞかし嘆くだろう。



平安時代中ごろ、京に三条小鍛冶宗近という有名な刀鍛冶がいた。一説には藤原兼家に仕えたが、人を討とうとして薩摩に流され、そこで鍛冶を学んだという。許されて京に戻ったのち三条粟田口に住み、刀鍛冶宗近として知られるようになった。宗近は刀の焼き入れに伏見稲荷山の土を用い、そのたびに伏見稲荷に祈っていた。一条天皇即位の作刀中に稲荷明神が宗近を助け、名刀「小狐丸(こぎつねまる)」ができあがったという伝説がある。やがてこの伝説は謡曲「小鍛冶」となって、名工宗近の名を全国に広めた。謡曲「小鍛冶」では、天皇の剣づくりを「をりふし相槌打つべき者のなく候」と断ろうとするが、それもかなわず、伏見稲荷にひたすら祈ったところ、稲荷の化身である弟子が現れて相槌を打ちはじめる。その絶妙の相槌のおかげで完成した名刀に宗近は表に「小鍛冶宗近」と銘を刻み、裏には「小狐」と刻んで、ここに天下に誇る二つ銘の名刀「小狐丸」が誕生した。
というもの。


(上の鳥居のトンネルを進むと…)

実はこの謡曲はフィクションでもなさそうだ。安易に直結すべきではないと思うけれど、京の三条粟田口に「合鎚稲荷大明神」なる神社が実在する。粟田神社から三条通を渡った北側、三条通に面して赤い鳥居が並ぶ参道がある。それをくぐって民家の玄関先を抜けていくと、路地奥にその神社はひっそりと建っている。ここに、宗近の相槌を打った稲荷明神が祀られているという。


(普通の路地となったが…)

三条粟田口には「粟田口鍛冶町」という町名が今も残る。この地に三条小鍛冶宗近が住み、宗近以後も
代々名工を輩出、「三条鍛冶」と呼ばれる刀鍛冶集団を形成。そして京の刀鍛冶のもう一方の雄「粟田口鍛冶」とともに日夜相槌の音を響かせた。



三条小鍛冶宗近といえば、もうひとつ忘れてはならないことがある。京都祇園祭の長刀鉾の初代長刀が彼の作だということ。知恩院三門の石段下右側に「小鍛冶の井」がある。宗近はここで長刀を鍛え、祇園社に奉納したと伝えられている。


(路地をさらに進むと…)

粟田神社の東、佛光寺には「三条小鍛冶宗近之古跡」の碑が建っている。その他、平安時代の刀匠・宗近ゆかりの地は京には豊富にある。鍛冶用語に語源をもつ言葉は他にも多い。「焼きを入れる」「焼きが回る」「鍛錬」など。昔は鍛冶仕事が、それほど身近で、ものづくりの根幹を成したということだ。


(社が現れた)

祇園祭で祇園囃子の「コンコン、チキチン、コン、チキチン…」が長刀鉾の初代長刀を作成した宗近と稲荷明神との絶妙の相槌を表現しているように聞こえかもしれない。意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.9(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は合鎚稲荷大明神。
★前回の京が語源「お開きにする」はここ(←クリック)


 

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今京都 匙加減 2009/02/22 12:00 am

じかげん…薬剤の調合の加減。また、状況に応じて調整すること。様子を見て配慮すること。
◇ちょっと予備知識 → もとは、薬を調合する際に、匙に盛る薬の量を加減することから。
                類義語に手加減(てかげん)・按配(あんばい)・手心(てごころ)・斟酌(しんしゃく)・
                酌量(しゃくりょう)がある。






この羅漢さんは天邪鬼!? いえいえ、作った人が天邪鬼なのでしょう。羅漢さんの「ワシだけひっくりかえっててかなんよ」という声が聞こえてきそうだ。しかし、どこか楽しんでいる様子にも見える。羅漢さんは本当に不思議な存在…今京都。


蔵物語(245)



家の周辺が妙にスッキリしている。ちょっとキレイすぎるとも思うが、たまにはこういうのもいいか…今京都。


 

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今京都 金輪際 2009/02/21 12:00 am

んりんざい…絶対に。断じて。どこまでも。
◇ちょっと予備知識 → 仏教で「金輪」は、この世を支える地下にある輪の一つのこと。
                後ろに打ち消しのことばを補って使い、強い決意や確信を表す。
                関連記事はここ(←クリック)


開きにする  (旧フォトヴィレッジ 2007年8月12日掲載)
宴会とか披露宴とかで終わることを意味する「お開きにする」。この言葉は「平安朝時代の末期から発生した武士の生活」から発生しているという。当時の都は京都、王朝文化に陰りがさしはじめたとはいえ、まだまだ京都を中心にした時代であったのには間違いない。



貴族社会から次第に武家社会に移り変わりはじめると、武士の生活の中では、さまざまな序列や格式を重んじる言葉を使ったり、忌み言葉を避けるような習慣が生まれてきた。おんな社会であった王朝に対して、武家社会は男性的発想が支配する。例えば、目上の将の立派な鎧を褒める言葉でも、大将に向っては「御威勢(ごいせい)にございます」。もう一方の将に対しては「御壮(おさか)んでございます」。さらに士には「御勇(おいさま)しうございます」。というように、相手との関係・立場・格式などに細かく配慮を行き届かせた。切腹の場合は「見事に切腹なされました」といい、討ち死にの場合は「立派に討ち死になされました」という。



武士にとって、逃げることは屈辱。しかし戦況によっては、いったん引いたり退いたりする作戦もとらねばならない。そこで戦場において味方が不利なため逃げることを「延びる」といい、退去することを「開く」と言い換えたそうだ。この「延びる」は「逃げ延びる」という言葉に通じるという。本題の「お開きにする」は退去する、退散するの隠語だということ。しかも、平安末期から延々と使用されていた言葉。婚礼の儀式や宴席などでは「終わる」「帰る」という言葉が縁起が悪いとして嫌われ、すなわち忌み言葉となって「お開きにする」といわれるようになったとのこと。「お開きにする」は耳に優しく、雰囲気にぴったりの言葉だから、やがて結婚式に限らず、多くの人が集まる席での解散を意味するようになった。



平安末期の武士たちがつくった言葉はまだ他にもある。祝いのしるしとして戦場に旗を立てる場合、味方の旗は「立てる」というが、敵軍の旗は「なびく」という。陣幕は、味方の幕を「張る」といい、敵陣の幕は「ひく」と呼んだそうだ。死を賭けた戦場で、縁起を担ぎたくなる気持ちはよくわかる。平安末期時代といえば日本にひらがなやカタカナが生まれたころ。そのような古い時代に、現在何気なく使っている言葉の基が築かれた。意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.8(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
★前回の京が語源「やたら」はここ(←クリック)


 

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