rrbのブログ - 2009/02/07のエントリ
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几帳面2009/02/07 12:00 am
きちょうめん…性格や行動がまじめできちんとしていること。
◇ちょっと予備知識 → 「几帳」は台に柱を立てて幕を下ろし、室内の間仕切りに使った道具のこと。
類義語に正確無比(せいかくむひ)がある。
対義語は大雑把(おおざっぱ)。
関連記事はここ(←クリック)
水に流す (旧フォトヴィレッジ 2007年7月6日掲載)
「このことは、もう水に流してよ」とか、「過去は水に流して…」と、使用される「水に流す」という言葉は京都から生まれた。なんでも、平安時代、京の都で疫病が流行したとき、人々は死の恐怖を前にして水を浴びたり、何度も何度も水をかぶったりして疫病から我が身を守った。「水に流す」という言葉はそこから生まれたのだという。

話がちょっと反れるけど、下鴨・上賀茂の両神社が舞台となる「賀茂祭」こと「葵祭」は疫病が蔓延したことに端を発する。祭りの始まりは544年ともいわれ、京に都がやってくるはるか以前のこと。その昔、春も流行病の季節なら夏も恐怖。冷蔵庫も下水処理も衛生知識もない時代。ものが腐敗しウィルスがはびこる夏が巡りくるたびに疫病が広がり、人々がバタバタと死んでいった。「葵祭」とならぶ「祇園祭」もまた、暑い夏の疫病退散を願う御霊会(ごりょうえ)である。外から進入してくる邪悪な何物かを防がなければならない。神の祟りにふれたくない、病に倒れたくないと必死だった人々の切実な思いが、恐ろしい病を振り払いたい一心となり、水を浴び身を清める。それによって疫病を「水に流す」ことができると考えたのだろうと推測されている。

下鴨神社では毎年、夏の土用の丑の日に「御手洗祭(みたらしまつり)」が行なわれている。夏の土用は7月の下旬、京都では梅雨明け後の太陽が何日も照りつける猛暑のさなか。境内を流れる御手洗川の源である御手洗池にひざまで足を浸して身を清め無病息災を願う。「足つけ神事」ともいわれるこの行事、夏の流行り病を「水に流す」行為そのものとして、現在も伝わっている。日本人は古来より「みそぎ」という習慣がある。祀りごとを行なう前に、海や川の水で身を清める。これが「みそぎ」の儀式で、その語源は「身そそぎ」にあるとも「水そそぎ」にあるともいわれている。

さて、その「水に流す」という言葉であるが、「都合の悪いことはなんでも水に流す」とか、「過去を水に流す」とか最近はあまりいい意味で使用されなくなった。「水に流す」という言葉は、本来は、豊かな水と美しい自然に培われた日本人独特の自然観や清浄感に基づいていた。平安の昔、疫病を「水に流す」ことにより身を守られ、いつしかそれを人と人とをつなぐ知恵として、また自然に寄り添って生きる美学として身につけてきたのではないか、と想像する。この想像が正しいとすると、「水に流す」が「ただリセットボタンを押す」という意味に成り下がっている現在、正しい意味で使用されていないと、少し悲しい気持ちになる。「今言葉」というか現在広く使用されている日常の言葉の中にも「本来の意味が忘れ去られ、都合のいいように使用されている」言葉がたくさんあるかも知れない。

余談であるが、「けがれを水に流す」御手洗池に湧き出る水のあぶくを人の形にかたどったのが「みたらし団子」のルーツ。その昔、御手洗祭の日に下鴨神社境内「糺の森」で売られたのが「みたらし団子」の発祥であるとされているという。意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.2(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
★前回の京が語源「うまい」「さまになる」「にのまいをふむ」はここ(←クリック)

◇ちょっと予備知識 → 「几帳」は台に柱を立てて幕を下ろし、室内の間仕切りに使った道具のこと。
類義語に正確無比(せいかくむひ)がある。
対義語は大雑把(おおざっぱ)。
関連記事はここ(←クリック)
水に流す (旧フォトヴィレッジ 2007年7月6日掲載)
「このことは、もう水に流してよ」とか、「過去は水に流して…」と、使用される「水に流す」という言葉は京都から生まれた。なんでも、平安時代、京の都で疫病が流行したとき、人々は死の恐怖を前にして水を浴びたり、何度も何度も水をかぶったりして疫病から我が身を守った。「水に流す」という言葉はそこから生まれたのだという。

話がちょっと反れるけど、下鴨・上賀茂の両神社が舞台となる「賀茂祭」こと「葵祭」は疫病が蔓延したことに端を発する。祭りの始まりは544年ともいわれ、京に都がやってくるはるか以前のこと。その昔、春も流行病の季節なら夏も恐怖。冷蔵庫も下水処理も衛生知識もない時代。ものが腐敗しウィルスがはびこる夏が巡りくるたびに疫病が広がり、人々がバタバタと死んでいった。「葵祭」とならぶ「祇園祭」もまた、暑い夏の疫病退散を願う御霊会(ごりょうえ)である。外から進入してくる邪悪な何物かを防がなければならない。神の祟りにふれたくない、病に倒れたくないと必死だった人々の切実な思いが、恐ろしい病を振り払いたい一心となり、水を浴び身を清める。それによって疫病を「水に流す」ことができると考えたのだろうと推測されている。

下鴨神社では毎年、夏の土用の丑の日に「御手洗祭(みたらしまつり)」が行なわれている。夏の土用は7月の下旬、京都では梅雨明け後の太陽が何日も照りつける猛暑のさなか。境内を流れる御手洗川の源である御手洗池にひざまで足を浸して身を清め無病息災を願う。「足つけ神事」ともいわれるこの行事、夏の流行り病を「水に流す」行為そのものとして、現在も伝わっている。日本人は古来より「みそぎ」という習慣がある。祀りごとを行なう前に、海や川の水で身を清める。これが「みそぎ」の儀式で、その語源は「身そそぎ」にあるとも「水そそぎ」にあるともいわれている。

さて、その「水に流す」という言葉であるが、「都合の悪いことはなんでも水に流す」とか、「過去を水に流す」とか最近はあまりいい意味で使用されなくなった。「水に流す」という言葉は、本来は、豊かな水と美しい自然に培われた日本人独特の自然観や清浄感に基づいていた。平安の昔、疫病を「水に流す」ことにより身を守られ、いつしかそれを人と人とをつなぐ知恵として、また自然に寄り添って生きる美学として身につけてきたのではないか、と想像する。この想像が正しいとすると、「水に流す」が「ただリセットボタンを押す」という意味に成り下がっている現在、正しい意味で使用されていないと、少し悲しい気持ちになる。「今言葉」というか現在広く使用されている日常の言葉の中にも「本来の意味が忘れ去られ、都合のいいように使用されている」言葉がたくさんあるかも知れない。

余談であるが、「けがれを水に流す」御手洗池に湧き出る水のあぶくを人の形にかたどったのが「みたらし団子」のルーツ。その昔、御手洗祭の日に下鴨神社境内「糺の森」で売られたのが「みたらし団子」の発祥であるとされているという。意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.2(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
★前回の京が語源「うまい」「さまになる」「にのまいをふむ」はここ(←クリック)


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