rrbのブログ - 2008/09/06のエントリ
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今京都 一視同仁 2008/09/06 12:00 am
いっしどうじん…だれかれの区別なく、平等に遇すること。すべての人を分け隔てなく慈しみ、差別しないこと。
◇ちょっと予備知識 → 「仁」とは思いやりや慈しみの心。「同仁」を「同人」と書くのは誤り。
類義語に怨親平等(おんしんびょうどう)・公平無私(こうへいむし)がある。
対義語は依怙贔屓(えこひいき)。
納豆
「京都人は納豆を食べない」といわれているが実はそうではない。昔から納豆をよく食べてきたという。かつては農家で納豆を作っていたそうだ。都の隠れ里ともいえる京都市北部の京北の常照皇寺には南北朝以来の「天皇さまの納豆」作りが伝わっているという。ここは東北と並んで、糸引き納豆の二大起源地のひとつとされている。
糸引き納豆の起源は、実は今でも定かではないという。ひとつは後三年の役(1083〜1087)に東北で戦った八幡太郎義家の軍勢が、藁に包んだ煮豆から偶然に発見したとする「東国納豆説」。将軍に納めたので「納豆」ともいわれている。
しかし、これには異説もある。当時、京の都ではすでに糸引き納豆があり、八幡太朗義家がそれを東北各地に伝えたのではないかというものだ。
かたや常照皇寺に伝わる「天皇さまの納豆」は、南北朝の政争で出家した北朝初代の光厳天皇(1331〜1333)をなぐさめるため村人が献上した藁づと豆が発酵し、天皇に喜ばれたとする説。以来、寺を中心に村人たちの納豆作りがはじまった。
室町時代には、京の都で納豆は「おいと」と呼ばれて、庶民の食べ物になっていた。糸を引くから「おいと」。女房ことばに真似た呼称だ。比叡山延暦寺のふもとの町である坂本には、秀吉の時代以来の歴史をもつ「大文字納豆」という納豆販売所の看板が今も伝わる。
かつての京都は、納豆文化の中心にあったのだろうか? 確かに京の中心部では、納豆をあまり食べないように思う。知っている範囲でも納豆嫌いの京都人は多い。しかしそれは今日にいたる京の長い歴史の、最終部分を見ているだけかもしれない。
京都には「大徳寺納豆」や「一休寺納豆」という禅寺の名物納豆がある。このふたつは同じもので、「とんちの一休さん」として名高い大徳寺・一休禅師が室町時代、中国から帰った禅僧に習い、その製法を伝えたとされている。一休さんが晩年を過ごしたのが京田辺市にある一休寺で「一休寺納豆」はお寺とその周辺の家々に伝わる。こちらは糸引き納豆に対し、塩納豆とか寺納豆といわれるもの。同じ納豆の名でも製法は非なるもので、そのルーツは中国にある。
ただし、語源となれば、糸引き納豆も塩納豆も同じ「納豆」だからややこしい。一般には語源は、お寺の納所(なんじょ、なっしょなどと呼ぶ)で作られた豆だから「納豆」、納所に納めた豆だから「納豆」などといわれている。
しかし、それが塩納豆をさすのか、糸引き納豆をさすのかについては言及していない。藁に納めるから「納豆」、ムシロや農家の納屋に納めて作るから「納豆」、案外このあたりが「納豆」の語源かもしれないと思うというお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
【関連記事】
常照皇寺(納豆発祥伝説)vol.1 常照皇寺(納豆発祥伝説)vol.2
◇ちょっと予備知識 → 「仁」とは思いやりや慈しみの心。「同仁」を「同人」と書くのは誤り。
類義語に怨親平等(おんしんびょうどう)・公平無私(こうへいむし)がある。
対義語は依怙贔屓(えこひいき)。
納豆
「京都人は納豆を食べない」といわれているが実はそうではない。昔から納豆をよく食べてきたという。かつては農家で納豆を作っていたそうだ。都の隠れ里ともいえる京都市北部の京北の常照皇寺には南北朝以来の「天皇さまの納豆」作りが伝わっているという。ここは東北と並んで、糸引き納豆の二大起源地のひとつとされている。
糸引き納豆の起源は、実は今でも定かではないという。ひとつは後三年の役(1083〜1087)に東北で戦った八幡太郎義家の軍勢が、藁に包んだ煮豆から偶然に発見したとする「東国納豆説」。将軍に納めたので「納豆」ともいわれている。
しかし、これには異説もある。当時、京の都ではすでに糸引き納豆があり、八幡太朗義家がそれを東北各地に伝えたのではないかというものだ。
かたや常照皇寺に伝わる「天皇さまの納豆」は、南北朝の政争で出家した北朝初代の光厳天皇(1331〜1333)をなぐさめるため村人が献上した藁づと豆が発酵し、天皇に喜ばれたとする説。以来、寺を中心に村人たちの納豆作りがはじまった。
室町時代には、京の都で納豆は「おいと」と呼ばれて、庶民の食べ物になっていた。糸を引くから「おいと」。女房ことばに真似た呼称だ。比叡山延暦寺のふもとの町である坂本には、秀吉の時代以来の歴史をもつ「大文字納豆」という納豆販売所の看板が今も伝わる。
かつての京都は、納豆文化の中心にあったのだろうか? 確かに京の中心部では、納豆をあまり食べないように思う。知っている範囲でも納豆嫌いの京都人は多い。しかしそれは今日にいたる京の長い歴史の、最終部分を見ているだけかもしれない。
京都には「大徳寺納豆」や「一休寺納豆」という禅寺の名物納豆がある。このふたつは同じもので、「とんちの一休さん」として名高い大徳寺・一休禅師が室町時代、中国から帰った禅僧に習い、その製法を伝えたとされている。一休さんが晩年を過ごしたのが京田辺市にある一休寺で「一休寺納豆」はお寺とその周辺の家々に伝わる。こちらは糸引き納豆に対し、塩納豆とか寺納豆といわれるもの。同じ納豆の名でも製法は非なるもので、そのルーツは中国にある。
ただし、語源となれば、糸引き納豆も塩納豆も同じ「納豆」だからややこしい。一般には語源は、お寺の納所(なんじょ、なっしょなどと呼ぶ)で作られた豆だから「納豆」、納所に納めた豆だから「納豆」などといわれている。
しかし、それが塩納豆をさすのか、糸引き納豆をさすのかについては言及していない。藁に納めるから「納豆」、ムシロや農家の納屋に納めて作るから「納豆」、案外このあたりが「納豆」の語源かもしれないと思うというお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
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