rrbのブログ - 2008/06/05のエントリ
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今京都 七歩之才 2008/06/05 12:06 am
しちほのさい…文才があるということ。詩や文章などを素早くつくることができること。
◇ちょっと予備知識 → 魏の曹植が兄に詩の才能をねたまれ、7歩歩く間に詩をつくらなければ死罪にすると
命じられ、その場ですばらしい詩をつくって兄をいさめたという故事から。
類義語に七歩成詩(しちほせいし)・七歩八叉(しちほはっさ)・八斗之才(はっとのさい)
がある。
銭湯物語(20)
前回の掲載は2007年5月15日だったから実に1年以上ぶりの銭湯物語。今回はちょっと逸話も交えての紹介。

時代はさかのぼって戦乱の世。東西両陣に分かれて10年もの戦いが続き、京の都をいちめんの焼け野原にしてしまった応仁の乱(1467〜1477)。
ところがその死闘の最中、日暮れて戦を中断すれば町風呂・町湯に出かけ、ひと汗流していたという。「合戦の休業日」には皆こぞって銭湯へ行き、敵味方がお風呂で出くわすこともしばしば。敵も味方も一緒になって談笑したなどと聞くと、昼間の殺し合いはいったい何と言いたくなる。

現代の戦争でもキリスト教国には「クリスマス休戦」なるものがあり、それなら最初から戦わなければいいのにと思っていたが、それをはるかにしのぐバスタイム休戦である。

京に町風呂・町湯が目立って増えたのは、南北朝の戦いから応仁の乱前後のことらしい。銭湯の営業開始を告げる「ほら貝」や「角笛」で町のあちこちで鳴り響いていた。当時の銭湯はいわば流行りで、庶民だけでなく、公家たちも通った。

お公家さんのためには「止湯(とめゆ)」や「合沐(ごうもく)」という貸し切りの入浴制度があって、きょうは「一条の風呂」「正親町(おおぎまち)の風呂」と神事の沐浴に用いたのだそうだ。

ところで、京の町風呂・町湯といわれるように、昔は「風呂」と「湯」が異なるものであった。
「風呂」とは蒸し風呂で、いまでいうサウナ。熱風で身体を蒸し、発汗させたのち、室外に備えた湯で身体を洗う。壬申の乱以来の歴史をもつ「八瀬のかま風呂」で知られるように、こちらは歴史が古い。

そしてもう一方の「湯」が、湯ぶねをもつ現在に近いかたちで、釜で沸かした湯を湯ぶねに引いたり、汲み入れたりした。しかし、大きな湯ぶねになみなみと湯を張るなどとは、昔は容易にできることはなかったと思う。

ひとくちに風呂といっても、このように二種類が混在していた。そういえば、現在でも京の銭湯は「湯」という看板はあげているが、「風呂」とはどこにも書かれていない。しっかりと呼称の伝統を受け継いでいる。
ちなみに江戸時代の秀でたタウンガイド「京羽二重」より「風呂屋」情報を調べてみると、掲載は洛中18軒。うち「丁字(ちょうじ)風呂」2軒、「釜風呂」4軒、「塩風呂」3軒などとなっている。どうも塩風呂が気になる…今京都。


◇ちょっと予備知識 → 魏の曹植が兄に詩の才能をねたまれ、7歩歩く間に詩をつくらなければ死罪にすると
命じられ、その場ですばらしい詩をつくって兄をいさめたという故事から。
類義語に七歩成詩(しちほせいし)・七歩八叉(しちほはっさ)・八斗之才(はっとのさい)
がある。
銭湯物語(20)
前回の掲載は2007年5月15日だったから実に1年以上ぶりの銭湯物語。今回はちょっと逸話も交えての紹介。

時代はさかのぼって戦乱の世。東西両陣に分かれて10年もの戦いが続き、京の都をいちめんの焼け野原にしてしまった応仁の乱(1467〜1477)。
ところがその死闘の最中、日暮れて戦を中断すれば町風呂・町湯に出かけ、ひと汗流していたという。「合戦の休業日」には皆こぞって銭湯へ行き、敵味方がお風呂で出くわすこともしばしば。敵も味方も一緒になって談笑したなどと聞くと、昼間の殺し合いはいったい何と言いたくなる。

現代の戦争でもキリスト教国には「クリスマス休戦」なるものがあり、それなら最初から戦わなければいいのにと思っていたが、それをはるかにしのぐバスタイム休戦である。

京に町風呂・町湯が目立って増えたのは、南北朝の戦いから応仁の乱前後のことらしい。銭湯の営業開始を告げる「ほら貝」や「角笛」で町のあちこちで鳴り響いていた。当時の銭湯はいわば流行りで、庶民だけでなく、公家たちも通った。

お公家さんのためには「止湯(とめゆ)」や「合沐(ごうもく)」という貸し切りの入浴制度があって、きょうは「一条の風呂」「正親町(おおぎまち)の風呂」と神事の沐浴に用いたのだそうだ。

ところで、京の町風呂・町湯といわれるように、昔は「風呂」と「湯」が異なるものであった。
「風呂」とは蒸し風呂で、いまでいうサウナ。熱風で身体を蒸し、発汗させたのち、室外に備えた湯で身体を洗う。壬申の乱以来の歴史をもつ「八瀬のかま風呂」で知られるように、こちらは歴史が古い。

そしてもう一方の「湯」が、湯ぶねをもつ現在に近いかたちで、釜で沸かした湯を湯ぶねに引いたり、汲み入れたりした。しかし、大きな湯ぶねになみなみと湯を張るなどとは、昔は容易にできることはなかったと思う。

ひとくちに風呂といっても、このように二種類が混在していた。そういえば、現在でも京の銭湯は「湯」という看板はあげているが、「風呂」とはどこにも書かれていない。しっかりと呼称の伝統を受け継いでいる。
ちなみに江戸時代の秀でたタウンガイド「京羽二重」より「風呂屋」情報を調べてみると、掲載は洛中18軒。うち「丁字(ちょうじ)風呂」2軒、「釜風呂」4軒、「塩風呂」3軒などとなっている。どうも塩風呂が気になる…今京都。



