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rrbのブログ - 2009/09のエントリ

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今京都 ごりがん 2009/09/05 12:00 am

りがん
ゴリガンは無理やりに自分の主張を押し通そうとすること、強引に無理を押し通してごてる人、ごり押しの頑固者のこと。ゴリガンのゴリは、ごり押しの略で、ガンは頑固者の「頑」。淡水魚のゴリ(ハゼ科)は京の名産。ゴリを捕らえるのに、ムシロを鴨川の浅瀬に伏せ、ムシロの上に多くの小石と土を敷き、ひとりが川下からゴリを追い、小石に隠れたゴリをふたりでムシロを持ち上げて取った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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安観世音 (旧フォトヴィレッジ 2007年3月18日掲載)
地蔵物語のビッグ版ともいえるかも知れないけれど、今出川通を斜めに横切る志賀越道の入り口に立つ高さ約2mの巨大な石仏。北白川の顔として地元住民だけでなく、広く市民に親しまれている。この石仏は、鎌倉時代中期ごろの作とされ、いくつかのエピソードの中でも、豊臣秀吉を負かしたことで有名。



そのエピソードとは、ある日、秀吉に気に入られ聚楽第(じゅらくだい)に連れ去られた。しかし「白川に戻せ〜」と毎夜うなり声を上げ、元の地に戻された。というもの。文政13(1830)年の白川村の大火では、両手と首がちぎれ「首切れ地蔵」と呼ばれた。その後、村の入口に当たる現在地に移され、子授けや安全の願いをかなえ、子どもの成長を守る観音として信仰を集めた。



かたわらにある看板には、「みちばたの 川にはさまれ 東むき あさひをうける 子安観音」という御詠歌が記されている。かつて志賀越道の脇には幅1.5mほどの川が流れ、挟まれて立っていた。東を向き、朝日を受ける姿を詠んでいるという。



京の町で四季の花を売り歩く「白川女」が早朝村を出ていく際には必ず花を供え、商売繁盛と一日の無事を祈たっり、出産間近でも行商に出る女性が多く途中で陣痛に襲われないように願ったという。時代とともに白川女は減り、今では10人ほどしかいないらしい。衣装を着て頭上に花を載せ、大八車を引く古来のスタイルはほとんど見られず、花を供えることも減ったという。実は、この日、「白川女」と出会えるかと期待したけれど、やはり無理だった。



さらに、この石仏は、数年前に走行中のトラックにぶつけられる事故に遭っている。胴体と頭部は丸太を使って別々の石で組み合わせた弱い構造だったため頭が転げ落ちた。その際、額を中心に表面が損傷し今もその部分だけは白くなっており、接着してセメントで塗り固めた痕跡が今でもはっきりと分かるのが痛々しい。しかし、「この石仏の周りでこれまで子どもが巻き込まれた交通事故は一度もない」という。



近くの久保田町西部・西町東部・西町西部の3町が輪番で世話をしている。毎月1日と15日は花を取り替え、絶やすことはない。ほこらは1953年に地元住民が浄財を出し合い、作った。「拾遺都名所図会」にも描かれているという…今京都。


 

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天を仰いで思うこと せんぐり 2009/09/04 12:00 am

んぐり
「セングリ車が通って危ない」「セングリ考えたけど、うまいこといきまへんな」 次から次へと、順々にの意味。先から先へと繰る「先繰り」から。もとはセングリニと言った。江戸時代後期ごろから、「ニ」を省いた。セングリセングリと、重ねていうこともある。「セングリセングリ用事が出来ましてな」「繰る」にはもと、引き寄せるの意味があり、順々に送り動かすことでもあった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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を仰いで思うこと



パンパンと神社でかしわ手を打ったり、鈴をじゃらじゃら鳴らしたりするのは、「どうか私の願いに耳を傾けてください。では申し上げますからね」というシグナル。さまざまな相談事や願い事を持ち込まれ、多忙を極める神仏。その注意をひき、自分の居場所を知らせるには大きな音が一番ということなのだろう。
今、「静かすぎて困る。もう少し音を出して存在をアピールして」と、注文されているものがある。それは、ハイブリッド車。エンジンとモーターを組み合わせて走るハイブリッド車。特にスタート時や低速時はモーターだけで走れるので、ほとんど音がしない。それが、住宅地の角を曲がったら目の前に車がいた、とか、自転車が、後ろから忍者のように接近してきた車に気づかず接触しそうになった、という事例があって、国土交通省や業界が対策に乗り出すこととなったらしい。



自動車の音問題といえば、騒音がうるさいというのが常識だ。テクノロジーの進展と開発者の努力が新たな音問題を生んだのだから皮肉なものだ。1910年代に「T型フォード」の量産が始まって以来、自動車メーカーはエンジンやタイヤの改良を続け、静かな車作りを目指してきた。最も静かなガソリンエンジン車が製造されたのは1960年ごろのことだったという。
しかし、60年代には、再びもっと大きな音のするのを作り始め、70年代にはデトロイトの製造業者は、自分たちの自動車の騒音増大を宣伝の呼び物にするようになった、というから驚きだ。70年代の雑誌には、高性能の怪獣。アクセルを踏めば、こいつは吠える。大型排気量と高圧縮比の導入で、エンジン騒音、吸入、排気騒音の増大が促進されます、といった広告が堂々と載った、という。
ラジオや音楽が聴きたいからリビングルーム並みの静かさが欲しいという人もいれば、飛ばしている感じがしない、と大きな音を求める若者らもいた。昔も今も、消費者の要望に応えることは容易でない。ハイブリッド車の静音対策は、人工音を出す装置を搭載するといった方向で検討されるようだ。将来、さらに静粛性に優れた電気自動車が普及すると、静音問題は一層「深刻」なものになる心配もある。ここで一定の方向性を示しておくことは重要だが、注目されるのは、どんな人工音が採用されるか、だ。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

今、街にはさまざまな電子音にあふれている。歩行者や自転車が「車が来た」とちゃんと判別できるものでないと意味がない。しかし、パンパン、ジャラジャラは採用されないだろう。昔、京都の路面電車には「電車がきまっせ、あぶのおっせ」と、電車の前を走って通行人に危険を知らせる「先走り」という少年(←クリック)がいた。初期の電車は時速約10kmと遅いので、直前を横切る人も多く、かえって危険なために、昼は旗、夜は提灯をもって少年が先を走ったのだとか。なんとものどかな雰囲気で微笑ましい感じがする。このことにヒントを得て、「車がきまっせ、あぶのおっせ」という電子音声はどうだろうか…と、天を仰いで思うこと。


 

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今京都 てったい 2009/09/03 12:00 am

ったい
手伝い。大工や左官の助手。「このごろテッタイやってます」 テッタイサンとも。土木関係の雇い人夫のことも呼ぶ。江戸時代の文政4(1821)年刊『浪花方言』には「手伝。江戸の仕事師のこと、大工の手伝也」とある。手伝うをテッタウということから。テッタイは「手のトビ(提供)」ということで、テトウは助ける、労力を提供して報償を予期すること。「ちょっとテットテンか」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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条戻橋(いちじょうもどりばし) (旧フォトヴィレッジ 2007年3月2日掲載)
西行き一方通行をひっきりなしに車が通る一条通堀川の戻橋。かつては出征する兵士が無事に帰還できるよう験を担いでここを渡った。婚礼や葬儀の一行は今も避けて通る。伝えられる不思議な話の数は京でも随一。その名は死者がよみがえった伝説に由来する。



平安中期の918年、文章博士の三善清行(みよしきよゆき)の葬列がこの橋にさしかかった時、修験道の修行から帰京した息子の浄蔵(じょうぞう)が父の棺と出会う。変わり果てた姿に浄蔵は「父の魂を戻してほしい」と一心に読経した。すると清行が息を吹き返し、親子は涙を流して喜んだ。以来、死者が戻る橋として現在の名がついた。



橋から約200m北の晴明神社とのかかわりも深い。浄蔵の時代から80年ほど後、陰陽師の安倍晴明は式神を屋敷そばの戻橋の下に潜ませ、予言や占いの際に操ったという。晴明の妻が式神が屋敷内にいるのを嫌がったため、橋の下の石棺に封じたとされる。都の内と外を隔てる地だったから霊的な物語が生まれやすかったのでは…と想像する。



堀川は、かつての内裏の東側外堀の役割を果たし、一条通は平安京の最も北の通りだった。都の鬼門である北東角に当たり、伝説が数多く生まれたとされる。晴明がここに住んだのも鬼門の守護のためだった。平安中期の伝承では、源頼光の家来、渡辺綱が戻橋で美女に化けた鬼と出会い、正体を見破って鬼の腕を切り落とした。鬼はその後、腕を取り返しに戻ってきたという。おどろおどろしい事件もあった。1591年、千利休がこの地に構えた屋敷で自害すると、その首は戻橋にさらされ、大徳寺にあった利休の木像で、首を踏みつけにしたとされる。


晴明神社境内に再現されているミニチュア版の「旧一條戻橋」

周辺で生まれ育った人々は「不気味な橋だったから子供にとっては面白い探検場所だったが、大人に『橋で遊んだ』と言うとえらい怒られた」と幼いころを語る。現在の橋は1995年に架け替えられた。大正時代から出征者を見送ってきた先代の橋は、親柱や木製欄干などを再利用したミニチュア版の「旧一條戻橋」として晴明神社境内に再現されている…今京都。


 

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天を仰いで思うこと ちょっとそこまで 2009/09/02 12:00 am

ょっとそこまで
近所の人が出掛けるのを見て「どこ行きどす」と話しかけると、「チョットソコマデ」と返事が返ってくる。それ以上、行き先を追求するつもりはない。チョットソコマデの「そこ」がどこかはっきりさせるわけではない。遠回しに表現するが、京ことばの特性の一つ。買い物に行って、店の釣り銭が違っていた時、「ちごうてます」と言わないで、「ちょっと足らんように思いますけど」と遠回しに言う。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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を仰いで思うこと
滋賀県に「芋競べ祭」という奇祭があると新聞に掲載されていた。東西二つの集落の若者が、それぞれの地区で育った里芋の長さを競い農作物の豊凶を占う神事。たわいもない競争のようだが、祭りは真剣極まりないというから驚きだ。集落で最も長い里芋を選び、洗い清めた石を敷き詰めた祭場に運び込む。長さを測った後も「西の芋より東の芋は5〜6丈も長い」「東の芋より西の芋は5〜6丈も長い」と譲らない。何度も測り直し、日が暮れても続いたことがあったとか。



真剣さの背景に両集落の対抗意識があるのはもちろんだが、かつて勝敗が水利権などに結びついていたためともされている。生活がかかった昔、より白熱したというのも無理はないことだろう。今年も祭りに向け、若者たちはいま所作の練習を続けているらしい。



さて、民主党の大勝で終えた衆院選。こちらは政権をかけての勝負だけに、どの党もいつもに増して真剣だった。互いに政策の優位を訴え続けていた。芋競べは両集落に緊張感を生み、地域に活力をもたらしたと評価される。政党間にみなぎる緊張感も大いに歓迎すべきことだろう。日本の政治に活力をもたらすのは間違いないことだろう。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

しかし、衆院選は芋競べとは別のものである。選挙の結果は国民全体の暮らし全般に直結する。政権交代の夢を果たした民主党。今後は、どうなっていくか、今まで以上の真剣さで政策を見極めねばならないかもしれない…と、天を仰いで思うこと。


 

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今京都 ひざぼん 2009/09/01 12:00 am

ざぼん
「ヒザボン擦りむいて痛い」 ひざ頭のこと。「膝坊主」を略した「膝坊」から。ヒザボシとも言う。「膝法師」に由来する。ひざ頭が法師の頭の形に似ていることによる。「ヒザボン談合」という諺がある。大変困っているときには、膝も相談相手になるという意味である。「膝とも談合」とも。誰にでも相談してみれば、それだけの効果があるというもの。談合を、昔はダンコウと発音した。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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月。今日から9月。暦の上では「秋」だ。「秋」という言葉は、実り豊かなイメージの奥に凋落(ちょうらく)の響きを宿す。「秋扇(しゅうせん)」といえば、夏には重宝された扇が、秋風とともに打ち捨てられて顧みられなくなる悲哀をいう。まだまだ残暑の厳しい日もあるだろうが、秋を出迎えに、どこかへ行ってみたいものだ。

祖神祠(やくそじんし) (旧フォトヴィレッジ 2007年2月23日掲載)
薬問屋が並ぶ二条通の一角にある祠(ほこら)「薬祖神祠」。ここには、なんと日本・中国・ギリシャの神が合祀(ごうし)されているという。大巳貴命(おおなむちのみこと)(大国主命(おおくにぬしのみこと))と小彦名命(すくなひこなのみこと)、中国の医薬の神様「神農」、西洋医学の父とされるギリシャの哲学者「ヒポクラテス」だという。京都では「一条戻り橋、二条きぐすり屋…」といわれるように、二条通は1600年ごろから薬の町として栄えた。



11月に行われる「薬祖神祭」は江戸後期に「薬師講」として始まったとされ、二条の薬業仲間が集まり酒を酌み交わした時に神農像などを祭ったという。この祭りは「二条の神農さん」と呼ばれ、京都の年中行事の一つに数えられるほど盛大だった。1864年の蛤(はまぐり)御門の変で、二条の薬業街が焼失した時でさえも「神農尊の御神事滞りなく相済まし申候」との記録があり、祭りは例年通り行われたという。明治維新の後、一時中断されていたが、1880年に復興した。当時、欧州からも薬を輸入するようになっていたため、西洋の神様も必要とヒポクラテスを祖神に加え、1906年に現在の地に祠を移した。現在保管している神農像は、宇治市の黄檗山万福寺の隠元が持ち込んだものとされ、1858年のコレラ流行の時も、悪疫をはらったと伝わる。



東洞院通から衣棚通まで夜店が並び、ひしめき合うほどの人出だった「神農さん」も、今では夜店がなくなるくらいに衰退したとのこと。衰退した背景は50軒以上あった薬問屋も20年ほど前から大手企業に吸収合併され、10軒ほどに減ったというもの。祠の向かって左隣にあるのは江戸時代からの薬問屋で今でも現役。10軒ほどのうちの1軒なんだけれど、その歴史に驚く。「薬は健康管理にはなくてはならないもの。市民にもご利益は大きい」ので薬祖神祠を核にした町の活性化を期待しているというが、さて結果はいかに…。
さて、薬祖神祭は、明治天皇の誕生日にちなんで11月2、3日だったが、現在は第1金曜に改められた。神主を招いて神事を行い、神楽を奉納。参拝者には薬効のある笹の葉を配布。笹にはお守り袋と陶製のトラが取り付けられてある、とのことだ…今京都。


 

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