rrbのブログ - 2009/12のエントリ
ヘッダーナビゲーション
現在のカテゴリー位置
サイト全体のカテゴリーナビゲーション
今京都 まけ 2009/12/06 12:00 am
まけ
月経。御所ことば。「設(ま)く」に基づく。マクは心構えをして時期を待つの意。サシアイ(差し合い)とも言った。御所では月経中の女房は供御(くご)・調度に手を触れられなかったことから、宮廷の日記には月経中の女官はテナシ(手無し)と記される。供御は天皇の召し上がるご飯のこと。御所ことばで目上の人の飯はオバンで、「オバンをあがらしゃりますか」と言う。自分のは「御」を付けずにハン(飯)。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
羅漢
地蔵物語(286)
月経。御所ことば。「設(ま)く」に基づく。マクは心構えをして時期を待つの意。サシアイ(差し合い)とも言った。御所では月経中の女房は供御(くご)・調度に手を触れられなかったことから、宮廷の日記には月経中の女官はテナシ(手無し)と記される。供御は天皇の召し上がるご飯のこと。御所ことばで目上の人の飯はオバンで、「オバンをあがらしゃりますか」と言う。自分のは「御」を付けずにハン(飯)。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
羅漢
地蔵物語(286)
このエントリーの情報
今京都 へどもど 2009/12/05 12:00 am
へどもど
物を言うのに詰まるさま。「あわててヘドモドしてんのか」 あわててまごつくさま。しどろもどろ。ヘドは反吐、モドは躊躇する意の「惑い」に基づくか、あるいは「戻す」の意味か。シドロモドロのシドロはとりとめのないさま。マダラ(斑)と同系の語。「マット大きいのをおくれ」とモットをマットと言うのは、江戸時代の安原貞室『片言』にも記されている。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
石峰寺/五百羅漢 (旧フォトヴィレッジ 2007年12月5日掲載)
江戸時代中期の画家・伊藤若冲(1716〜1800年)は、光琳派より宋・元の古画を学び、後写生を基礎として専ら動植物を描き、特に鶏画家として有名である。
京都高倉錦小路の青物問屋に生まれた彼は、仏教、特に禅への並々ならぬ傾倒を示し、30歳代半ばより相国寺の大典禅師に参禅。若冲居士の号を得てから、ひたすら禁欲僧のような生活を守り生涯独身を貫き、子孫を残さなかったという。後に宮中へ献上された「動植綵絵(さいえ)」や相国寺の「釈迦三尊像」など、精密な描写と豊かな色彩による名画を残している。晩年は隠棲者として、京都市伏見区深草にある黄檗宗の禅寺石峰寺(せきほうじ)の古庵を終の住家とした。絵一枚を米一斗と換えながら暮らす困窮ぶりだったという。
墓には「斗米庵若沖居士」と刻まれている。この石峰寺に伊藤若冲が自らデザインした五百羅漢石仏があると聞き、訪れた。羅漢とは釈迦の説法を聞き世人より供養される者をいうのであるが、釈迦入滅後その教えを広めた数多の賢者を賛嘆する意味で宋・元時代より五百羅漢の作成が見られる。
また、羅漢といえば、ユーモラスな表情の石仏群を思い浮かべる。若冲の五百羅漢は、表情豊かなさまは変わらないものの、釈迦の誕生より涅槃に至るものを中心とした、いわば釈迦の一代記を描く壮大な構図となっている。
この階段の先は寺の裏山。その一帯に、かつては1000体以上もあった羅漢が参拝者を迎える。現在残る羅漢は400体余りだという。階段を上り、門をくぐり寺の裏山に入ると、そこは竹林が広がっている。参道に沿って歩くと「釈迦誕生」「来迎諸尊」「出山」「説法」「涅槃」「賽(さい)の河原」などの場面が次々と現れる。中には、牛や動物のような形の石もあり、若冲自身の姿を現した羅漢もあるという。
羅漢の中には、風化し自然石のように見えるものもある。いずれ土に帰ってゆくことさえ、若冲は見越していたのだろうか…想いが馳せる。
ここは京都市伏見区石峰寺、若冲の五百羅漢が今も息づく。それにしても、「もう少し落ち着いて撮らなければならない」と、深く反省。毎週日曜日に掲載している羅漢とひと味違う羅漢さん…今京都。
物を言うのに詰まるさま。「あわててヘドモドしてんのか」 あわててまごつくさま。しどろもどろ。ヘドは反吐、モドは躊躇する意の「惑い」に基づくか、あるいは「戻す」の意味か。シドロモドロのシドロはとりとめのないさま。マダラ(斑)と同系の語。「マット大きいのをおくれ」とモットをマットと言うのは、江戸時代の安原貞室『片言』にも記されている。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
石峰寺/五百羅漢 (旧フォトヴィレッジ 2007年12月5日掲載)
江戸時代中期の画家・伊藤若冲(1716〜1800年)は、光琳派より宋・元の古画を学び、後写生を基礎として専ら動植物を描き、特に鶏画家として有名である。
京都高倉錦小路の青物問屋に生まれた彼は、仏教、特に禅への並々ならぬ傾倒を示し、30歳代半ばより相国寺の大典禅師に参禅。若冲居士の号を得てから、ひたすら禁欲僧のような生活を守り生涯独身を貫き、子孫を残さなかったという。後に宮中へ献上された「動植綵絵(さいえ)」や相国寺の「釈迦三尊像」など、精密な描写と豊かな色彩による名画を残している。晩年は隠棲者として、京都市伏見区深草にある黄檗宗の禅寺石峰寺(せきほうじ)の古庵を終の住家とした。絵一枚を米一斗と換えながら暮らす困窮ぶりだったという。
墓には「斗米庵若沖居士」と刻まれている。この石峰寺に伊藤若冲が自らデザインした五百羅漢石仏があると聞き、訪れた。羅漢とは釈迦の説法を聞き世人より供養される者をいうのであるが、釈迦入滅後その教えを広めた数多の賢者を賛嘆する意味で宋・元時代より五百羅漢の作成が見られる。
また、羅漢といえば、ユーモラスな表情の石仏群を思い浮かべる。若冲の五百羅漢は、表情豊かなさまは変わらないものの、釈迦の誕生より涅槃に至るものを中心とした、いわば釈迦の一代記を描く壮大な構図となっている。
この階段の先は寺の裏山。その一帯に、かつては1000体以上もあった羅漢が参拝者を迎える。現在残る羅漢は400体余りだという。階段を上り、門をくぐり寺の裏山に入ると、そこは竹林が広がっている。参道に沿って歩くと「釈迦誕生」「来迎諸尊」「出山」「説法」「涅槃」「賽(さい)の河原」などの場面が次々と現れる。中には、牛や動物のような形の石もあり、若冲自身の姿を現した羅漢もあるという。
羅漢の中には、風化し自然石のように見えるものもある。いずれ土に帰ってゆくことさえ、若冲は見越していたのだろうか…想いが馳せる。
ここは京都市伏見区石峰寺、若冲の五百羅漢が今も息づく。それにしても、「もう少し落ち着いて撮らなければならない」と、深く反省。毎週日曜日に掲載している羅漢とひと味違う羅漢さん…今京都。
このエントリーの情報
今京都 ふご 2009/12/03 12:00 am
ふご
ワラで編んだ籠。ワラを円筒形に編み、蓋がある。保温用に飯櫃(いいひつ)を入れておく。フンゴとも。フカカゴ(深籠)に基づく。地蔵盆のとき、いくつかの町内ではフゴオロシといって、世話役が菓子などの景品をフゴに入れて二階から降ろし、路上の子どもたちに配り与えた。農家ではフゴに乳児を入れて寝かせ農作業に励んだものである。京都府南部では、技術が下手で仕事が粗雑な大工をフゴダイクと呼ぶ。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
乙が森・花尻の森/おつう伝説 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月23日掲載)
盆地の中央を高野川が南北に流れ、川に沿うように若狭街道(鯖街道・国道367号)が走る大原に、悲しい物語が伝わる。その物語とは…。
昔、「おつう」という娘がいた。ある日、若狭の殿様に見初められ、女中として若狭で暮らす。しかし、病に伏すと殿様の熱も冷め、里に帰された。ある日、殿様が再び大原を通りかかる。病身の「おつう」は追いかけることもできず、悲しみのあまり高野川に身を投げる。川を下る「おつう」は大蛇となり、殿様の行列に迫る。しかし、家来に、まっぷたつに切り殺されてしまう。村人たちは大蛇の頭を「乙が森」に、尾は八瀬との境にある花尻橋のたもとにある「花尻の森」に埋め供養した。
というもの。
以上「乙が森」
この「おつう伝説」は大原で広く知られている昔話。蛇になった清姫が僧安珍を焼き殺す「道成寺」を思わせる物語だが、内容には諸説ある。殿様を嫌った「おつう」が自らの意思で里に帰り、怒った殿様が「おつう」を切り殺したとか、若狭ではなく朽木の殿様だといった話もある。大原草生町の「乙が森」には「竜王大明神」の石碑が立っている。文献としては、1702年の「山州名跡志」に、夫を恨んだ女が水底に身を沈め、大蛇となって男を襲う『大原物語』として紹介されている。
以上「花尻の森」
しかし、『大原物語』には「おつう」の名はなく、ただ「京ナル女」と書かれているだけだという。また、1916(大正5)年に建てられた竜王大明神の石碑の趣意書には「森の沿革や来歴が分からないことが遺憾だ」とある。「おつう」とはいったい誰なのか…。地元では、江戸後期から明治時代にかけて、大原上野町に住んでいた実在の人物だといわれ、おまけに数年前までは本人の子孫を知る人がいたという。現在、『大原物語』は「おつう」の話として語られている。なぜ結びついたのか定かではないが、「おつう」は不幸な恋をした女性だったのではないかとみられている。大蛇の物語は、高野川は大雨になると水があふれ里人を悩ませたといい、荒れ狂う高野川から生まれたのだろうとの話もある。そう、以前に掲載した桂川の怪のように…。いずれにしても大原の土壌がはぐくんだ昔話が里人と結びつき現代に伝わっていることには違いない…今京都。
ワラで編んだ籠。ワラを円筒形に編み、蓋がある。保温用に飯櫃(いいひつ)を入れておく。フンゴとも。フカカゴ(深籠)に基づく。地蔵盆のとき、いくつかの町内ではフゴオロシといって、世話役が菓子などの景品をフゴに入れて二階から降ろし、路上の子どもたちに配り与えた。農家ではフゴに乳児を入れて寝かせ農作業に励んだものである。京都府南部では、技術が下手で仕事が粗雑な大工をフゴダイクと呼ぶ。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
乙が森・花尻の森/おつう伝説 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月23日掲載)
盆地の中央を高野川が南北に流れ、川に沿うように若狭街道(鯖街道・国道367号)が走る大原に、悲しい物語が伝わる。その物語とは…。
昔、「おつう」という娘がいた。ある日、若狭の殿様に見初められ、女中として若狭で暮らす。しかし、病に伏すと殿様の熱も冷め、里に帰された。ある日、殿様が再び大原を通りかかる。病身の「おつう」は追いかけることもできず、悲しみのあまり高野川に身を投げる。川を下る「おつう」は大蛇となり、殿様の行列に迫る。しかし、家来に、まっぷたつに切り殺されてしまう。村人たちは大蛇の頭を「乙が森」に、尾は八瀬との境にある花尻橋のたもとにある「花尻の森」に埋め供養した。
というもの。
以上「乙が森」
この「おつう伝説」は大原で広く知られている昔話。蛇になった清姫が僧安珍を焼き殺す「道成寺」を思わせる物語だが、内容には諸説ある。殿様を嫌った「おつう」が自らの意思で里に帰り、怒った殿様が「おつう」を切り殺したとか、若狭ではなく朽木の殿様だといった話もある。大原草生町の「乙が森」には「竜王大明神」の石碑が立っている。文献としては、1702年の「山州名跡志」に、夫を恨んだ女が水底に身を沈め、大蛇となって男を襲う『大原物語』として紹介されている。
以上「花尻の森」
しかし、『大原物語』には「おつう」の名はなく、ただ「京ナル女」と書かれているだけだという。また、1916(大正5)年に建てられた竜王大明神の石碑の趣意書には「森の沿革や来歴が分からないことが遺憾だ」とある。「おつう」とはいったい誰なのか…。地元では、江戸後期から明治時代にかけて、大原上野町に住んでいた実在の人物だといわれ、おまけに数年前までは本人の子孫を知る人がいたという。現在、『大原物語』は「おつう」の話として語られている。なぜ結びついたのか定かではないが、「おつう」は不幸な恋をした女性だったのではないかとみられている。大蛇の物語は、高野川は大雨になると水があふれ里人を悩ませたといい、荒れ狂う高野川から生まれたのだろうとの話もある。そう、以前に掲載した桂川の怪のように…。いずれにしても大原の土壌がはぐくんだ昔話が里人と結びつき現代に伝わっていることには違いない…今京都。
このエントリーの情報
今京都 しりからしりから 2009/12/01 12:00 am
しりからしりから
後から後から。次々と。「シリカラシリカラ用事ができて、なかなかお目にかかれまへんな」「尻から」を繰り返す。一つの行為が終わったあと、すぐ次の行為が続く気持ち。シリは後方の意でいちばん末をシリというから、洛北の大原で末っ子はシリゴである。トッカケヒッカケも「次々に」の意。「トッカケヒッカケお客さんが来やはってせわしないことや」 トッカケは「取り替え」、ヒッカケは「引き換え」の変化。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
師走。今日から12月。京都の12月といえば、吉例顔見世興行だ。この顔見世興行には、ある歴史がある。それは、京都には、元和年間(1615〜24)に四条通をはさんで七つの櫓(座・芝居の興行)が京都所司代により公許されて存在したが、明治までに南座、北座以外は廃業。北座も明治26年(1893)に廃座となり、南座だけが残った。そもそも「顔見世」とは本来、各座と一年契約を結んでいた役者か交代し、新たな顔ぶれでおこなう最初の興行のことである。現在でも10月に名古屋御園座、11月に東京歌舞伎座でもおこなわれているが、江戸時代から続くのは京都の南座だけである。南座はもともと上方役者中心の興行だったが、大正期に、東西の花形役者が勢揃いして競演する興行となった、ということだ。吉例顔見世興行11月30日〜12月26日まで。
赤穂義士遺髪塔跡/忠臣蔵 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月21日掲載)
堀川通と紫明通の交差点を南へ行くと、西側の歩道沿いに石碑が立っている。碑には「赤穂義士四十六士遺髪塔跡」の文字が刻まれている。この地には「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士が仕えた浅野家ゆかりの瑞光院(京都市山科区)があった。遺髪塔の由来は瑞光院に伝わっている。
赤穂浪士の吉良邸討ち入りから2ヶ月半後の1703(元禄16)年2月初旬、浪士たちを預かっている各大名家を瑞光院の使いの僧が訪れた。処罰を待つ浪士たちの髪をもらい受けるためだった。瑞光院は、浅野家の家老だった大石内蔵助良雄の遺志を受けて境内に遺髪を埋め、浪士46人の名前や戒名を記した石塔を建立した。
瑞光院は赤穂浅野家の祈願寺で、浪士たちが仕えた主君浅野内匠頭長矩の妻と遠縁の和尚もいた。吉良上野介に切りかかり、切腹した浅野内匠頭の遺品を埋葬したとされる墓もあり、墓参した浪士たちが討ち入りについて話し合ったと伝わっている。
1613(慶長18)年創建の瑞光院境内は、かつては約2000坪(約6600平方メートル)の広さだった。45年前、隣接する大日本スクリーン製造の工場拡張に伴い山科区に移転したが、石碑の周辺に「瑞光院前町」の地名が残っている。石碑は、赤穂浪士ゆかりの寺院がこの地にあったことを後世に伝えようと、2年前に同社が敷地内に建てた。歩道から見える位置にある。
山科区には大石内蔵助にかかわる社寺がいくつかある。毎年12月に開かれている「山科義士まつり」では、赤穂浪士の行列の代表者らが瑞光院を訪れるという。山科に移ったのは偶然だが、さらに赤穂義士にゆかりの深い寺院になったということか…。
今年も討ち入りの日が近づくに連れ、この遺髪塔を訪れる人が増えるのだろうと想像する。浪士のうち寺坂吉右衛門は自害していないために遺髪塔に刻名がないとされている。だからひとり少ない46人。季節的にはちょっと早いけれど「忠臣蔵」特集を「今京都」なりに組んでみた…今京都。
後から後から。次々と。「シリカラシリカラ用事ができて、なかなかお目にかかれまへんな」「尻から」を繰り返す。一つの行為が終わったあと、すぐ次の行為が続く気持ち。シリは後方の意でいちばん末をシリというから、洛北の大原で末っ子はシリゴである。トッカケヒッカケも「次々に」の意。「トッカケヒッカケお客さんが来やはってせわしないことや」 トッカケは「取り替え」、ヒッカケは「引き換え」の変化。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
師走。今日から12月。京都の12月といえば、吉例顔見世興行だ。この顔見世興行には、ある歴史がある。それは、京都には、元和年間(1615〜24)に四条通をはさんで七つの櫓(座・芝居の興行)が京都所司代により公許されて存在したが、明治までに南座、北座以外は廃業。北座も明治26年(1893)に廃座となり、南座だけが残った。そもそも「顔見世」とは本来、各座と一年契約を結んでいた役者か交代し、新たな顔ぶれでおこなう最初の興行のことである。現在でも10月に名古屋御園座、11月に東京歌舞伎座でもおこなわれているが、江戸時代から続くのは京都の南座だけである。南座はもともと上方役者中心の興行だったが、大正期に、東西の花形役者が勢揃いして競演する興行となった、ということだ。吉例顔見世興行11月30日〜12月26日まで。
赤穂義士遺髪塔跡/忠臣蔵 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月21日掲載)
堀川通と紫明通の交差点を南へ行くと、西側の歩道沿いに石碑が立っている。碑には「赤穂義士四十六士遺髪塔跡」の文字が刻まれている。この地には「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士が仕えた浅野家ゆかりの瑞光院(京都市山科区)があった。遺髪塔の由来は瑞光院に伝わっている。
赤穂浪士の吉良邸討ち入りから2ヶ月半後の1703(元禄16)年2月初旬、浪士たちを預かっている各大名家を瑞光院の使いの僧が訪れた。処罰を待つ浪士たちの髪をもらい受けるためだった。瑞光院は、浅野家の家老だった大石内蔵助良雄の遺志を受けて境内に遺髪を埋め、浪士46人の名前や戒名を記した石塔を建立した。
瑞光院は赤穂浅野家の祈願寺で、浪士たちが仕えた主君浅野内匠頭長矩の妻と遠縁の和尚もいた。吉良上野介に切りかかり、切腹した浅野内匠頭の遺品を埋葬したとされる墓もあり、墓参した浪士たちが討ち入りについて話し合ったと伝わっている。
1613(慶長18)年創建の瑞光院境内は、かつては約2000坪(約6600平方メートル)の広さだった。45年前、隣接する大日本スクリーン製造の工場拡張に伴い山科区に移転したが、石碑の周辺に「瑞光院前町」の地名が残っている。石碑は、赤穂浪士ゆかりの寺院がこの地にあったことを後世に伝えようと、2年前に同社が敷地内に建てた。歩道から見える位置にある。
山科区には大石内蔵助にかかわる社寺がいくつかある。毎年12月に開かれている「山科義士まつり」では、赤穂浪士の行列の代表者らが瑞光院を訪れるという。山科に移ったのは偶然だが、さらに赤穂義士にゆかりの深い寺院になったということか…。
今年も討ち入りの日が近づくに連れ、この遺髪塔を訪れる人が増えるのだろうと想像する。浪士のうち寺坂吉右衛門は自害していないために遺髪塔に刻名がないとされている。だからひとり少ない46人。季節的にはちょっと早いけれど「忠臣蔵」特集を「今京都」なりに組んでみた…今京都。