rrbのブログ - 2009/09のエントリ
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今京都 てったい 2009/09/03 12:00 am
てったい
手伝い。大工や左官の助手。「このごろテッタイやってます」 テッタイサンとも。土木関係の雇い人夫のことも呼ぶ。江戸時代の文政4(1821)年刊『浪花方言』には「手伝。江戸の仕事師のこと、大工の手伝也」とある。手伝うをテッタウということから。テッタイは「手のトビ(提供)」ということで、テトウは助ける、労力を提供して報償を予期すること。「ちょっとテットテンか」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
一条戻橋(いちじょうもどりばし) (旧フォトヴィレッジ 2007年3月2日掲載)
西行き一方通行をひっきりなしに車が通る一条通堀川の戻橋。かつては出征する兵士が無事に帰還できるよう験を担いでここを渡った。婚礼や葬儀の一行は今も避けて通る。伝えられる不思議な話の数は京でも随一。その名は死者がよみがえった伝説に由来する。

平安中期の918年、文章博士の三善清行(みよしきよゆき)の葬列がこの橋にさしかかった時、修験道の修行から帰京した息子の浄蔵(じょうぞう)が父の棺と出会う。変わり果てた姿に浄蔵は「父の魂を戻してほしい」と一心に読経した。すると清行が息を吹き返し、親子は涙を流して喜んだ。以来、死者が戻る橋として現在の名がついた。

橋から約200m北の晴明神社とのかかわりも深い。浄蔵の時代から80年ほど後、陰陽師の安倍晴明は式神を屋敷そばの戻橋の下に潜ませ、予言や占いの際に操ったという。晴明の妻が式神が屋敷内にいるのを嫌がったため、橋の下の石棺に封じたとされる。都の内と外を隔てる地だったから霊的な物語が生まれやすかったのでは…と想像する。

堀川は、かつての内裏の東側外堀の役割を果たし、一条通は平安京の最も北の通りだった。都の鬼門である北東角に当たり、伝説が数多く生まれたとされる。晴明がここに住んだのも鬼門の守護のためだった。平安中期の伝承では、源頼光の家来、渡辺綱が戻橋で美女に化けた鬼と出会い、正体を見破って鬼の腕を切り落とした。鬼はその後、腕を取り返しに戻ってきたという。おどろおどろしい事件もあった。1591年、千利休がこの地に構えた屋敷で自害すると、その首は戻橋にさらされ、大徳寺にあった利休の木像で、首を踏みつけにしたとされる。

晴明神社境内に再現されているミニチュア版の「旧一條戻橋」
周辺で生まれ育った人々は「不気味な橋だったから子供にとっては面白い探検場所だったが、大人に『橋で遊んだ』と言うとえらい怒られた」と幼いころを語る。現在の橋は1995年に架け替えられた。大正時代から出征者を見送ってきた先代の橋は、親柱や木製欄干などを再利用したミニチュア版の「旧一條戻橋」として晴明神社境内に再現されている…今京都。

手伝い。大工や左官の助手。「このごろテッタイやってます」 テッタイサンとも。土木関係の雇い人夫のことも呼ぶ。江戸時代の文政4(1821)年刊『浪花方言』には「手伝。江戸の仕事師のこと、大工の手伝也」とある。手伝うをテッタウということから。テッタイは「手のトビ(提供)」ということで、テトウは助ける、労力を提供して報償を予期すること。「ちょっとテットテンか」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
一条戻橋(いちじょうもどりばし) (旧フォトヴィレッジ 2007年3月2日掲載)
西行き一方通行をひっきりなしに車が通る一条通堀川の戻橋。かつては出征する兵士が無事に帰還できるよう験を担いでここを渡った。婚礼や葬儀の一行は今も避けて通る。伝えられる不思議な話の数は京でも随一。その名は死者がよみがえった伝説に由来する。

平安中期の918年、文章博士の三善清行(みよしきよゆき)の葬列がこの橋にさしかかった時、修験道の修行から帰京した息子の浄蔵(じょうぞう)が父の棺と出会う。変わり果てた姿に浄蔵は「父の魂を戻してほしい」と一心に読経した。すると清行が息を吹き返し、親子は涙を流して喜んだ。以来、死者が戻る橋として現在の名がついた。

橋から約200m北の晴明神社とのかかわりも深い。浄蔵の時代から80年ほど後、陰陽師の安倍晴明は式神を屋敷そばの戻橋の下に潜ませ、予言や占いの際に操ったという。晴明の妻が式神が屋敷内にいるのを嫌がったため、橋の下の石棺に封じたとされる。都の内と外を隔てる地だったから霊的な物語が生まれやすかったのでは…と想像する。

堀川は、かつての内裏の東側外堀の役割を果たし、一条通は平安京の最も北の通りだった。都の鬼門である北東角に当たり、伝説が数多く生まれたとされる。晴明がここに住んだのも鬼門の守護のためだった。平安中期の伝承では、源頼光の家来、渡辺綱が戻橋で美女に化けた鬼と出会い、正体を見破って鬼の腕を切り落とした。鬼はその後、腕を取り返しに戻ってきたという。おどろおどろしい事件もあった。1591年、千利休がこの地に構えた屋敷で自害すると、その首は戻橋にさらされ、大徳寺にあった利休の木像で、首を踏みつけにしたとされる。

晴明神社境内に再現されているミニチュア版の「旧一條戻橋」
周辺で生まれ育った人々は「不気味な橋だったから子供にとっては面白い探検場所だったが、大人に『橋で遊んだ』と言うとえらい怒られた」と幼いころを語る。現在の橋は1995年に架け替えられた。大正時代から出征者を見送ってきた先代の橋は、親柱や木製欄干などを再利用したミニチュア版の「旧一條戻橋」として晴明神社境内に再現されている…今京都。

このエントリーの情報
今京都 ひざぼん 2009/09/01 12:00 am
ひざぼん
「ヒザボン擦りむいて痛い」 ひざ頭のこと。「膝坊主」を略した「膝坊」から。ヒザボシとも言う。「膝法師」に由来する。ひざ頭が法師の頭の形に似ていることによる。「ヒザボン談合」という諺がある。大変困っているときには、膝も相談相手になるという意味である。「膝とも談合」とも。誰にでも相談してみれば、それだけの効果があるというもの。談合を、昔はダンコウと発音した。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
長月。今日から9月。暦の上では「秋」だ。「秋」という言葉は、実り豊かなイメージの奥に凋落(ちょうらく)の響きを宿す。「秋扇(しゅうせん)」といえば、夏には重宝された扇が、秋風とともに打ち捨てられて顧みられなくなる悲哀をいう。まだまだ残暑の厳しい日もあるだろうが、秋を出迎えに、どこかへ行ってみたいものだ。
薬祖神祠(やくそじんし) (旧フォトヴィレッジ 2007年2月23日掲載)
薬問屋が並ぶ二条通の一角にある祠(ほこら)「薬祖神祠」。ここには、なんと日本・中国・ギリシャの神が合祀(ごうし)されているという。大巳貴命(おおなむちのみこと)(大国主命(おおくにぬしのみこと))と小彦名命(すくなひこなのみこと)、中国の医薬の神様「神農」、西洋医学の父とされるギリシャの哲学者「ヒポクラテス」だという。京都では「一条戻り橋、二条きぐすり屋…」といわれるように、二条通は1600年ごろから薬の町として栄えた。

11月に行われる「薬祖神祭」は江戸後期に「薬師講」として始まったとされ、二条の薬業仲間が集まり酒を酌み交わした時に神農像などを祭ったという。この祭りは「二条の神農さん」と呼ばれ、京都の年中行事の一つに数えられるほど盛大だった。1864年の蛤(はまぐり)御門の変で、二条の薬業街が焼失した時でさえも「神農尊の御神事滞りなく相済まし申候」との記録があり、祭りは例年通り行われたという。明治維新の後、一時中断されていたが、1880年に復興した。当時、欧州からも薬を輸入するようになっていたため、西洋の神様も必要とヒポクラテスを祖神に加え、1906年に現在の地に祠を移した。現在保管している神農像は、宇治市の黄檗山万福寺の隠元が持ち込んだものとされ、1858年のコレラ流行の時も、悪疫をはらったと伝わる。

東洞院通から衣棚通まで夜店が並び、ひしめき合うほどの人出だった「神農さん」も、今では夜店がなくなるくらいに衰退したとのこと。衰退した背景は50軒以上あった薬問屋も20年ほど前から大手企業に吸収合併され、10軒ほどに減ったというもの。祠の向かって左隣にあるのは江戸時代からの薬問屋で今でも現役。10軒ほどのうちの1軒なんだけれど、その歴史に驚く。「薬は健康管理にはなくてはならないもの。市民にもご利益は大きい」ので薬祖神祠を核にした町の活性化を期待しているというが、さて結果はいかに…。
さて、薬祖神祭は、明治天皇の誕生日にちなんで11月2、3日だったが、現在は第1金曜に改められた。神主を招いて神事を行い、神楽を奉納。参拝者には薬効のある笹の葉を配布。笹にはお守り袋と陶製のトラが取り付けられてある、とのことだ…今京都。

「ヒザボン擦りむいて痛い」 ひざ頭のこと。「膝坊主」を略した「膝坊」から。ヒザボシとも言う。「膝法師」に由来する。ひざ頭が法師の頭の形に似ていることによる。「ヒザボン談合」という諺がある。大変困っているときには、膝も相談相手になるという意味である。「膝とも談合」とも。誰にでも相談してみれば、それだけの効果があるというもの。談合を、昔はダンコウと発音した。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
長月。今日から9月。暦の上では「秋」だ。「秋」という言葉は、実り豊かなイメージの奥に凋落(ちょうらく)の響きを宿す。「秋扇(しゅうせん)」といえば、夏には重宝された扇が、秋風とともに打ち捨てられて顧みられなくなる悲哀をいう。まだまだ残暑の厳しい日もあるだろうが、秋を出迎えに、どこかへ行ってみたいものだ。
薬祖神祠(やくそじんし) (旧フォトヴィレッジ 2007年2月23日掲載)
薬問屋が並ぶ二条通の一角にある祠(ほこら)「薬祖神祠」。ここには、なんと日本・中国・ギリシャの神が合祀(ごうし)されているという。大巳貴命(おおなむちのみこと)(大国主命(おおくにぬしのみこと))と小彦名命(すくなひこなのみこと)、中国の医薬の神様「神農」、西洋医学の父とされるギリシャの哲学者「ヒポクラテス」だという。京都では「一条戻り橋、二条きぐすり屋…」といわれるように、二条通は1600年ごろから薬の町として栄えた。

11月に行われる「薬祖神祭」は江戸後期に「薬師講」として始まったとされ、二条の薬業仲間が集まり酒を酌み交わした時に神農像などを祭ったという。この祭りは「二条の神農さん」と呼ばれ、京都の年中行事の一つに数えられるほど盛大だった。1864年の蛤(はまぐり)御門の変で、二条の薬業街が焼失した時でさえも「神農尊の御神事滞りなく相済まし申候」との記録があり、祭りは例年通り行われたという。明治維新の後、一時中断されていたが、1880年に復興した。当時、欧州からも薬を輸入するようになっていたため、西洋の神様も必要とヒポクラテスを祖神に加え、1906年に現在の地に祠を移した。現在保管している神農像は、宇治市の黄檗山万福寺の隠元が持ち込んだものとされ、1858年のコレラ流行の時も、悪疫をはらったと伝わる。

東洞院通から衣棚通まで夜店が並び、ひしめき合うほどの人出だった「神農さん」も、今では夜店がなくなるくらいに衰退したとのこと。衰退した背景は50軒以上あった薬問屋も20年ほど前から大手企業に吸収合併され、10軒ほどに減ったというもの。祠の向かって左隣にあるのは江戸時代からの薬問屋で今でも現役。10軒ほどのうちの1軒なんだけれど、その歴史に驚く。「薬は健康管理にはなくてはならないもの。市民にもご利益は大きい」ので薬祖神祠を核にした町の活性化を期待しているというが、さて結果はいかに…。
さて、薬祖神祭は、明治天皇の誕生日にちなんで11月2、3日だったが、現在は第1金曜に改められた。神主を招いて神事を行い、神楽を奉納。参拝者には薬効のある笹の葉を配布。笹にはお守り袋と陶製のトラが取り付けられてある、とのことだ…今京都。










