rrbのブログ - 2008/09/03のエントリ
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今京都 善男善女 2008/09/03 12:00 am
ぜんなんぜんにょ…仏教を信仰する人々。また、寺参りなどをする人々。
◇ちょっと予備知識 → もとは仏教で、仏法に帰依した在家の善良な男女のこと。
現在は「老若男女」と同様、一般大衆の意味で使われることが多い。
類義語に善男信女(ぜんなんしんにょ)がある。
京の茶漬け
「いやぁ、まだよろしおすやん。お茶漬け一杯でも食べていっとくれやす」 落語の噺にもある「京の茶漬け」、このお話を皆さんはどのように理解しているだろうか。「そろそろ時間ですからお帰りください」という時に、京都人が使用することばだと解釈している方がいたら、それは大きな間違いである。誤解が誤解を生み、「ことば」がいつの間にか勝手に独り歩きしてしまっているといってもよいぐらいである。この「ことば」の正しい解釈は…。
京都のお家を訪問し、帰り際に「じゃぁ、このへんで失礼します」というと、家人から「いやぁ、まだよろしおすやん。お茶漬け一杯でも食べていっとくれやす」と、いわれるという話であるが、これは「私はあなたとまだお話をしていたい」という意味であり、「そう思うほど楽しい時間を過ごせてよかった」という親愛の情を表現した「ことば」なのである。
「失礼します」という「ことば」に対して、「そうですか」と答えるのが普通かもしれないが、それではあまりにも味気ないと感じる京都人。それに、簡単にそういってしまうと、いかにも早く帰って欲しいと願っているように受け取られるという気遣いをする京都人。そんなところからなんとか引きとめようとし、本当に「さようなら」をいうまで、しつこいまでのやりとりでコミュニケーションをはかり、より親密なお付き合いをしてきたのが京都人なのである。
有名なこの「お茶漬け一杯」というのは、会話のひとつの流れであり、せっかくの和やかな雰囲気を断ち切らないように余韻をもってお別れするためのものであり、お客様を不愉快な気持ちにさせずお帰りいただくための心あたたまる「ことば」である。
ところが、最近は誤解が誤解を生み、「そろそろ時間ですからお帰りください」というときに、京都人が使用する「ことば」だと解釈され、「ことば」がいつの間にか、勝手に独り歩きしてしまったのである。よほど無作法な人にはそういう意味で使うことが、もしかしたらあったのかもしれないが、実際にはそのような悪意を持って使われることは決してないというのが本来である。
それに「お茶漬けでも一杯」という相手には、もう既にお料理をお出ししているような大切なお客さまなのである。家人がそういって本当にお茶漬けを準備されていることもあり、そのお茶漬けをありがたくいただいて帰るのがお作法の場合もある。そのへんの判断を京都人はちゃんと心得ている。
心にもないことを平気でいう京都人の「いやらしさ」とか「いけずなところ」とか「二面性」だとか、悪いイメージだけが広まってしまっているが、この「ことば」は京都人の奥ゆかしさの代名詞だといえる。
転居通知に、「お近くにお越しの節には是非一度お立ち寄りくださいますよう、お待ちいたしております」と記されているが、いくらこのように書かれていても、そんなに親しくもない人のお家を、近所に来たからといって訪問することはない。社交辞令的なものが、いけないというのではない。京都人の「いやぁ、まだよろしおすやん。お茶漬け一杯でも食べていっとくれやす」は、社交辞令ではなく、本意なのである。相手によって使う使わないをしっかりと区別しているという京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
◇ちょっと予備知識 → もとは仏教で、仏法に帰依した在家の善良な男女のこと。
現在は「老若男女」と同様、一般大衆の意味で使われることが多い。
類義語に善男信女(ぜんなんしんにょ)がある。
京の茶漬け
「いやぁ、まだよろしおすやん。お茶漬け一杯でも食べていっとくれやす」 落語の噺にもある「京の茶漬け」、このお話を皆さんはどのように理解しているだろうか。「そろそろ時間ですからお帰りください」という時に、京都人が使用することばだと解釈している方がいたら、それは大きな間違いである。誤解が誤解を生み、「ことば」がいつの間にか勝手に独り歩きしてしまっているといってもよいぐらいである。この「ことば」の正しい解釈は…。
京都のお家を訪問し、帰り際に「じゃぁ、このへんで失礼します」というと、家人から「いやぁ、まだよろしおすやん。お茶漬け一杯でも食べていっとくれやす」と、いわれるという話であるが、これは「私はあなたとまだお話をしていたい」という意味であり、「そう思うほど楽しい時間を過ごせてよかった」という親愛の情を表現した「ことば」なのである。
「失礼します」という「ことば」に対して、「そうですか」と答えるのが普通かもしれないが、それではあまりにも味気ないと感じる京都人。それに、簡単にそういってしまうと、いかにも早く帰って欲しいと願っているように受け取られるという気遣いをする京都人。そんなところからなんとか引きとめようとし、本当に「さようなら」をいうまで、しつこいまでのやりとりでコミュニケーションをはかり、より親密なお付き合いをしてきたのが京都人なのである。
有名なこの「お茶漬け一杯」というのは、会話のひとつの流れであり、せっかくの和やかな雰囲気を断ち切らないように余韻をもってお別れするためのものであり、お客様を不愉快な気持ちにさせずお帰りいただくための心あたたまる「ことば」である。
ところが、最近は誤解が誤解を生み、「そろそろ時間ですからお帰りください」というときに、京都人が使用する「ことば」だと解釈され、「ことば」がいつの間にか、勝手に独り歩きしてしまったのである。よほど無作法な人にはそういう意味で使うことが、もしかしたらあったのかもしれないが、実際にはそのような悪意を持って使われることは決してないというのが本来である。
それに「お茶漬けでも一杯」という相手には、もう既にお料理をお出ししているような大切なお客さまなのである。家人がそういって本当にお茶漬けを準備されていることもあり、そのお茶漬けをありがたくいただいて帰るのがお作法の場合もある。そのへんの判断を京都人はちゃんと心得ている。
心にもないことを平気でいう京都人の「いやらしさ」とか「いけずなところ」とか「二面性」だとか、悪いイメージだけが広まってしまっているが、この「ことば」は京都人の奥ゆかしさの代名詞だといえる。
転居通知に、「お近くにお越しの節には是非一度お立ち寄りくださいますよう、お待ちいたしております」と記されているが、いくらこのように書かれていても、そんなに親しくもない人のお家を、近所に来たからといって訪問することはない。社交辞令的なものが、いけないというのではない。京都人の「いやぁ、まだよろしおすやん。お茶漬け一杯でも食べていっとくれやす」は、社交辞令ではなく、本意なのである。相手によって使う使わないをしっかりと区別しているという京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。