rrbのブログ - 2008/07/31のエントリ
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眼高手低2008/07/31 12:06 am
がんこうしゅてい…眼識は高くても、実際の技術や能力が低いこと。また、望みは高くとも実力がそれに伴わないこと。
◇ちょっと予備知識 → 絵や文章などについて、目は肥えていて他人のものを批評するが、
自分でつくりあげる能力は備わっていない、などの場合に使う。
類義語に志大才疎(しだいさいそ)がある。
石川五右衛門 vol.3(最終回) vol.2はここ
安土桃山時代に大泥棒として名をはせた石川五右衛門の墓は、山鉾を模した「祗園閣」がそびえる大雲院の境内墓地にある。御影石に戒名を刻んだ高さ約2mの墓石は、角の所々が欠けている。一見、歴史を感じさせるようだが、実は人々が削って持ち帰った跡だといわれている。その大雲院を訪れた。

さて、墓石を削って、何のために持ち帰るか。墓は、以前に大雲院があった京都市下京区寺町通四条下ルの貞安前之町に、1979(昭和54)年まであった。当時、日中は誰でも出入りできた。墓石が削られたのは、そのころのことらしい。

理由は幾つか伝わる。
約50年前、手癖が悪い子を持つ母親が「五右衛門の墓石のかけらをお守りの中に入れると、悪い癖が治る」と耳にして、削りに来たことがあった。おそらく「希代の大泥棒」の反面教師を願ったのだろう。
また、心臓を患っていた中学生の母親が、完治を願って訪れたこともあった。数々の修羅場をくぐり抜けた五右衛門の「度胸」を頼みにしたのかもしれない。

さらには、賭け事に強くなるとも信じられている。この理由では、群馬県の養寿寺にある幕末の侠客(きょうきゃく)・国定忠治の墓碑も、博才にあやかろうとする人たちに削られているという。

効果のほどは定かではない。人に見られたら効果がなくなると信じられているので、削った皆さんはこっそりと持ち帰るというお話もある。ただ、養寿寺によると、効果どころか、碑を削って重病を患った人もいたというから、恐いものだ。

五右衛門の戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」といい、当時としては、社会に貢献した人や信仰のあつい人に付けられた位の高い戒名だという。理由は分からないが「ただの盗賊につける戒名ではない」のは確かなことのようだ。

義賊。時の権力者・豊臣秀吉に対抗した反体制派のヒーロー。時代を経て、五右衛門は歌舞伎の演目などで、さまざまな姿に伝説化されている。墓石を削りに来た人たちは、良くも悪くも歴史に名を残した五右衛門の「功績」に魅力を感じ、その「御利益」にあやかろうとしたのだろう。

大雲院は、現在は円山公園の南側(京都市東山区祇園町)にあるが、元は下京区の寺町通にあった。三条河原で極刑の釜煎(い)りに処される前に寺町通を引き回された石川五右衛門は、大雲院を開いた貞安上人(じょうあんしょうにん)に出会い、法を説かれて反省、感泣し、「処刑のあと、自分を供養してほしい」と願い出たとされている。また、織田信長公の墓もある。

いずれにしても石川五右衛門にまつわるお話は不思議なものが多い。石川五右衛門とは「天下の大泥棒」だったのか、それともただの「こそ泥」だったのか。はたまた、豊臣秀吉が統制のために生み出した架空の人物だったのか、謎が残る。歌舞伎に登場することから、ただの人物ではないような気もする…今京都。
※石川五右衛門で使用した写真は大雲院を訪問したときに撮ったもので、2008年7月29日の風景は「祗園閣」の上からのもの。


◇ちょっと予備知識 → 絵や文章などについて、目は肥えていて他人のものを批評するが、
自分でつくりあげる能力は備わっていない、などの場合に使う。
類義語に志大才疎(しだいさいそ)がある。
石川五右衛門 vol.3(最終回) vol.2はここ
安土桃山時代に大泥棒として名をはせた石川五右衛門の墓は、山鉾を模した「祗園閣」がそびえる大雲院の境内墓地にある。御影石に戒名を刻んだ高さ約2mの墓石は、角の所々が欠けている。一見、歴史を感じさせるようだが、実は人々が削って持ち帰った跡だといわれている。その大雲院を訪れた。

さて、墓石を削って、何のために持ち帰るか。墓は、以前に大雲院があった京都市下京区寺町通四条下ルの貞安前之町に、1979(昭和54)年まであった。当時、日中は誰でも出入りできた。墓石が削られたのは、そのころのことらしい。

理由は幾つか伝わる。
約50年前、手癖が悪い子を持つ母親が「五右衛門の墓石のかけらをお守りの中に入れると、悪い癖が治る」と耳にして、削りに来たことがあった。おそらく「希代の大泥棒」の反面教師を願ったのだろう。
また、心臓を患っていた中学生の母親が、完治を願って訪れたこともあった。数々の修羅場をくぐり抜けた五右衛門の「度胸」を頼みにしたのかもしれない。

さらには、賭け事に強くなるとも信じられている。この理由では、群馬県の養寿寺にある幕末の侠客(きょうきゃく)・国定忠治の墓碑も、博才にあやかろうとする人たちに削られているという。

効果のほどは定かではない。人に見られたら効果がなくなると信じられているので、削った皆さんはこっそりと持ち帰るというお話もある。ただ、養寿寺によると、効果どころか、碑を削って重病を患った人もいたというから、恐いものだ。

五右衛門の戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」といい、当時としては、社会に貢献した人や信仰のあつい人に付けられた位の高い戒名だという。理由は分からないが「ただの盗賊につける戒名ではない」のは確かなことのようだ。

義賊。時の権力者・豊臣秀吉に対抗した反体制派のヒーロー。時代を経て、五右衛門は歌舞伎の演目などで、さまざまな姿に伝説化されている。墓石を削りに来た人たちは、良くも悪くも歴史に名を残した五右衛門の「功績」に魅力を感じ、その「御利益」にあやかろうとしたのだろう。

大雲院は、現在は円山公園の南側(京都市東山区祇園町)にあるが、元は下京区の寺町通にあった。三条河原で極刑の釜煎(い)りに処される前に寺町通を引き回された石川五右衛門は、大雲院を開いた貞安上人(じょうあんしょうにん)に出会い、法を説かれて反省、感泣し、「処刑のあと、自分を供養してほしい」と願い出たとされている。また、織田信長公の墓もある。

いずれにしても石川五右衛門にまつわるお話は不思議なものが多い。石川五右衛門とは「天下の大泥棒」だったのか、それともただの「こそ泥」だったのか。はたまた、豊臣秀吉が統制のために生み出した架空の人物だったのか、謎が残る。歌舞伎に登場することから、ただの人物ではないような気もする…今京都。
※石川五右衛門で使用した写真は大雲院を訪問したときに撮ったもので、2008年7月29日の風景は「祗園閣」の上からのもの。




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