rrbのブログ - 2010/04/19のエントリ
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天を仰いで思うこと ひらのはっこーあれじまい 2010/04/19 12:00 am
ひらのはっこーあれじまい
比良の八講 荒れ終い。3月下旬、比良山から吹く冬の風も荒れ終りで、それからの京都は暖かくなる。「もうそろそろヒラノハッコーアレジマイやし、京の底冷えもしまい(終り)どすな」 比良八講は、平安時代、比叡山延暦寺の僧侶たちが比良山中で始めた法会。今でも大津市内では3月26日に比叡山の僧侶や山伏たちがほら貝を吹き、練り歩く行事がある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
桜

変わらないものがあると心が安らぐ。先行きが不透明でせわしない日々が続けば、なおさらだ。桜の歌はそんな一つ。春になると若いミュージシャンがこぞって発表し、ヒット曲が生まれる。曲名も歌手名も知らないけれど、哀愁を帯びたメロディーと心象風景をとらえた詞が、毎年気にかかる。平安の時代から桜は花の代名詞となり、多くの歌人が詠んできた。うれし涙があふれ出す時のような満開の風情と散り際の潔さが日本人の心に共鳴するからだ。その延長線に若者の桜ソングがある。いにしえ人が愛でた桜はソメイヨシノより地味なヤマザクラで、人里離れた山が歌の舞台になった。

「もろともにあはれと思え山桜花よりほかに知る人もなし」(行尊)のように花びらの散る様を仏教の無常と結びつけて歌にした。西行は花の歌人と呼ばれるほど桜をこよなく愛した。「願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」。若くして野に下り、行脚の道を貫いた末の達観がにじむ。心に映る美しさは不変でも、時代時代で桜に託した人の思いは変容してきた。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
平成の京の名所は花見というより人を見に行くようなものだが人気は衰えない。「さまざまのこと思い出す桜かな」。芭蕉の一句が思い浮かぶ。老後の生きがい、長引く不況、就職氷河期…。このにぎわいが多様化社会の孤独の裏返しではなく、つながりの始まりであればと願う。気がつけば、桜も終わっている。道に散った桜を見て、今年、全く桜を撮っていなかったことに気がついた。そろそろ、カメラを持って出かけたい…と、天を仰いで思うこと。

比良の八講 荒れ終い。3月下旬、比良山から吹く冬の風も荒れ終りで、それからの京都は暖かくなる。「もうそろそろヒラノハッコーアレジマイやし、京の底冷えもしまい(終り)どすな」 比良八講は、平安時代、比叡山延暦寺の僧侶たちが比良山中で始めた法会。今でも大津市内では3月26日に比叡山の僧侶や山伏たちがほら貝を吹き、練り歩く行事がある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
桜

変わらないものがあると心が安らぐ。先行きが不透明でせわしない日々が続けば、なおさらだ。桜の歌はそんな一つ。春になると若いミュージシャンがこぞって発表し、ヒット曲が生まれる。曲名も歌手名も知らないけれど、哀愁を帯びたメロディーと心象風景をとらえた詞が、毎年気にかかる。平安の時代から桜は花の代名詞となり、多くの歌人が詠んできた。うれし涙があふれ出す時のような満開の風情と散り際の潔さが日本人の心に共鳴するからだ。その延長線に若者の桜ソングがある。いにしえ人が愛でた桜はソメイヨシノより地味なヤマザクラで、人里離れた山が歌の舞台になった。

「もろともにあはれと思え山桜花よりほかに知る人もなし」(行尊)のように花びらの散る様を仏教の無常と結びつけて歌にした。西行は花の歌人と呼ばれるほど桜をこよなく愛した。「願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」。若くして野に下り、行脚の道を貫いた末の達観がにじむ。心に映る美しさは不変でも、時代時代で桜に託した人の思いは変容してきた。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
平成の京の名所は花見というより人を見に行くようなものだが人気は衰えない。「さまざまのこと思い出す桜かな」。芭蕉の一句が思い浮かぶ。老後の生きがい、長引く不況、就職氷河期…。このにぎわいが多様化社会の孤独の裏返しではなく、つながりの始まりであればと願う。気がつけば、桜も終わっている。道に散った桜を見て、今年、全く桜を撮っていなかったことに気がついた。そろそろ、カメラを持って出かけたい…と、天を仰いで思うこと。

