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rrbのブログ - 2009/08のエントリ

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今京都 こめんじゃこ 2009/08/13 12:00 am

めんじゃこ
「この池にコメンジャコがいっぱいいるわ」 メダカのことをいう。メダカは目が体のわりに大きい。「雑魚」に「目」を付けて「目雑魚」とし、接頭語「コ」をつけた。コマンジャコ・ゴメンジャコとも呼ぶ。ウスキ・ウキンタ・オキンタともいうのは、メダカが群れをなして水面に「浮く」さまから名付けた。雑魚や小さい子どものことをも指す。「コマンジャコのくせして生意気な」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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西陣五水/染殿井(そめどののい) (旧フォトヴィレッジ 2007年8月13日掲載)
染織の美と技を受け継ぐ西陣。昔ながらの姿をとどめる地域に五つの井戸「西陣五水」が伝わる。いずれも建造時期は不明だが、平安時代から応仁の乱までの名所旧跡を記した「中古京師内外地図」で井戸があった4ヶ所の寺院や邸宅が確認できる。京都市上京区上立売通智恵光院聖天町の真言宗雨宝院の境内には、五水の一つ「染殿井」が残る。今も水がわくこの井戸は「染め物がよく染まる」と西陣の職人たちが重宝したといわれる。





西陣聖天として知られる同院は、821(弘仁12)年に嵯峨天皇の病気平癒を祈願し、弘法大師が大聖歓喜天像を安置したのが始まりとされる。応仁の乱で堂塔が荒廃した後、雨宝院だけが現在の地に再興された。染殿井は「どんなに日照りが続いても枯れることなくこんこんとわく」と、代々地域で語り継がれた。現在は清めの手洗い用などに使うだけだが、以前は染め物業者さんが容器を手に訪れたこともあるという。西陣の地下水は本当に染色に適していたのかというと、染色には鉄分の少ない水でないとあでやかな色が出ないらしい。洛中の水は軟水で染め物に向いているという。





江戸末期の創業以来、自家用の井戸水を使っている染工場もある。手作業による糸の精練技術を守り続ける工場によると、「精錬は染めより硬度成分の影響を受けやすい。けど何より大量の水を使う染色業には豊富な水量は一番の恵み」ということだ。雨宝院の南に隣接する本隆寺の千代野井にも伝説がある。同寺によると1730(享保15)年の大火の時。異様な容姿の女性がどこからか現れ、本堂前の千代野井の水で防火したため同寺は災いを免れたという。



五水は西陣地区の智恵光院通を軸に南北400mほどの間に並ぶ。安居井(あぐい)と鹿子(かのこ)井は一般公開されていない。首途(かどで)八幡宮の社務所内にあったとされる桜井は、本隆寺南側の桜井公園に模造されている。京都三名水のような知名度はないが、西陣の歴史や生活文化、産業をはぐくんだ水の貴重なシンボルには違いない…今京都。


 

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今京都 じょろくむ 2009/08/11 12:00 am

ょろくむ
あぐらをかく。「このごろは、おなごはん(女性)かて、ジョロクマはりますな」 ジョロは丈六居(じょうろくい)からという。丈六居は一丈六尺の仏像のことであぐらの座像。江戸時代の京ことばを記した安原貞室の『片言(かたこと)』には「安坐し給へといふことを、じょうらくかきたまへていふこと葉は、仏の丈六の像の膝をくみおはする様より出たるか」とある。あぐらは、ア(足)グラ(座、倉)の意味からであろう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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霊子育飴 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月23日掲載)
一粒、口に放り込む。徐々に溶け出すと、柔らかい甘みが口いっぱいに広がる。甘すぎず、ほのかに懐かしい味。先日の六道珍皇寺門前で400年余り前から売られている麦芽糖の飴、「幽霊子育飴」。



話は1599(慶長4)年にさかのぼる。夜な夜な若い女性が飴を買いに来る。不審に思った飴屋の主人が後をつけると、鳥辺山の墓地で姿を消す。翌日、寺の住職と一緒に墓地に向かうと、盛り土の中から赤子の声が。あわてて掘り返すと、女性の遺体の横で赤子が飴をしゃぶっていた。その赤子は8歳で僧となり母の菩提(ぼだい)を弔い、1666(寛文6)年3月15日、高名な僧として68歳で亡くなった、というもの。





飴を販売する「みなとや幽霊子育飴本舗」は、後継者難などから委託販売を続けていたが、2006年末に少し西の西福寺門前に移転したという。「幽霊」という看板に興味をそそられ買い求める人、お腹のお子に与えるためか、探して訪れる妊婦さんもいるという。お店では修学旅行生らにも話を聞かせ「お母さんを泣かしたらあかんよ」とクギをさして販売するとのこと。



子を思う母の愛情の偉大さを物語るお話。母が子を殺すような今の時代にこそ、大切にされるべきだと思う。平安時代以来の葬送の地、鳥辺山のふもとにあり、現世と冥界との境域とされた「六道の辻」。飴は滋養のある食べ物。墓の近くで、飴を与えて子育てした母親がいたのかもしれない。ある程度、史実に基づいた話ではないかとの推測もあり、同様の話は京都市内でも数カ所にあるという。いずれにしても、死が身近だった殺伐とした時代を思わせるが心に染み入る母の愛のお話。一口含んだ飴に劣らず、味わい深いお話…今京都。


 

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今京都 ぐじ 2009/08/09 12:00 am


甘鯛(あまだい)。「グジの焼いたん食べるか」 江戸時代には京都ではグジ、大阪ではアマダイまたはクズナと言った。「具慈」の字を当てる。京丹後市や伊根町ではクジという。甘鯛の骨は堅くて鋭い。「グジの骨、気(きー)つけや」「ネラミダイ(にらみ鯛)」というと、正月三か日に祝い膳に飾る大きい塩鯛。じっと見つめるだけで箸がつけられない鯛の意味。正月二十日に塩抜きにして餡かけとして食べた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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蔵物語(272)




 

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今京都 しょうびんな 2009/08/08 12:00 am

ょうびんな
「ちょっとショービンナものどすけど、食べておくれやす」 貧弱な、質素なの意。少分から。室町時代のことばを集めた『日葡辞書』には「ショーブン。小さな部分、または少量のもの」とある。『宇治拾遺物語』にも「その値少分をも取らせ給はずなりぬ」と出てくる。「お粗末ですが」の意味のほか、「式典に飾り花もないのは、ショービンナ(物足りない)ことどす」のようにも言う。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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道珍皇寺(ろくどうちんのうじ) (旧フォトヴィレッジ 2007年9月19・20日掲載)
「子子子子子子子子子子子子」と書いてなんと読む? 「ねこの子のこねこ、ししのこのこじじ」と即座に答えたとして、天性の頭のキレと博学ぶりが今に伝わるその人の名は小野篁(おののたかむら)。冒頭の出題は、平安時代初期の嵯峨天皇で「宇治拾遺集」巻三に出てくる。小野篁は遣唐副使に選ばれながら、唐に渡る船が気に入らないと言い争い、挙句は仮病を使って乗船拒否。果ては遣唐使の風刺までしたため嵯峨天皇の怒りを買い、隠岐に島流しにされることもあった。
わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟(古今集)
これは隠岐に流されるそのとき、難波津(なにわづ)で別れの心情を詠った有名な歌。彼はまた歌人としても天下に並ぶものはいないとされた。生まれも才能も非の打ち所が無い高潔な人物だが、ミステリアスな伝説に包まれている。



「昼間は朝廷に勤める参議、夜は冥界の閻魔庁へ勤める高官として、閻魔大王に仕えていた」という。昼間と夜で、あの世とこの世を自由に行き来して暮している。その冥界への入口が、葬送の地であった鳥辺野(とりべの)、珍皇寺(ちんのうじ)の裏にある井戸だという。井戸のそばに高野槇(こうやまき)が生えていて、その槇の枝を伝って、彼は井戸へ入っていくという。今もお盆には京の人々は六道さんへ精霊迎えに行く。「水向け」に使った高野槇を持って帰り井戸へ吊るしておくと、その井戸が冥界へ通じる道となり、精霊がその道を伝って帰ってくるといわれている。



では、あの世からこの世へ、毎日戻ってくるときの出口はどこかといえば、これが入口とは随分離れた西の葬送地、化野近くの嵯峨六道の辻。今は廃寺となっているが、かつてあった嵯峨野福生寺(さがのふくしょうじ)の井戸だということだ。京の人々は、入口の珍皇寺の道筋を「死の六道」といい、出口にあたる福生寺の道筋を「生の六道」と呼んでいる。福生寺は現存しないが、そばにある嵯峨釈迦堂(清涼寺)境内の薬師寺に祀られる小野篁像と地蔵菩薩像は、福生寺から移した遺仏であるという。また福生寺跡からは七基の井戸が発掘されている。



毎年お盆が来ると六道の辻には地獄絵や修羅や餓鬼や閻魔さんが堂々とよみがえり、幼い子どもたちも地獄絵の前で固唾をのんで絵解きに聞き入っている。子どもたちの神妙な顔を見ていると、あの世の存在をしらせたかった小野篁の満悦顔が目に浮かぶ。



平安前期、閻魔(えんま)大王の右腕だった朝廷の高官がいた。参議の小野篁(おののたかむら)はある夜、亡き母が地獄で苦しむ姿を夢に見る。心配になり霊感のままに東山の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)を訪れ、冥界(めいかい)に通じる井戸を見つけ、井戸に入って閻魔大王に会い、苦しむ母を極楽へ救い出す。以後、篁は日中は朝廷に仕え、夜は閻魔庁の冥官を務め裁判の弁護役となって罪人を救った。と「今昔物語集」などに伝えられる。



その「井戸」は京都市東山区の六道珍皇寺本堂裏に今もひっそりと残る。篁は遣隋使の小野妹子の子孫で、生没年が802〜852年と明確な歴史上の人物。皇太子の家庭教師も務めた学者で歌人、190cmの大柄な武人でもあった。遣唐副使に任ぜられた際、「もう唐から習うことはない」などと制度自体にも反対し、正使とも争って嵯峨上皇の怒りをかった気骨の人。篁は隠岐へ流刑となったが、小倉百人一首にある「わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船」は、このときに詠んだ歌。隠岐では地蔵像を彫って日々を過ごし2年後に帰京、参議となる。


(本堂裏の冥界の井戸)

なぜこの井戸が冥界の入り口とされたのか。当時、東山のふもとには庶民の風葬地・鳥辺野(とりべの)があり、この地は「六道の辻」と呼ばれ、生死の境だと信じられていた。篁は母の供養のため、寺の整備に私財を寄進し、同寺の中興開山としてまつられている。境内の閻魔堂には篁作とされる閻魔大王座像(平安前期)が篁立像(江戸期)と並んで安置されている。


(向かって左が閻魔堂の閻魔大王座像と向かって右が小野篁立像)

篁は何でもできるスーパーヒーローとして敬われ恐れられた。信仰心も厚く慈悲深かったから、冥官伝説が生まれたのでは…との推測もある。同寺は8月7日から4日間、お盆に先祖の霊をまつる「六道まいり」を営み、多くの参詣者でにぎわい、近年は京の魔界・霊界スポットの一つにも数えられる。



少し不気味な冥界の井戸は、普段は板戸の格子越しにしか見られないが、それでも一目見ようと訪れる観光客は後を絶たない…今京都。


 

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今京都 ほんま 2009/08/06 12:00 am

んま
本当。真実。「うそとちがうか、ホンマかいな」 本真(ほんま)から。意味を強めるために「本」に「真」を加えて本真とし、音訓順の重箱読みにした。つまりジュウを音で読み、ハコ(バコ)を訓で読むように、本真の本を音で、真を訓で読んだもの。副詞はホンマニで、江戸時代から使用した。「ホンマニどないしてくれるのや」 ホンマニの前後にモーを付けて「モーホンマニ」「ホンマニモー」と強調する。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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隆寺 (旧フォトヴィレッジ 2007年9月15日掲載)
京都市上京区の西陣の一角にある本隆寺。かつて大火に見舞われるも、本堂や祖師堂は難を免れたことから「不焼寺」の異名を持つ。創建時のままの姿を残す本堂の東には「夜泣き止めの松」が根を張っている。この松にも逸話がある。



本隆寺第五世・日諦(にったい)上人がまだ修行中の身だった1532年元日。本堂で経を黙読していた日諦は、乳児を抱いて涙を流す母親を境内に見つけた。その後、何度も姿を現した母親はある日、乳児の養育を日諦に依頼してその場を去ってしまった。日諦は預かった子どもを仏門に入れて弟子として育てた。だが、母親がいないためか子どもの夜泣きがひどかった。困った日諦は、経を唱えながら本堂脇の松の木を回ると、子どもは不思議と泣きやんで、すやすや眠りについたという。





この話を聞いた夜泣きに悩む母親たちは、その力にあやかろうと松の葉や皮を持ち帰っては子どもの枕元に敷いた。すると、ぴたりと夜泣きが治った。たちまち町の評判になり、「夜泣き止めの松」と呼ばれるようになったという。奇妙ないきさつで日諦が預かった子どもは後に七世・日脩(にっしゅう)上人となって寺の繁栄に尽くしたとされる。だが、松の言い伝えと日脩を結びつける資料はないという。



寺の歴史を記した「法華宗真門年表」には、日脩は1524年に生まれ、34年後に第七世になったと記されている。ただ、生い立ちや母親などの記録はない。かつて多くの母親が貧しく子に十分な乳を与えてやれなかった。そんな時代背景を反映しているのかもしれない。



現在、寺に残る松は高さ約6m、幹回り約70cmとそれほど大きくはなく、三代目とも言われている。多くの人が葉や樹皮を持ち帰ったため、一・二代目は枯死してしまったのかもしれない。夜泣きが治るのかその効き目は不明だ。ただ、約15年前、本多執事長の所に「子どもの夜泣きが治った」とわざわざ礼に来た若い女性が一人だけいたという。





本隆寺の千代野井にも伝説がある。同寺によると1730(享保15)年の大火の時。異様な容姿の女性がどこからか現れ、本堂前の千代野井の水で防火したため同寺は災いを免れたという。数々の不思議伝説があるここは京都市上京区の西陣の一角にある本隆寺…今京都。


 

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