rrbのブログ - 2009/03/28のエントリ
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桃源郷2009/03/28 12:00 am
とうげんきょう…俗世を離れた別天地。理想郷のこと。
◇ちょっと予備知識 → 中国の詩人の陶淵明が書いた「桃花源記」の中に出てくる理想郷から。「桃源」も同意。
類義語に仙境(せんきょう)・桃花源(とうかげん)・仙界(せんかい)・
武陵桃源(ぶりょうとうげん)がある。
平年より気温が低いこの寒さは、天気予報によると4月の上旬まで続くということだ。一気に満開かと思われた桜も少し足踏み状態になるかも知れない。自然の力とは不思議なもので、なんやかんやといいながらも、平年通りの日程になるようになっているのかしら…とも思う。こういうことを体験すると、地球温暖化の事態を正常に戻そうと地球が一生懸命頑張って呼吸をしているように感じる。
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
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せいくらべ(童謡物語第11弾) (旧フォトヴィレッジ 2007年6月7日掲載)
「せいくらべ」
作詞:海野 厚 作曲:中山晋平
柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ
ちまきたべたべ 兄さんが はかってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何のこと やっと羽織の 紐のたけ
柱にもたれりゃ すぐ見える 遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして てんでに背伸していても
雪の帽子を ぬいでさえ 一はやっぱり 富士の山
小さい頃、5月5日がやってくると、なんとなく柱にもたれて背を測りたくなったのでは? 今ではマンション暮らしの子供たちも多くなったから、引っ越すときに柱に傷なんかついてたら大変と、この光景はあまり見られなくなったかも。第一、傷をつける柱がなかったりして。でも風情というか、お兄ちゃんが弟や妹の背を測ってあげるこの童謡は、どこか故郷を感じさせ、「あの時代」にタイムスリップさせてくれる要素を含んでいるような気がする。この童謡も謎がある。それは冒頭の詩。
♪ 柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ
どうして「おととし」で「去年」ではないのか? そこには、病と闘った兄の悲しみがあった。

この童謡を作詞した海野厚(うんのあつし)は、1896(明治29)年8月12日に、静岡県静岡市の曲金で生まれた。7人兄弟の長男坊。厚が育った屋敷は2000坪もあった。その広大な敷地の隣は、海野家の分家である新家があり、そこが1000坪。さらにその隣に1000坪の新宅があったというから驚き。この一帯は海野家一族で占められていたことになるね。海野家の墓を弔う法蔵寺がすぐ前に建っており、その隣が厚たちが通った西豊田小学校。そこには、この歌の碑が建ち、学校の体育館の入り口には厚の顔と「せいくらべ」の歌詩が書かれたおおきな絵も掲げられているという。さらにここから日本一の富士山が見えるというから、
♪ 雪の帽子を ぬいでさえ 一はやっぱり 富士の山
は、厚の実体験から書かれていたといえる。厚はこの小学校から静岡中学校に進み、さらに可愛い弟妹たちを残して上京、その後早稲田大学へ入学する。当初俳人志望であったが、その後童謡作家へと変貌を遂げる。童謡集「子供達の歌」の第3集にこの詩と曲が発表されたのは1923(大正12)年5月のことだった。
♪ ちまきたべたべ
弟妹たちの背を測ってやっていた頃を思い出しながら、この詩を綴ったことになっている。「ちまき」とは、5月5日に食べるもち米粉、うるち米粉、くず粉などでつくったもちのこと。この「ちまき」をどうして端午の節句に食べるかというと、5月5日に中国湖南省北東部の川、汨羅河(べきらこう)に身を投げた英雄、屈原(くつげん)の霊を慰めるためである。投身後に屈原の姉が弟を弔うために川になげたのが「ちまき」だった。そのため「ちまき」には霊を慰める力、霊を祀る力があると信じられてきた。屈原の一件から5月には悪霊の仕業で亡くなる人が多いとか、5月に生まれてくる子供は悪霊に取り憑かれるとか考えられていた。5月生まれの子が無事に育つようにという願いから、5月5日に「ちまき」を食べるようになった。

東京に出て「子供達の歌」を発刊するかたわら、厚はたびたび故郷に帰っていた。
♪ ちまきたべたべ
弟妹たちの背を測ってやっていたといわれる。しかし、去年は帰ってやれなかった。だから、
♪ 柱のきずは おととしの
ままなのである。厚は東京で肺結核を患った。肺結核は今ではすぐに完治する病気であるが、当時はまだ空気感染する不治の病だった。幼い弟たちに移すわけにはいかないと厚はひとり東京で静養。だからこそ、
♪ 柱のきずは
おととしのままだ。去年は帰りたくても帰れなかった。しかし、厚は二度と弟たちの背を測ることはなかった。翌年、故郷に帰ることなくこの世を去った…という裏話がまことしやかに囁かれている。
が、真実は。

この「せいくらべ」は1923(大正12)年に発表される4年も前の1919(大正8)年に既に書かれていた記録があり、この詩をつくった翌年に海野厚は死んだということが当てはまらないのである。実は、俳句の師である渡辺水巴の父で花鳥画家として有名だった渡辺省亭が重体となり、4月初旬に他界。厚は省亭を恩師の父として崇め、「大先生」と呼んでいたほど。その大先生の追悼句会が5月5日に開かれ、それに参加していた。つまり去年の5月5日は肺結核のために帰郷できなかったのではないということである。な〜んだと思われるかも知れないけれど、どうもこれが真実。では、この童謡には本当は何が隠されているのか。厚は早稲田大学に入って、しばらくしてから、肺結核にかかった。この病気は、ゆっくりと病状が進行していく。すぐにどうこういう病気ではない。最初から寝たきりになるわけでもないし、気分がよければ仕事だってできる。それならば、なぜ4年前に書いた「せいくらべ」をこの時季に『子供達の歌』に引っ張りだしたのか。わざわざ古い作品を載せる必要がどこにあったのだろうか。

1923(大正12)年、厚の病状は相当進んでいたようである。実はこのときになって、やっと、
♪ 柱にもたれりゃ すぐ見える
の2番の詩を書き足したのである。4年前に書いた「せいくらべ」は1番だけのものだった。厚は小さい頃を思い出していた。今の寝ているだけの生活、人生を狂わせた病い。厚は淋しかった。そんな時に「2番の歌詩をつけろ」と仲間の中山晋平が厚に言い放った。晋平の目には気弱になっていく天才詩人が、病に侵されていく様を見ていられなかったのである。どうしたら厚を励ましてあげられるだろうか、どうしたら親兄弟が喜ぶだろうか…晋平は考えた。
当時売れっ子作曲家の晋平が、この詩に曲をつけてレコードにすることで励まそうとした。レコードにするには1番の詩だけでは短い。2番の歌詩が必要なのである。「厚、気力を持って2番の歌詩をつくれ」と、晋平は海野厚という将来有望な友人を失いたくなかった。気力で病気を吹き飛ばしてほしかった。厚の失いかけていた生きる望みが輝いてきた。「詩を書こう。もっと書こう」と、厚は、渾身の力を振り絞って病気に打ち克とうとした。黙々と詩を書き続ける。美しい詩ばかりだった。けれど、もう書けなかった。書こうとする気力はあるのだけれど、病魔がそれを許さなかった。

窓の外では子供たちが歌っている
♪ 柱のきずは おととしの
1925(大正14)年5月20日、昭和という時代を見ることもなく天才・海野厚は逝った。わずか28歳のあまりにも短い生涯。5月は人が死ぬ月。だから「ちまき」を食べなくてはいけなかったはずなのに…海野厚は逝った。仲間の晋平の願いもむなしく…海野厚は逝った。この詩の裏には熱い友達・仲間思いの気持ちとそれに応えようとする熱い思いが隠されていたのである。いつの時代でも「友情」とはいいものだ。しかし、平成の今の時代に「友情」を大切にしている子どもたちは本当にいるのだろうか…今京都。 ※写真はEPSON R-D1sで撮った京都東山花灯路2009の光景で本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第10弾「オウマ」はここ(←クリック)
★旧フォトヴィレッジで掲載した「童謡物語」はここまでで、通りゃんせ(童謡物語第12弾)へとつながる。

◇ちょっと予備知識 → 中国の詩人の陶淵明が書いた「桃花源記」の中に出てくる理想郷から。「桃源」も同意。
類義語に仙境(せんきょう)・桃花源(とうかげん)・仙界(せんかい)・
武陵桃源(ぶりょうとうげん)がある。
平年より気温が低いこの寒さは、天気予報によると4月の上旬まで続くということだ。一気に満開かと思われた桜も少し足踏み状態になるかも知れない。自然の力とは不思議なもので、なんやかんやといいながらも、平年通りの日程になるようになっているのかしら…とも思う。こういうことを体験すると、地球温暖化の事態を正常に戻そうと地球が一生懸命頑張って呼吸をしているように感じる。
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せいくらべ(童謡物語第11弾) (旧フォトヴィレッジ 2007年6月7日掲載)
「せいくらべ」
作詞:海野 厚 作曲:中山晋平
柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ
ちまきたべたべ 兄さんが はかってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何のこと やっと羽織の 紐のたけ
柱にもたれりゃ すぐ見える 遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして てんでに背伸していても
雪の帽子を ぬいでさえ 一はやっぱり 富士の山
小さい頃、5月5日がやってくると、なんとなく柱にもたれて背を測りたくなったのでは? 今ではマンション暮らしの子供たちも多くなったから、引っ越すときに柱に傷なんかついてたら大変と、この光景はあまり見られなくなったかも。第一、傷をつける柱がなかったりして。でも風情というか、お兄ちゃんが弟や妹の背を測ってあげるこの童謡は、どこか故郷を感じさせ、「あの時代」にタイムスリップさせてくれる要素を含んでいるような気がする。この童謡も謎がある。それは冒頭の詩。
♪ 柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ
どうして「おととし」で「去年」ではないのか? そこには、病と闘った兄の悲しみがあった。

この童謡を作詞した海野厚(うんのあつし)は、1896(明治29)年8月12日に、静岡県静岡市の曲金で生まれた。7人兄弟の長男坊。厚が育った屋敷は2000坪もあった。その広大な敷地の隣は、海野家の分家である新家があり、そこが1000坪。さらにその隣に1000坪の新宅があったというから驚き。この一帯は海野家一族で占められていたことになるね。海野家の墓を弔う法蔵寺がすぐ前に建っており、その隣が厚たちが通った西豊田小学校。そこには、この歌の碑が建ち、学校の体育館の入り口には厚の顔と「せいくらべ」の歌詩が書かれたおおきな絵も掲げられているという。さらにここから日本一の富士山が見えるというから、
♪ 雪の帽子を ぬいでさえ 一はやっぱり 富士の山
は、厚の実体験から書かれていたといえる。厚はこの小学校から静岡中学校に進み、さらに可愛い弟妹たちを残して上京、その後早稲田大学へ入学する。当初俳人志望であったが、その後童謡作家へと変貌を遂げる。童謡集「子供達の歌」の第3集にこの詩と曲が発表されたのは1923(大正12)年5月のことだった。
♪ ちまきたべたべ
弟妹たちの背を測ってやっていた頃を思い出しながら、この詩を綴ったことになっている。「ちまき」とは、5月5日に食べるもち米粉、うるち米粉、くず粉などでつくったもちのこと。この「ちまき」をどうして端午の節句に食べるかというと、5月5日に中国湖南省北東部の川、汨羅河(べきらこう)に身を投げた英雄、屈原(くつげん)の霊を慰めるためである。投身後に屈原の姉が弟を弔うために川になげたのが「ちまき」だった。そのため「ちまき」には霊を慰める力、霊を祀る力があると信じられてきた。屈原の一件から5月には悪霊の仕業で亡くなる人が多いとか、5月に生まれてくる子供は悪霊に取り憑かれるとか考えられていた。5月生まれの子が無事に育つようにという願いから、5月5日に「ちまき」を食べるようになった。

東京に出て「子供達の歌」を発刊するかたわら、厚はたびたび故郷に帰っていた。
♪ ちまきたべたべ
弟妹たちの背を測ってやっていたといわれる。しかし、去年は帰ってやれなかった。だから、
♪ 柱のきずは おととしの
ままなのである。厚は東京で肺結核を患った。肺結核は今ではすぐに完治する病気であるが、当時はまだ空気感染する不治の病だった。幼い弟たちに移すわけにはいかないと厚はひとり東京で静養。だからこそ、
♪ 柱のきずは
おととしのままだ。去年は帰りたくても帰れなかった。しかし、厚は二度と弟たちの背を測ることはなかった。翌年、故郷に帰ることなくこの世を去った…という裏話がまことしやかに囁かれている。
が、真実は。

この「せいくらべ」は1923(大正12)年に発表される4年も前の1919(大正8)年に既に書かれていた記録があり、この詩をつくった翌年に海野厚は死んだということが当てはまらないのである。実は、俳句の師である渡辺水巴の父で花鳥画家として有名だった渡辺省亭が重体となり、4月初旬に他界。厚は省亭を恩師の父として崇め、「大先生」と呼んでいたほど。その大先生の追悼句会が5月5日に開かれ、それに参加していた。つまり去年の5月5日は肺結核のために帰郷できなかったのではないということである。な〜んだと思われるかも知れないけれど、どうもこれが真実。では、この童謡には本当は何が隠されているのか。厚は早稲田大学に入って、しばらくしてから、肺結核にかかった。この病気は、ゆっくりと病状が進行していく。すぐにどうこういう病気ではない。最初から寝たきりになるわけでもないし、気分がよければ仕事だってできる。それならば、なぜ4年前に書いた「せいくらべ」をこの時季に『子供達の歌』に引っ張りだしたのか。わざわざ古い作品を載せる必要がどこにあったのだろうか。

1923(大正12)年、厚の病状は相当進んでいたようである。実はこのときになって、やっと、
♪ 柱にもたれりゃ すぐ見える
の2番の詩を書き足したのである。4年前に書いた「せいくらべ」は1番だけのものだった。厚は小さい頃を思い出していた。今の寝ているだけの生活、人生を狂わせた病い。厚は淋しかった。そんな時に「2番の歌詩をつけろ」と仲間の中山晋平が厚に言い放った。晋平の目には気弱になっていく天才詩人が、病に侵されていく様を見ていられなかったのである。どうしたら厚を励ましてあげられるだろうか、どうしたら親兄弟が喜ぶだろうか…晋平は考えた。
当時売れっ子作曲家の晋平が、この詩に曲をつけてレコードにすることで励まそうとした。レコードにするには1番の詩だけでは短い。2番の歌詩が必要なのである。「厚、気力を持って2番の歌詩をつくれ」と、晋平は海野厚という将来有望な友人を失いたくなかった。気力で病気を吹き飛ばしてほしかった。厚の失いかけていた生きる望みが輝いてきた。「詩を書こう。もっと書こう」と、厚は、渾身の力を振り絞って病気に打ち克とうとした。黙々と詩を書き続ける。美しい詩ばかりだった。けれど、もう書けなかった。書こうとする気力はあるのだけれど、病魔がそれを許さなかった。

窓の外では子供たちが歌っている
♪ 柱のきずは おととしの
1925(大正14)年5月20日、昭和という時代を見ることもなく天才・海野厚は逝った。わずか28歳のあまりにも短い生涯。5月は人が死ぬ月。だから「ちまき」を食べなくてはいけなかったはずなのに…海野厚は逝った。仲間の晋平の願いもむなしく…海野厚は逝った。この詩の裏には熱い友達・仲間思いの気持ちとそれに応えようとする熱い思いが隠されていたのである。いつの時代でも「友情」とはいいものだ。しかし、平成の今の時代に「友情」を大切にしている子どもたちは本当にいるのだろうか…今京都。 ※写真はEPSON R-D1sで撮った京都東山花灯路2009の光景で本文とは関係ないのであしからず。
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