rrbのブログ - 2009/12/19のエントリ
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今京都 ひりょーす 2009/12/19 12:00 am
ひりょーす
京のヒリョースは東京では「がんもどき」。ヒリョーズ・ヒロース・ヒロスともいう。ポルトガル語のfilhosから。室町時代、ポルトガルの宣教師が伝えた。うるち米を当分に混合し、水で練って油で揚げたもの。上方では豆腐を潰して、山芋をすりおろして混ぜ、きくらげやごぼうも混ぜて丸め、油で揚げる。漢字で「飛竜子・飛竜頭」と書く。「雁擬き(がんもどき)」は雁の肉に味が似ているのでいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
大政所御旅所 (旧フォトヴィレッジ 2007年9月4日掲載)
烏丸通のオフィスが立ち並ぶ一画に、窮屈そうに鳥居がたつ。大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)である。御旅所とは、八坂神社から分霊が町に降りて来られるのをお迎えするための施設であり、また、ここから八坂神社を遥拝するための出張所としても機能するものである。

祇園会(ぎおんえ)の神輿(みこし)三基のうち、素盞嗚尊(すさのおのみこと)(牛頭(ごず)天王)と八王子との二基を大政所とよび、妃神奇稲田(くしなだ)姫の一基を少将井とよんだ。

江戸時代にはこの大政所の神輿は八坂神社を出て四条通を経て神泉苑に入った。この御旅所は円融天皇の時代に秦助正という人が夢に八坂大神の神幸を見、また自宅の庭から八坂神社まで蜘蛛(くも)が糸を引いているのを見て朝廷にこのことを奏上した結果、助正の家が御旅所となり、その後大政所といわれるようになったという。

後奈良天皇の天文5年(1536)に騒乱のため焼失し、天正19年(1591)豊臣秀吉の命により四条寺町に御旅所が移されたが、そのあとに町の人々が小祠を建て、八坂大神を奉祀し、大政所町鎮護の社として毎年7月16日を例祭日と定めた。

と、看板には記されている。烏丸通は京都市内随一のオフィス街。高い建物に囲まれながらも史実を伝える小さな一画。しかし、その存在はとても大きい…今京都。

京のヒリョースは東京では「がんもどき」。ヒリョーズ・ヒロース・ヒロスともいう。ポルトガル語のfilhosから。室町時代、ポルトガルの宣教師が伝えた。うるち米を当分に混合し、水で練って油で揚げたもの。上方では豆腐を潰して、山芋をすりおろして混ぜ、きくらげやごぼうも混ぜて丸め、油で揚げる。漢字で「飛竜子・飛竜頭」と書く。「雁擬き(がんもどき)」は雁の肉に味が似ているのでいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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大政所御旅所 (旧フォトヴィレッジ 2007年9月4日掲載)
烏丸通のオフィスが立ち並ぶ一画に、窮屈そうに鳥居がたつ。大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)である。御旅所とは、八坂神社から分霊が町に降りて来られるのをお迎えするための施設であり、また、ここから八坂神社を遥拝するための出張所としても機能するものである。

祇園会(ぎおんえ)の神輿(みこし)三基のうち、素盞嗚尊(すさのおのみこと)(牛頭(ごず)天王)と八王子との二基を大政所とよび、妃神奇稲田(くしなだ)姫の一基を少将井とよんだ。

江戸時代にはこの大政所の神輿は八坂神社を出て四条通を経て神泉苑に入った。この御旅所は円融天皇の時代に秦助正という人が夢に八坂大神の神幸を見、また自宅の庭から八坂神社まで蜘蛛(くも)が糸を引いているのを見て朝廷にこのことを奏上した結果、助正の家が御旅所となり、その後大政所といわれるようになったという。

後奈良天皇の天文5年(1536)に騒乱のため焼失し、天正19年(1591)豊臣秀吉の命により四条寺町に御旅所が移されたが、そのあとに町の人々が小祠を建て、八坂大神を奉祀し、大政所町鎮護の社として毎年7月16日を例祭日と定めた。

と、看板には記されている。烏丸通は京都市内随一のオフィス街。高い建物に囲まれながらも史実を伝える小さな一画。しかし、その存在はとても大きい…今京都。

