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今京都 一罰百戒 2008/06/09 12:05 am
いちばつひゃっかい…見せしめのため、最初の一人を厳しく罰すること。一人を罰することで、ほかの多くの人々が同じ罪を犯さないように戒めとすること。
◇ちょっと予備知識 → 一つの罰で百人の戒めにすることから。
町並み
地蔵物語(174)
◇ちょっと予備知識 → 一つの罰で百人の戒めにすることから。
町並み
地蔵物語(174)
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今京都 狐疑逡巡 2008/06/08 12:04 pm
こぎしゅんじゅん…疑い深く、なかなか決心がつかないこと。いつまでも決断せず、ぐずぐずすること。
◇ちょっと予備知識 → きつねは凍った川を渡るときに、その下に水が流れているかどうか確かめつつ、
用心しながら歩くということから、そのように疑い深く慎重なこと。
類義語に狐疑不決(こぎふけつ)・遅疑逡巡(ちぎしゅんじゅん)・右顧左眄(うこさべん)・
首鼠両端(しゅそりょうたん)がある。
町並み
地蔵物語(173)
◇ちょっと予備知識 → きつねは凍った川を渡るときに、その下に水が流れているかどうか確かめつつ、
用心しながら歩くということから、そのように疑い深く慎重なこと。
類義語に狐疑不決(こぎふけつ)・遅疑逡巡(ちぎしゅんじゅん)・右顧左眄(うこさべん)・
首鼠両端(しゅそりょうたん)がある。
町並み
地蔵物語(173)
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今京都 堅忍不抜 2008/06/07 12:05 am
けんにんふばつ…意志が堅く、どんな困難にもじっと堪え忍んで心を動かさないこと。
◇ちょっと予備知識 → 「堅忍」は意志が堅く、我慢強いこと。
「不抜」は堅くて抜けないもののように、心がぐつかないこと。
類義語に堅忍持久(けんにんじきゅう)・堅苦卓絶(けんくたくぜつ)・
志操堅固(しそうけんご)・鉄心石腸(てっしんせきちょう)がある。
銭湯物語(22)
銭湯ひとつでも色々な逸話があるものだ。今回は社会学者の研究まである京の銭湯のお話を。ちょっと固いでだしだけれど、これも京の銭湯のお話なのでかんにん。さて、そのお話とは、京都の銭湯は石川県出身者が多いということ。
1991(平成3)年といういささか古いデータで申し訳ないが、京都府下の銭湯は約70%が石川県人で占められているという。そして京都ばかりか、大阪府下では約50%、兵庫県下でも奈良県下でも占める割合は多いという。
関東でも石川県人は頑張っているという。もっとも東京では新潟、富山県人のほうが多く、石川県人はそれに次ぐ第3位で約25%。神奈川県では約50%となっているらしい。千葉県でも約35%というから、日本の大都市の銭湯はあきらかに石川県人を筆頭に北陸人が支えているといえる。中でも京都は70%とその割合はダントツである。
なぜ、石川県人が多いかという理由はいくつかあるようだが、雪の多い北陸には出稼ぎの習慣があり、酒造りの杜氏らが出稼ぎ先の京都にとどまって開業したのがはじまりといわれている。おまけに重労働の銭湯の仕事に、郷里の地縁・血縁者を呼び寄せ、彼らが所帯をもち、経験を積んで独立開業する。さらに同郷の若者を呼び寄せるという循環が定着して安心して働きに出られる就職ルートが確立したのではないというのが一番強い説である。
銭湯の組合や業界団体でも石川県出身者の連帯感は強く、石川県内でもその出身地域別にきめ細やかな同郷団体が結成されているという。それが心の支えとなり、また経営上の情報交流になり、地縁血縁ネットワークはさらに張り巡らされていく。
入手した平成14年11月時点の京都府下の銭湯経営者273人のうち「○出さん」という姓の方は約10人。「中出さん」の三人がもっとも多く、「東出」「西出」「北出」「上出」「山出」となっている。各都市に出てきたら「○出さん」なのだろうかとも気になるが…ともかく「○出さん」という姓が多いようだ。
一昨日から「銭湯物語」を一気に連載した。そもそも銭湯の始まりは、平安時代末の京。鎌倉時代になると僧侶達が身を清める為に、寺社に設置されていた「浴堂」を一般にも無料で開放する寺社が現れて、やがて荘園制度が崩壊すると入浴料をとるようになり、これが本格的な銭湯の始まりと言われている。つまり、「京都は銭湯の発祥の地」なので、銭湯ひとつでもこれだけのお話がある。
さて、「銭湯物語」は今回で一応の終末としたい。再開するかどうか不明だけれど、ひとまず、しばし休憩の「銭湯物語」…今京都。
◇ちょっと予備知識 → 「堅忍」は意志が堅く、我慢強いこと。
「不抜」は堅くて抜けないもののように、心がぐつかないこと。
類義語に堅忍持久(けんにんじきゅう)・堅苦卓絶(けんくたくぜつ)・
志操堅固(しそうけんご)・鉄心石腸(てっしんせきちょう)がある。
銭湯物語(22)
銭湯ひとつでも色々な逸話があるものだ。今回は社会学者の研究まである京の銭湯のお話を。ちょっと固いでだしだけれど、これも京の銭湯のお話なのでかんにん。さて、そのお話とは、京都の銭湯は石川県出身者が多いということ。
1991(平成3)年といういささか古いデータで申し訳ないが、京都府下の銭湯は約70%が石川県人で占められているという。そして京都ばかりか、大阪府下では約50%、兵庫県下でも奈良県下でも占める割合は多いという。
関東でも石川県人は頑張っているという。もっとも東京では新潟、富山県人のほうが多く、石川県人はそれに次ぐ第3位で約25%。神奈川県では約50%となっているらしい。千葉県でも約35%というから、日本の大都市の銭湯はあきらかに石川県人を筆頭に北陸人が支えているといえる。中でも京都は70%とその割合はダントツである。
なぜ、石川県人が多いかという理由はいくつかあるようだが、雪の多い北陸には出稼ぎの習慣があり、酒造りの杜氏らが出稼ぎ先の京都にとどまって開業したのがはじまりといわれている。おまけに重労働の銭湯の仕事に、郷里の地縁・血縁者を呼び寄せ、彼らが所帯をもち、経験を積んで独立開業する。さらに同郷の若者を呼び寄せるという循環が定着して安心して働きに出られる就職ルートが確立したのではないというのが一番強い説である。
銭湯の組合や業界団体でも石川県出身者の連帯感は強く、石川県内でもその出身地域別にきめ細やかな同郷団体が結成されているという。それが心の支えとなり、また経営上の情報交流になり、地縁血縁ネットワークはさらに張り巡らされていく。
入手した平成14年11月時点の京都府下の銭湯経営者273人のうち「○出さん」という姓の方は約10人。「中出さん」の三人がもっとも多く、「東出」「西出」「北出」「上出」「山出」となっている。各都市に出てきたら「○出さん」なのだろうかとも気になるが…ともかく「○出さん」という姓が多いようだ。
一昨日から「銭湯物語」を一気に連載した。そもそも銭湯の始まりは、平安時代末の京。鎌倉時代になると僧侶達が身を清める為に、寺社に設置されていた「浴堂」を一般にも無料で開放する寺社が現れて、やがて荘園制度が崩壊すると入浴料をとるようになり、これが本格的な銭湯の始まりと言われている。つまり、「京都は銭湯の発祥の地」なので、銭湯ひとつでもこれだけのお話がある。
さて、「銭湯物語」は今回で一応の終末としたい。再開するかどうか不明だけれど、ひとまず、しばし休憩の「銭湯物語」…今京都。
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今京都 付和雷同 2008/06/06 12:07 am
ふわらいどう…しっかりとした自分の主張を持たず、軽々しく他人の意見に同調すること。周囲の意見に流されやすいこと。
◇ちょっと予備知識 → 「雷同」は、雷が鳴ると物がそれに共鳴するように、やたらに他人に同調すること。
「雷同付和」ともいう。
類義語に阿付雷同(あふらいどう)・付和随行(ふわずいこう)・唯唯諾諾(いいだくだく)・
吠影吠声(はいえいはいせい)がある。
銭湯物語(21)
京都市北区紫野にある銭湯「船岡温泉」が国の有形文化財に登録されている。「銭湯では三例目」ということだが、先の二例は大阪の銭湯だそうだ。
「船岡温泉」といえば、玄関に唐破風(からはふ)を備えた古風で格調高い銭湯として、西陣ではよく知られている。もともとは料理旅館「船岡楼」として、1923(大正12)年に建てられたのだそうだ。1947(昭和22)年に旅館を廃業したのち、鞍馬口通の銭湯として今日にいたっている。
この銭湯、脱衣場の格天井では、極彩色の浮き彫り鞍馬天狗が高い鼻をぶら下げ、牛若丸に剣術を教えている。それより何よりスゴイのは欄間の手の込んだ透かし彫りである。思わず見とれてぐるりを見渡すと透かし彫りにされたテーマはやすらい祭り、賀茂の競馬、葵祭など京の伝統祭事があれば、唐突に肉弾三勇士がいる、近江八景もあると圧倒される…らしい。
ところで、銭湯になぜ唐破風をつけるのか。
1873(明治6)年、祇園円山公園にお目見えした日本初のヘルスセンター「吉水温泉」も玄関は唐破風造であったという。この因果関係は京都だけのことではない。「坊ちゃん」で知られる松山の道後温泉は1894(明治27)年の木造三層楼建築。ここでも正面の瓦葺屋根が唐破風になっている。
銭湯研究家によると、現在は東京の銭湯にむしろ堂々たる唐破風が多く見られるそうだ。
銭湯の歴史は昨日の「町風呂と町湯」でも触れたが、その起源は仏教伝来までさかのぼる。
奈良の寺院には仏像をお湯で洗ったり、僧が入るための「温室」(写真は京都)があった。やがて庶民への「施浴(せよく)」を行う宗教的な大湯屋へ。これが世俗化して平安末期以降、湯屋が京の町に登場するようになるが、いっぽう13世紀以降の禅宗寺院では「浴堂(よくどう)」が伽藍配置の重要な一角を占めるようになった。
古くは奈良・東大寺の大湯屋にある風呂屋形(蒸し風呂)、京都では東福寺の浴室、西本願寺飛運閣の黄鶴台浴室など、いずれもそこには唐破風を見ることができる。
かつて入浴は宗教的行為であった。その初心を日本人はいまだ引きずっているのか、銭湯研究家の間では「銭湯の唐破風は、寺院浴堂のパロディだった」などといわれているそうである…今京都。
◇ちょっと予備知識 → 「雷同」は、雷が鳴ると物がそれに共鳴するように、やたらに他人に同調すること。
「雷同付和」ともいう。
類義語に阿付雷同(あふらいどう)・付和随行(ふわずいこう)・唯唯諾諾(いいだくだく)・
吠影吠声(はいえいはいせい)がある。
銭湯物語(21)
京都市北区紫野にある銭湯「船岡温泉」が国の有形文化財に登録されている。「銭湯では三例目」ということだが、先の二例は大阪の銭湯だそうだ。
「船岡温泉」といえば、玄関に唐破風(からはふ)を備えた古風で格調高い銭湯として、西陣ではよく知られている。もともとは料理旅館「船岡楼」として、1923(大正12)年に建てられたのだそうだ。1947(昭和22)年に旅館を廃業したのち、鞍馬口通の銭湯として今日にいたっている。
この銭湯、脱衣場の格天井では、極彩色の浮き彫り鞍馬天狗が高い鼻をぶら下げ、牛若丸に剣術を教えている。それより何よりスゴイのは欄間の手の込んだ透かし彫りである。思わず見とれてぐるりを見渡すと透かし彫りにされたテーマはやすらい祭り、賀茂の競馬、葵祭など京の伝統祭事があれば、唐突に肉弾三勇士がいる、近江八景もあると圧倒される…らしい。
ところで、銭湯になぜ唐破風をつけるのか。
1873(明治6)年、祇園円山公園にお目見えした日本初のヘルスセンター「吉水温泉」も玄関は唐破風造であったという。この因果関係は京都だけのことではない。「坊ちゃん」で知られる松山の道後温泉は1894(明治27)年の木造三層楼建築。ここでも正面の瓦葺屋根が唐破風になっている。
銭湯研究家によると、現在は東京の銭湯にむしろ堂々たる唐破風が多く見られるそうだ。
銭湯の歴史は昨日の「町風呂と町湯」でも触れたが、その起源は仏教伝来までさかのぼる。
奈良の寺院には仏像をお湯で洗ったり、僧が入るための「温室」(写真は京都)があった。やがて庶民への「施浴(せよく)」を行う宗教的な大湯屋へ。これが世俗化して平安末期以降、湯屋が京の町に登場するようになるが、いっぽう13世紀以降の禅宗寺院では「浴堂(よくどう)」が伽藍配置の重要な一角を占めるようになった。
古くは奈良・東大寺の大湯屋にある風呂屋形(蒸し風呂)、京都では東福寺の浴室、西本願寺飛運閣の黄鶴台浴室など、いずれもそこには唐破風を見ることができる。
かつて入浴は宗教的行為であった。その初心を日本人はいまだ引きずっているのか、銭湯研究家の間では「銭湯の唐破風は、寺院浴堂のパロディだった」などといわれているそうである…今京都。
このエントリーの情報
今京都 七歩之才 2008/06/05 12:06 am
しちほのさい…文才があるということ。詩や文章などを素早くつくることができること。
◇ちょっと予備知識 → 魏の曹植が兄に詩の才能をねたまれ、7歩歩く間に詩をつくらなければ死罪にすると
命じられ、その場ですばらしい詩をつくって兄をいさめたという故事から。
類義語に七歩成詩(しちほせいし)・七歩八叉(しちほはっさ)・八斗之才(はっとのさい)
がある。
銭湯物語(20)
前回の掲載は2007年5月15日だったから実に1年以上ぶりの銭湯物語。今回はちょっと逸話も交えての紹介。
時代はさかのぼって戦乱の世。東西両陣に分かれて10年もの戦いが続き、京の都をいちめんの焼け野原にしてしまった応仁の乱(1467〜1477)。
ところがその死闘の最中、日暮れて戦を中断すれば町風呂・町湯に出かけ、ひと汗流していたという。「合戦の休業日」には皆こぞって銭湯へ行き、敵味方がお風呂で出くわすこともしばしば。敵も味方も一緒になって談笑したなどと聞くと、昼間の殺し合いはいったい何と言いたくなる。
現代の戦争でもキリスト教国には「クリスマス休戦」なるものがあり、それなら最初から戦わなければいいのにと思っていたが、それをはるかにしのぐバスタイム休戦である。
京に町風呂・町湯が目立って増えたのは、南北朝の戦いから応仁の乱前後のことらしい。銭湯の営業開始を告げる「ほら貝」や「角笛」で町のあちこちで鳴り響いていた。当時の銭湯はいわば流行りで、庶民だけでなく、公家たちも通った。
お公家さんのためには「止湯(とめゆ)」や「合沐(ごうもく)」という貸し切りの入浴制度があって、きょうは「一条の風呂」「正親町(おおぎまち)の風呂」と神事の沐浴に用いたのだそうだ。
ところで、京の町風呂・町湯といわれるように、昔は「風呂」と「湯」が異なるものであった。
「風呂」とは蒸し風呂で、いまでいうサウナ。熱風で身体を蒸し、発汗させたのち、室外に備えた湯で身体を洗う。壬申の乱以来の歴史をもつ「八瀬のかま風呂」で知られるように、こちらは歴史が古い。
そしてもう一方の「湯」が、湯ぶねをもつ現在に近いかたちで、釜で沸かした湯を湯ぶねに引いたり、汲み入れたりした。しかし、大きな湯ぶねになみなみと湯を張るなどとは、昔は容易にできることはなかったと思う。
ひとくちに風呂といっても、このように二種類が混在していた。そういえば、現在でも京の銭湯は「湯」という看板はあげているが、「風呂」とはどこにも書かれていない。しっかりと呼称の伝統を受け継いでいる。
ちなみに江戸時代の秀でたタウンガイド「京羽二重」より「風呂屋」情報を調べてみると、掲載は洛中18軒。うち「丁字(ちょうじ)風呂」2軒、「釜風呂」4軒、「塩風呂」3軒などとなっている。どうも塩風呂が気になる…今京都。
◇ちょっと予備知識 → 魏の曹植が兄に詩の才能をねたまれ、7歩歩く間に詩をつくらなければ死罪にすると
命じられ、その場ですばらしい詩をつくって兄をいさめたという故事から。
類義語に七歩成詩(しちほせいし)・七歩八叉(しちほはっさ)・八斗之才(はっとのさい)
がある。
銭湯物語(20)
前回の掲載は2007年5月15日だったから実に1年以上ぶりの銭湯物語。今回はちょっと逸話も交えての紹介。
時代はさかのぼって戦乱の世。東西両陣に分かれて10年もの戦いが続き、京の都をいちめんの焼け野原にしてしまった応仁の乱(1467〜1477)。
ところがその死闘の最中、日暮れて戦を中断すれば町風呂・町湯に出かけ、ひと汗流していたという。「合戦の休業日」には皆こぞって銭湯へ行き、敵味方がお風呂で出くわすこともしばしば。敵も味方も一緒になって談笑したなどと聞くと、昼間の殺し合いはいったい何と言いたくなる。
現代の戦争でもキリスト教国には「クリスマス休戦」なるものがあり、それなら最初から戦わなければいいのにと思っていたが、それをはるかにしのぐバスタイム休戦である。
京に町風呂・町湯が目立って増えたのは、南北朝の戦いから応仁の乱前後のことらしい。銭湯の営業開始を告げる「ほら貝」や「角笛」で町のあちこちで鳴り響いていた。当時の銭湯はいわば流行りで、庶民だけでなく、公家たちも通った。
お公家さんのためには「止湯(とめゆ)」や「合沐(ごうもく)」という貸し切りの入浴制度があって、きょうは「一条の風呂」「正親町(おおぎまち)の風呂」と神事の沐浴に用いたのだそうだ。
ところで、京の町風呂・町湯といわれるように、昔は「風呂」と「湯」が異なるものであった。
「風呂」とは蒸し風呂で、いまでいうサウナ。熱風で身体を蒸し、発汗させたのち、室外に備えた湯で身体を洗う。壬申の乱以来の歴史をもつ「八瀬のかま風呂」で知られるように、こちらは歴史が古い。
そしてもう一方の「湯」が、湯ぶねをもつ現在に近いかたちで、釜で沸かした湯を湯ぶねに引いたり、汲み入れたりした。しかし、大きな湯ぶねになみなみと湯を張るなどとは、昔は容易にできることはなかったと思う。
ひとくちに風呂といっても、このように二種類が混在していた。そういえば、現在でも京の銭湯は「湯」という看板はあげているが、「風呂」とはどこにも書かれていない。しっかりと呼称の伝統を受け継いでいる。
ちなみに江戸時代の秀でたタウンガイド「京羽二重」より「風呂屋」情報を調べてみると、掲載は洛中18軒。うち「丁字(ちょうじ)風呂」2軒、「釜風呂」4軒、「塩風呂」3軒などとなっている。どうも塩風呂が気になる…今京都。