rrbのブログ - 2008/12のエントリ
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今京都 私利私欲 2008/12/21 12:00 am
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今京都 諸説紛紛 2008/12/20 12:00 am
しょてつふんぷん…さまざまな説や意見が入り乱れて収拾がつかないこと。また、一つの問題に対して噂がいろいろあって真実がつかめないこと。
◇ちょっと予備知識 → 「紛紛」は糸が乱れ、もつれるようす。「粉粉」と書くのは誤り。
類義語に議論百出(ぎろんひゃくしゅつ)・甲論乙駁(こうろんおつぱく)・
紛紛聚訴(ふんぷんしゅうそ)がある。
能楽発祥の地 新熊野神社(いまくまのじんじゃ) vol.2(最終回) vol.1はここ
「能」の文字が刻まれた石碑もある。1980(昭和55)年、能楽の発展を祈願して建立された。「能」の文字は世阿弥の直筆で、著書「花鏡」の中から選ばれた。
隣に立つ碑文には歴史学者で京都大名誉教授の故林屋辰三郎さんの名が刻まれている。
父子が猿楽を演じた当時、新熊野神社の境内は現在の何倍も広かったため、実際にどこで舞ったのかは定かでない。世阿弥が著した「花伝書」には「新熊野」と記されているだけだという。
今熊野地域には、新日吉神宮と今熊野観音寺もあり、以前はそれぞれ能楽発祥の地と主張して論争があったそうだ。この論争に決着をつけたのが、室町時代を中心とする町衆の研究に携わった林屋さんだったという。
現在は京都府内だけでなく、東京からも日本舞踊や演劇、バレエに励む人々が、能面をあしらったお守りを買いに訪れる。能舞台の跡はあるのだろうか?と探したが、当時の猿楽は今でいう大道芸に近く舞台を必要としなかったので、舞台はないということだ。
新熊野神社は京阪電鉄七条駅から東へ徒歩10分。境内には、創建当時、後白河上皇が熊野から移植したと伝わる樹齢約900年のクスノキもがある。毎年10月15日には「大樟祭」が営まれ、優雅な舞楽が奉納されるという…今京都。
◇ちょっと予備知識 → 「紛紛」は糸が乱れ、もつれるようす。「粉粉」と書くのは誤り。
類義語に議論百出(ぎろんひゃくしゅつ)・甲論乙駁(こうろんおつぱく)・
紛紛聚訴(ふんぷんしゅうそ)がある。
能楽発祥の地 新熊野神社(いまくまのじんじゃ) vol.2(最終回) vol.1はここ
「能」の文字が刻まれた石碑もある。1980(昭和55)年、能楽の発展を祈願して建立された。「能」の文字は世阿弥の直筆で、著書「花鏡」の中から選ばれた。
隣に立つ碑文には歴史学者で京都大名誉教授の故林屋辰三郎さんの名が刻まれている。
父子が猿楽を演じた当時、新熊野神社の境内は現在の何倍も広かったため、実際にどこで舞ったのかは定かでない。世阿弥が著した「花伝書」には「新熊野」と記されているだけだという。
今熊野地域には、新日吉神宮と今熊野観音寺もあり、以前はそれぞれ能楽発祥の地と主張して論争があったそうだ。この論争に決着をつけたのが、室町時代を中心とする町衆の研究に携わった林屋さんだったという。
現在は京都府内だけでなく、東京からも日本舞踊や演劇、バレエに励む人々が、能面をあしらったお守りを買いに訪れる。能舞台の跡はあるのだろうか?と探したが、当時の猿楽は今でいう大道芸に近く舞台を必要としなかったので、舞台はないということだ。
新熊野神社は京阪電鉄七条駅から東へ徒歩10分。境内には、創建当時、後白河上皇が熊野から移植したと伝わる樹齢約900年のクスノキもがある。毎年10月15日には「大樟祭」が営まれ、優雅な舞楽が奉納されるという…今京都。
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今京都 初志貫徹 2008/12/19 12:00 am
しょしかんてつ…志を最後まで変えることなく、貫き通すこと。最初に持った信念を最後まで抱き続けること。初心忘れるべからず。
◇ちょっと予備知識 → 「貫徹」を「完徹」と書くのは誤り。
能楽発祥の地 新熊野神社(いまくまのじんじゃ) vol.1
新熊野神社は1160年、当時の最高権力者だった後白河上皇が平清盛に命じ、紀州の熊野権現を勧請して創建した。
能楽の祖である観阿弥、世阿弥が「新熊野神事猿楽」と銘打ってこの神社で猿楽を披露したのは1374年。父子はそれまで、大和地方の結崎(現在の奈良県川西町結崎)で「結崎座」を結成し、猿楽を演じていた。
当時はまだ藤若丸と称していた12歳の世阿弥は、旧来のしきたりにとらわれず、見事に「翁」を舞った。初めて猿楽を見物した室町幕府三代将軍の足利義満は二人の至芸に感激して父子を同朋衆に加え、観阿弥、世阿弥と名乗らせた。
将軍の援助と寵愛を受けた世阿弥は、父の志を継ぎ、猿楽の芸術性を高めるため研究を重ねた。猿楽はやがて能楽へと磨きあげられ、室町幕府の儀式に用いられる式楽として採用された。
以来、新熊野神社は芸能上達の神として知られるようになった。
境内には、全国の謡曲の舞台となった場所の保存を進める謡曲史跡保存会が「能楽大成、機縁の地」と記した説明板が立つ…今京都。(続く)
◇ちょっと予備知識 → 「貫徹」を「完徹」と書くのは誤り。
能楽発祥の地 新熊野神社(いまくまのじんじゃ) vol.1
新熊野神社は1160年、当時の最高権力者だった後白河上皇が平清盛に命じ、紀州の熊野権現を勧請して創建した。
能楽の祖である観阿弥、世阿弥が「新熊野神事猿楽」と銘打ってこの神社で猿楽を披露したのは1374年。父子はそれまで、大和地方の結崎(現在の奈良県川西町結崎)で「結崎座」を結成し、猿楽を演じていた。
当時はまだ藤若丸と称していた12歳の世阿弥は、旧来のしきたりにとらわれず、見事に「翁」を舞った。初めて猿楽を見物した室町幕府三代将軍の足利義満は二人の至芸に感激して父子を同朋衆に加え、観阿弥、世阿弥と名乗らせた。
将軍の援助と寵愛を受けた世阿弥は、父の志を継ぎ、猿楽の芸術性を高めるため研究を重ねた。猿楽はやがて能楽へと磨きあげられ、室町幕府の儀式に用いられる式楽として採用された。
以来、新熊野神社は芸能上達の神として知られるようになった。
境内には、全国の謡曲の舞台となった場所の保存を進める謡曲史跡保存会が「能楽大成、機縁の地」と記した説明板が立つ…今京都。(続く)
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今京都 諸行無常 2008/12/18 12:00 am
しょぎょうむじょう…世の中のすべては常に変化して、永久不変なものはないということ。
◇ちょっと予備知識 → 仏教語。「諸行」はこの世の万物、宇宙のありとあらゆるもの。
「諸行」を「諸業」、「無常」を「無情」と書くのは誤り。
類義語に有為転変(ういてんぺん)・有為無常(ういむじょう)・
万物流転(ばんぶつるてん)がある。
お試し
平安神宮は1895(明治28)年に平安遷都1100年を記念して建てられた。京都にあっては意外に新しい建物だ。有名だけれど新しいことから、世界文化遺産などに指定されていない。これも意外である。
その年に行われた博覧会の目玉パビリオンとして、建築家の伊藤忠太が平安京の朝堂院を8分5スケールで蘇らせた。博覧会が終わった後に、桓武天皇と孝明天皇をまつる神社として残されたものが今の平安神宮となった。
8分の5モデルということは、元の建物というのは相当に大きかったということになる。今の大極殿の前でも、その大きさに目を見張る観光客の姿を見ることができる。なんとスケールの大きいことか。
現代のようにビルのない時代に、朱塗りの鮮やかな朝堂院の姿を初めて見た人の驚きようはいかなるものか。
そんな平安神宮の横にいつも構えているのがこの露店。営業はマチマチなんだけれど、いつも構えはある。特に覘いたことはない。いつかは覘こうと思うが、いつになることやら。今回は少し趣向を変えて掲載してみた。お試し掲載…今京都。
◇ちょっと予備知識 → 仏教語。「諸行」はこの世の万物、宇宙のありとあらゆるもの。
「諸行」を「諸業」、「無常」を「無情」と書くのは誤り。
類義語に有為転変(ういてんぺん)・有為無常(ういむじょう)・
万物流転(ばんぶつるてん)がある。
お試し
平安神宮は1895(明治28)年に平安遷都1100年を記念して建てられた。京都にあっては意外に新しい建物だ。有名だけれど新しいことから、世界文化遺産などに指定されていない。これも意外である。
その年に行われた博覧会の目玉パビリオンとして、建築家の伊藤忠太が平安京の朝堂院を8分5スケールで蘇らせた。博覧会が終わった後に、桓武天皇と孝明天皇をまつる神社として残されたものが今の平安神宮となった。
8分の5モデルということは、元の建物というのは相当に大きかったということになる。今の大極殿の前でも、その大きさに目を見張る観光客の姿を見ることができる。なんとスケールの大きいことか。
現代のようにビルのない時代に、朱塗りの鮮やかな朝堂院の姿を初めて見た人の驚きようはいかなるものか。
そんな平安神宮の横にいつも構えているのがこの露店。営業はマチマチなんだけれど、いつも構えはある。特に覘いたことはない。いつかは覘こうと思うが、いつになることやら。今回は少し趣向を変えて掲載してみた。お試し掲載…今京都。
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今京都 情緒纏綿 2008/12/17 12:00 am
じょうちょてんめん…情けが深く、離れがたいこと。さまざまな情がまとわりついて離れないさま。
◇ちょっと予備知識 → 「情緒」は、しみじみとした趣や雰囲気。
本来は「じょうしょ」と読むが、現在では「じょうちょ」が一般的。
「纏綿」は、いつまでもまといついて離れないさま。
よろい掛けの松 vol.2(最終回) vol.1はここ
当時のよろい掛けの松は枯れたため、今の松は二代目となる。3m以上の高さで、横方向にもその倍はあろうかという枝ぶりに目を見張る。
その昔は、この地で直実が出家したことを広く知らしめる意味も込めて、よろいが掛けられていたという枝に、カラスの人形が置かれていたという。
松から少し下った場所に、直実(蓮生)を開基とする蓮池院(熊谷堂)が立つ。
堂内には、真っすぐに前を見据え、法衣に身を包んだ直実と、まだ16歳で幼さの残る敦盛の像が並んで安置されているという。
よろい掛けの松は、京都市指定の保存樹で、御影堂の横に位置する。よろいを洗ったとされる池も境内にある。
直実は「新しい発想のできる人だった」という。「食うか食われるか」直実が生きた戦国の世と、競争社会の現代は、時代が似ている。そんな今こそ、蓮生師のような考え方ができる人がいたらいいんじゃないかと思う…今京都。
◇ちょっと予備知識 → 「情緒」は、しみじみとした趣や雰囲気。
本来は「じょうしょ」と読むが、現在では「じょうちょ」が一般的。
「纏綿」は、いつまでもまといついて離れないさま。
よろい掛けの松 vol.2(最終回) vol.1はここ
当時のよろい掛けの松は枯れたため、今の松は二代目となる。3m以上の高さで、横方向にもその倍はあろうかという枝ぶりに目を見張る。
その昔は、この地で直実が出家したことを広く知らしめる意味も込めて、よろいが掛けられていたという枝に、カラスの人形が置かれていたという。
松から少し下った場所に、直実(蓮生)を開基とする蓮池院(熊谷堂)が立つ。
堂内には、真っすぐに前を見据え、法衣に身を包んだ直実と、まだ16歳で幼さの残る敦盛の像が並んで安置されているという。
よろい掛けの松は、京都市指定の保存樹で、御影堂の横に位置する。よろいを洗ったとされる池も境内にある。
直実は「新しい発想のできる人だった」という。「食うか食われるか」直実が生きた戦国の世と、競争社会の現代は、時代が似ている。そんな今こそ、蓮生師のような考え方ができる人がいたらいいんじゃないかと思う…今京都。