rrbのブログ - 2009/03/26のエントリ
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鉄面皮2009/03/26 12:00 am
てつめんぴ…恥を恥とも思わない人。また、非常に厚かましいこと。
◇ちょっと予備知識 → 面の皮が鉄のように硬い、というたとえ。
類義語に厚顔無恥(こうがんむち)がある。
対義語は臆面(おくめん)。
街に羽織袴姿やスーツ姿を最近見かける…と思ったら、卒業のシーズンだった。4月から勤める人、進学する人、様々に母校を飛び出していく。社会人となる人は今までに培った学問・知識以外に「知恵」が必要となる。学生の時のように、「試験に合格し単位を取得する」というような、はっきりと形に見える目的がなくなるのが社会人。「成果をあげて当り前」「できて当り前」の世界が社会だ。知識や学問は学校で学ぶことができるが、知恵は自分で開発するしかない。知恵を開発する一番の方法は、その仕事を好きになること。その仕事が好きになれば工夫をするようになる。工夫をすれば自ずと成果があがる。成果があがればさらにその仕事が好きになる。こんな言葉が「ふっ」と思い出された。
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
ソーダ村…の情報を募集しています。詳細はここ(←クリック) よろしくお願いします。
オウマ(童謡物語第10弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年12月15日掲載)
「オウマ」
作詞:林 柳波 作曲:松島彜(津根)
オウマノ オヤコハ ナカヨシ コヨシ
イツデモ イッショニ ポックリ ポックリ アルク
オウマノ カアサン ヤサシイ カアサン
コウマヲ ミナガラ ポックリ ポックリ アルク
現在も子供たちが大好きな「オウマ」。えっ…大人も大好きだって!? それは「各馬ゲートインから一斉にスタート。第一コーナーを…」のお馬でしょ。ここでいう「オウマ」は童謡のこと。
さて、本題。この歌は最初、題名も歌詞も全部カタカナで記されていた。だから上の歌詞もカタカナとした。可愛らしい子馬と、それをやさしく見つめる母親が、本当に
♪ ポックリ ポックリ
歩いている、そんな姿が目に浮かんでくるような詩と曲のバランスのよさ。のどかな牧場…そんな光景が目に浮かんでくる、淡い優しい色彩の歌。この歌には、実はやるせない母心が秘められているという。

この歌が文部省唱歌として「ウタノホン(上)」(1年生用)の中で発表されたのは、1941(昭和16)年2月のこと。その4月から小学校は、国民学校という呼び名に改称された。「ウタノホン」は、その国民学校の芸能科(今の音楽)のために作られた教科書だった。日本は1931(昭和6)年の満州事変に始まり、翌1932(昭和7)年の上海事変、さらに1937(昭和12)年の日中戦争と、既に10年間も戦争の渦の中にいた。国民学校の第一の目標は「皇国民の練成」。練成は鍛えて立派になるという意味で、このときから児童のことを「少国民(しょうこくみん)」と呼ぶようになった。この時代につくられた歌であるから、「のどかな」雰囲気などあるはずがない。当時の男の子の夢は大きくなったら立派な兵隊さんになることだった。それが一番普通で、一番カッコイイ夢だった。「お国のために」の言葉はしっかりと子供にも浸透している時代だった。しかし、何故か「オウマ」の詩の裏には戦争奨励というより、かえって戦争反対の意思が見え隠れしているように感じられる。

この頃の馬はそれまでの農耕馬などのどかなイメージを想像させる動物から、戦場に赴き働く軍馬へと変わっていった。馬を「もの言わぬ戦士」と形容しているのがその証。「オウマ」の発表と同時に陸軍省選定の東宝映画「馬」が封切られている。この映画は戦争に役立つ立派な馬を育てよう…という主張がこめられていたのだが、その裏側には大事に育てた馬を戦場に駆り立て、犠牲にしてもいいのか? という反戦ともとれる気持ちが隠されていたという。そして「オウマ」の
♪ ヤサシイ カアサン コウマヲ ミナガラ
の部分は映画と同様に、子馬をやさしそうな目で、大事そうに見つめる母馬とは、戦場に送る年頃の男の子を持つ皇国の母たちのことではないだろうか…といわれている。母の瞳は子供の成長を楽しそうに、嬉しそうにいつも見つめている。馬とて親心は同じこと。馬は賢い動物である。人にもよくなつく。だからこそ昔から馬と人間は共存してきた。悲しいとき馬は涙を流すという。しかし、この子馬もいつかは戦場に駆り出される宿命。その時代の男の子たちと同じように。

「大きくなったら兵隊さんになりたい」「大きくなったらボクが母さんを守るために働くんだ」 と、子供たちの瞳はらんらんと輝いていた。
「そうかい、お国のために頑張るんだよ」 と、母も子供の頭をなでる。
しかし、母は本当は声を出して泣き出したかった。しっかり子供を抱きしめて、「戦争になんて行かないでおくれ」と叫びたかったに違いない。誰が可愛いわが子を、みすみす戦場に送りたいものか。誰が白木の箱に入れられて還ってくる子供を心底待っているものだろうか。「よくやった、でかしたぞ」と、お国のために死ぬのが立派、そう口では言ってみても、どこのどの母が本気でそんなことを心で思っているものか。このまま時が止まってくれたらいい…子供のままで、子馬のままでいて欲しい。そうしたら戦争に行かなくたっていいのだから。
♪ コウマヲ ミナガラ ポックリ ポックリ アルク
この歌は、母親たちの心の代弁だったのではないか。声に出して言えない、いや言ってはいけない、声なき声を密かに歌いこんだのではないか。

林柳波は1893(明治26)年に群馬県沼田市に生まれ、教授としても教鞭を取っている。国民学校の芸能科では、歌のほかに音感教育も始められている。理由は、音感の勉強も、敵機の飛行機の音を聞き分けられるようになるからいい、という事だそうだ。それを聞いた林柳波は、「ああ、ここまで日本は戦争のぬかるみにはまってしまったか」と絶句したという。「このままでは世界を敵にまわしてしまうのに」と思ったという。
しかし、そんなことを口に出すことは断固として許されない時代。そんな考えが少しでもバレると待っているものは死。そんな恐ろしい時代だった。林柳波の反抗心と最後の抵抗がこの歌にこめられているのではないか。子馬を優しく見つめる母馬、子供をやさしく見守る母親、戦争が全てを狂わせていった。やさしいまなざしのその奥には、やりきれない悲しみが潜んでいた。心の痛みが叫んでいた。明るく楽しい「オウマ」の歌は、
♪ イツデモ イッショニ
歩いていきたいと思う悲しい母の願いだった。戦争が終結して、子供が戦争に取られなくてもよい時代が早く訪れて欲しい、そんな林のむなしい抵抗の歌であった。

「臨時ニュースをお伝えします。大本営陸海軍部、午前6時発表。帝国陸海軍部隊は、本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり…」 寒風吹きすさぶ中、ラジオの声が淡々と日本の町に流れたのは、この歌を国民学校始めての1年生が習った年の師走8日、午前7時の時報の直後だった。
♪ オウマノ オヤコハ ナカヨシ コヨシ〜
時代は林のそんな抵抗、そんな願いを無惨にも断ち切った。真珠湾攻撃による太平洋戦争の開戦。その結末はご存知のとおり…今京都。 ※写真はEPSON R-D1sで撮った京都東山花灯路2009の光景とその他で本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第9弾「たきび」はここ(←クリック)

◇ちょっと予備知識 → 面の皮が鉄のように硬い、というたとえ。
類義語に厚顔無恥(こうがんむち)がある。
対義語は臆面(おくめん)。
街に羽織袴姿やスーツ姿を最近見かける…と思ったら、卒業のシーズンだった。4月から勤める人、進学する人、様々に母校を飛び出していく。社会人となる人は今までに培った学問・知識以外に「知恵」が必要となる。学生の時のように、「試験に合格し単位を取得する」というような、はっきりと形に見える目的がなくなるのが社会人。「成果をあげて当り前」「できて当り前」の世界が社会だ。知識や学問は学校で学ぶことができるが、知恵は自分で開発するしかない。知恵を開発する一番の方法は、その仕事を好きになること。その仕事が好きになれば工夫をするようになる。工夫をすれば自ずと成果があがる。成果があがればさらにその仕事が好きになる。こんな言葉が「ふっ」と思い出された。
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
ソーダ村…の情報を募集しています。詳細はここ(←クリック) よろしくお願いします。
オウマ(童謡物語第10弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年12月15日掲載)
「オウマ」
作詞:林 柳波 作曲:松島彜(津根)
オウマノ オヤコハ ナカヨシ コヨシ
イツデモ イッショニ ポックリ ポックリ アルク
オウマノ カアサン ヤサシイ カアサン
コウマヲ ミナガラ ポックリ ポックリ アルク
現在も子供たちが大好きな「オウマ」。えっ…大人も大好きだって!? それは「各馬ゲートインから一斉にスタート。第一コーナーを…」のお馬でしょ。ここでいう「オウマ」は童謡のこと。
さて、本題。この歌は最初、題名も歌詞も全部カタカナで記されていた。だから上の歌詞もカタカナとした。可愛らしい子馬と、それをやさしく見つめる母親が、本当に
♪ ポックリ ポックリ
歩いている、そんな姿が目に浮かんでくるような詩と曲のバランスのよさ。のどかな牧場…そんな光景が目に浮かんでくる、淡い優しい色彩の歌。この歌には、実はやるせない母心が秘められているという。

この歌が文部省唱歌として「ウタノホン(上)」(1年生用)の中で発表されたのは、1941(昭和16)年2月のこと。その4月から小学校は、国民学校という呼び名に改称された。「ウタノホン」は、その国民学校の芸能科(今の音楽)のために作られた教科書だった。日本は1931(昭和6)年の満州事変に始まり、翌1932(昭和7)年の上海事変、さらに1937(昭和12)年の日中戦争と、既に10年間も戦争の渦の中にいた。国民学校の第一の目標は「皇国民の練成」。練成は鍛えて立派になるという意味で、このときから児童のことを「少国民(しょうこくみん)」と呼ぶようになった。この時代につくられた歌であるから、「のどかな」雰囲気などあるはずがない。当時の男の子の夢は大きくなったら立派な兵隊さんになることだった。それが一番普通で、一番カッコイイ夢だった。「お国のために」の言葉はしっかりと子供にも浸透している時代だった。しかし、何故か「オウマ」の詩の裏には戦争奨励というより、かえって戦争反対の意思が見え隠れしているように感じられる。

この頃の馬はそれまでの農耕馬などのどかなイメージを想像させる動物から、戦場に赴き働く軍馬へと変わっていった。馬を「もの言わぬ戦士」と形容しているのがその証。「オウマ」の発表と同時に陸軍省選定の東宝映画「馬」が封切られている。この映画は戦争に役立つ立派な馬を育てよう…という主張がこめられていたのだが、その裏側には大事に育てた馬を戦場に駆り立て、犠牲にしてもいいのか? という反戦ともとれる気持ちが隠されていたという。そして「オウマ」の
♪ ヤサシイ カアサン コウマヲ ミナガラ
の部分は映画と同様に、子馬をやさしそうな目で、大事そうに見つめる母馬とは、戦場に送る年頃の男の子を持つ皇国の母たちのことではないだろうか…といわれている。母の瞳は子供の成長を楽しそうに、嬉しそうにいつも見つめている。馬とて親心は同じこと。馬は賢い動物である。人にもよくなつく。だからこそ昔から馬と人間は共存してきた。悲しいとき馬は涙を流すという。しかし、この子馬もいつかは戦場に駆り出される宿命。その時代の男の子たちと同じように。

「大きくなったら兵隊さんになりたい」「大きくなったらボクが母さんを守るために働くんだ」 と、子供たちの瞳はらんらんと輝いていた。
「そうかい、お国のために頑張るんだよ」 と、母も子供の頭をなでる。
しかし、母は本当は声を出して泣き出したかった。しっかり子供を抱きしめて、「戦争になんて行かないでおくれ」と叫びたかったに違いない。誰が可愛いわが子を、みすみす戦場に送りたいものか。誰が白木の箱に入れられて還ってくる子供を心底待っているものだろうか。「よくやった、でかしたぞ」と、お国のために死ぬのが立派、そう口では言ってみても、どこのどの母が本気でそんなことを心で思っているものか。このまま時が止まってくれたらいい…子供のままで、子馬のままでいて欲しい。そうしたら戦争に行かなくたっていいのだから。
♪ コウマヲ ミナガラ ポックリ ポックリ アルク
この歌は、母親たちの心の代弁だったのではないか。声に出して言えない、いや言ってはいけない、声なき声を密かに歌いこんだのではないか。

林柳波は1893(明治26)年に群馬県沼田市に生まれ、教授としても教鞭を取っている。国民学校の芸能科では、歌のほかに音感教育も始められている。理由は、音感の勉強も、敵機の飛行機の音を聞き分けられるようになるからいい、という事だそうだ。それを聞いた林柳波は、「ああ、ここまで日本は戦争のぬかるみにはまってしまったか」と絶句したという。「このままでは世界を敵にまわしてしまうのに」と思ったという。
しかし、そんなことを口に出すことは断固として許されない時代。そんな考えが少しでもバレると待っているものは死。そんな恐ろしい時代だった。林柳波の反抗心と最後の抵抗がこの歌にこめられているのではないか。子馬を優しく見つめる母馬、子供をやさしく見守る母親、戦争が全てを狂わせていった。やさしいまなざしのその奥には、やりきれない悲しみが潜んでいた。心の痛みが叫んでいた。明るく楽しい「オウマ」の歌は、
♪ イツデモ イッショニ
歩いていきたいと思う悲しい母の願いだった。戦争が終結して、子供が戦争に取られなくてもよい時代が早く訪れて欲しい、そんな林のむなしい抵抗の歌であった。

「臨時ニュースをお伝えします。大本営陸海軍部、午前6時発表。帝国陸海軍部隊は、本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり…」 寒風吹きすさぶ中、ラジオの声が淡々と日本の町に流れたのは、この歌を国民学校始めての1年生が習った年の師走8日、午前7時の時報の直後だった。
♪ オウマノ オヤコハ ナカヨシ コヨシ〜
時代は林のそんな抵抗、そんな願いを無惨にも断ち切った。真珠湾攻撃による太平洋戦争の開戦。その結末はご存知のとおり…今京都。 ※写真はEPSON R-D1sで撮った京都東山花灯路2009の光景とその他で本文とは関係ないのであしからず。
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