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rrbのブログ - 2009/09/08のエントリ

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今京都 うつる 2009/09/08 12:00 am

つる
似合う。調和する。「その着物の柄は、ようウツッテますな」 物の姿がそっくり他の物に反映する、目に映ずるの意味から、よく似合うの意になった。年中行事の多彩な京都では、季節ごとに着物を新調する機会も多く、着物がウツルことを心掛けた。「京の着倒れ」というように、京都人は着物を買うのに金を惜しみなく使い、良い着物を多くそろえて持つことに生きがいを感じた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

ばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。

本釈迦堂 (旧フォトヴィレッジ 2007年4月29日掲載)
京都市上京区に通称「千本釈迦堂」がある。正式名は「大報恩寺」。この大報恩寺の本堂(釈迦堂)は、瑞応山と号する真言宗智山派の寺で、千本釈迦堂の名で知られている。承久3(1221)年、求法(ぐほう)上人義空(ぎくう)が、猫間中納言藤原光隆の臣、岸高から寄進を受けたこの地に小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起こりと言われている。当時は溝前町・老松町・柏清盛町の広大な敷地で、当初、倶舎・天台・真言三宗弘通(ぐずう)の道場。嘉禎元(1235)年堂塔伽藍を整え壮観を極めたが、応仁の乱をはじめ度々の災火のため堂宇を焼失してしまった。





その中で幾多の戦禍を奇跡的に逃れた本堂(釈迦堂)は、京都市街に現存する最古の本堂遺構で、国宝に指定されている。この千本釈迦堂には「夫のために命をなげうった計り知れない夫婦の愛の物語」が伝わる。本堂前に立つ江戸時代の石塔は「おかめ塚」と呼ばれ、夫婦や家庭の円満、建築の安全を願う人たちの信仰を集めている。隣で、おかめのブロンズ像(多福像)が穏やかにほほ笑んでいる。このブロンズ像は、「夫のために命をなげうった計り知れない夫婦の愛の物語」による。その物語は、度重なる戦火を逃れた国宝の本堂の建立が進む800年ほど前(鎌倉初期)に物語の舞台はさかのぼる。



本堂造営工事の現場を仕切るのは京の大工、長井飛騨守高次。その腕前を寺に買われた。高次はある日、信徒から寄進された貴重な柱1本を誤って寸法より短く切ってしまう。あちこち探しても、適当な材は手に入らない。その心痛の様子を見かねた妻「おかめ」が「切った木は戻らない。いっそ柱を全部短くして、斗組(とぐみ)を付けたら」と勧める。その言葉に「そうか、柱の上部に細長い材や四角い材を組み合わせて軒を支えよう」とひらめいた高次はやる気を取り戻し、軒や天井をより安定させる柱組みで本堂を仕上げ無事竣工させる。しかし、「おかめ」の心は晴れない。「妻の機転に救われたと世間に知れたら、夫の名声に傷がつく。」 女が夫の仕事に口をだしたこと、女の知恵で落成したことが分かっては夫の恥とばかりに上棟式を前に自害。嘆き悲しむ高次。亡き妻の顔や優しい心をお面に彫り込み、三本の扇子とともに棟札の上に掲げて、一緒に完成を祝い、冥福を祈った。という物語。



今日でも、上棟式の御幣に「おかめ」の面をつけて建築成就、厄難消滅、家業繁栄を祈る風習があるのはこの故事によるという。また、「おかめ」のお面は、かつては母親が嫁ぐ娘の荷物にそっと忍ばせた。今も新婚家庭に贈られる。



その「美人顔」に込められた徳とは…。張り出した額は、上ばかりを見て不満を言わずに感謝する徳。下がり目は、日々穏やかに暮らす徳。左右のほおより低い鼻は、両親を大事にする徳。そして、小さな口は多弁を慎む徳だという。ハネムーン直後の「成田離婚」に、定年間近の「熟年離婚」。昨今は、夫婦間の悲惨な殺人事件も世間を騒がせる。一寸先が分からない時代だけに穏やかなおかめと向き合い、心の鬼を変えなくてはならないのではないかと思う。


おかめブロンズ像に手を合わせる仲の良いお二人。いつまでも仲良く…ね

境内には「おかめ桜」がある。この桜3月下旬には咲き始める。残念ながら咲いているところは撮り損なった。地面すれすれに垂れ下がる枝は、着物の裾が流れるさまを映すという。本堂の西側にある観音堂は、明徳の乱において敗死した山名氏清(うじきよ)の菩提を弔うために足利義満が建てた北野経王堂願成就寺。北野経王堂願成就寺は、山名氏の強大化を懸念していた足利三代将軍義満が、1391(明徳2)年、氏清の弟・山名時義が領主を継いだ家中分裂に伴い山名時煕、山名氏幸の討伐令を下した。山名家一族の存続を危ぶんだ氏清は、山名義理、山名氏家らとともに令に叛いて兵をあげた。合戦は京都内野で行われ、有力守護大名によって編成された幕府軍の反攻に遭って、氏清は戦死した(明徳の乱)。



将軍義満は、その翌年、令に叛いたとはいえ、山名家の功労武勲を思い、氏清とその一族、また戦いに倒れた敵、味方兵士の追福のため、1100名の僧侶を集めて供養した。引き続き1401(応永8)年に北野社の社頭に、三十三間堂の倍半という大堂を建立し「北野経王堂願成就寺」と名付け10日間にわたって万部経会並びに経典書写などの仏事を行い供養した。この行事は「北野経会」と呼ばれる京の最大行事となり、代々の幕府によって踏襲された。この堂も江戸期に入り荒廃甚だしく遂に1671(寛文11)年に解体縮小されて小堂となった。このときに解体された遺構の木材が当寺に運ばれ縮小・復元されたのが、このお堂だという。このように数々の逸話がある、ここは千本釈迦堂…今京都。


 

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