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今京都 一気呵成 2008/08/08 12:04 am
いっきかせい…物事を中断せず一度に仕上げること。特に、一息に文章を書きあげること。
◇ちょっと予備知識 → 「一気」とは、一息、一呼吸の意。「呵成」を「あせい」と読むのは誤り。
「呵成」と書くのも誤り。
類義語に一瀉千里(いっしゃせんり)がある。
和紙
意外なことなんだけれど、京都は日本で最初に紙が作られた場所である。中国の製紙方法が西洋に伝わるより前から、戸籍や写経に使用されていたというから驚きである。
近代では、京都は産地としてではなく、加工の技で高名になった。理由は、昔は菓子店の周辺に必ず「箱屋さん」があり、美しい千代紙を貼った「貼箱」の技術が特に発達したというところにある。
和紙と聞いてまず思いつくのは障子やふすまなどの建具類だが、西洋風の暮らしの中では目にする機会も減りつつある。最近では若い人や外国人など、あまり和紙になじみのない人たちがおしゃれな装飾用品として購入することが増えたという。
中でも型染めの手法を用いた和紙は、昭和初期の小紋柄として、流行のレトロ・モダンと大評判。良いものは時代を経ても古びないもの。ほかに沖縄の古代柄なども人気だという。
「これも和紙なの?」と驚いてしまうのがタイ製の紙。紙の目がざっくりして、どことなくユーモラスな、野趣あふれる風合い。
国産のものでは、薄い和紙の間に押し花感覚で葉や茎を封じ込んだものや、友禅の型絵染めの技法を用いて顔料で染め抜いたものなどが個性的である。
こんな珍しい和紙を暮らしのちょっとした場面で使えばセンスがアピールできかもという京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
◇ちょっと予備知識 → 「一気」とは、一息、一呼吸の意。「呵成」を「あせい」と読むのは誤り。
「呵成」と書くのも誤り。
類義語に一瀉千里(いっしゃせんり)がある。
和紙
意外なことなんだけれど、京都は日本で最初に紙が作られた場所である。中国の製紙方法が西洋に伝わるより前から、戸籍や写経に使用されていたというから驚きである。
近代では、京都は産地としてではなく、加工の技で高名になった。理由は、昔は菓子店の周辺に必ず「箱屋さん」があり、美しい千代紙を貼った「貼箱」の技術が特に発達したというところにある。
和紙と聞いてまず思いつくのは障子やふすまなどの建具類だが、西洋風の暮らしの中では目にする機会も減りつつある。最近では若い人や外国人など、あまり和紙になじみのない人たちがおしゃれな装飾用品として購入することが増えたという。
中でも型染めの手法を用いた和紙は、昭和初期の小紋柄として、流行のレトロ・モダンと大評判。良いものは時代を経ても古びないもの。ほかに沖縄の古代柄なども人気だという。
「これも和紙なの?」と驚いてしまうのがタイ製の紙。紙の目がざっくりして、どことなくユーモラスな、野趣あふれる風合い。
国産のものでは、薄い和紙の間に押し花感覚で葉や茎を封じ込んだものや、友禅の型絵染めの技法を用いて顔料で染め抜いたものなどが個性的である。
こんな珍しい和紙を暮らしのちょっとした場面で使えばセンスがアピールできかもという京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
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今京都 談論風発 2008/08/07 12:06 am
だんろんふうはつ…議論や討論が活発に行われること。
◇ちょっと予備知識 → 「談論」は談話と議論のこと。「風発」は風が吹き起こるように、勢いが激しいこと。
類義語に議論百出(ぎろんひゃくしゅつ)・百家争鳴(ひゃっかそうめい)がある。
祇園祭・その後
先月の7月に開催された祇園祭。それが日本を代表する祭りであることは今更いうまでもない。祇園祭といえば、今では動く文化財とか動く芸術品とかいわれ、何かしら観光ショー化してしまった部分もある。
もともと、平安京建都後、京の都に大流行した疫病を追い払うために、町衆が寄り集まって知恵を出し合い、自分たちのために自分たちの力で作り上げた祭り(神事)である。
それから千有余年。今なお、この祇園祭に携わっている町衆の心意気というものが感じられ、そこに、この祭りを現代まで受け継ぐことができた大きな要因がある。
まだ、京都にチンチン電車が走っていた頃、山鉾巡行のために、わざわざその電車の架線を取り払って鉾を動かしたということがあったという。大変な作業であるが京都にとってはそれが当たり前だという。
近年は地下鉄工事のため、御池通は巡行できないほどの工事関係物が。しかし、前日まで路上にあった全てのものを取り除き、無事、山鉾を通した。
このような内容から考えると、京都人間は内向的だとかバイタリティーがないなどとよく批判されるが、この祇園祭をみると京都人の心に秘めたエネルギーやパワーを認識することができる。
山鉾巡行の順番を決めるために、毎年京都市の市議会議場に紋付姿の鉾町の代表が集まり、くじ取り式が行われる。そして、巡行当日、京都市長が当時の装束に身をかため、そのくじを改める大役、奉行の役を演じる。
これがまさに京都、千年の都なのである。
祗園祭ほど長い期間にわたって無駄の限りをつくした祭りはないといわれているが、その無駄の中から、人々のふれあいを、心のゆとりを生んできた。一見無駄に見えるものを無駄にしないところに京都人の心があり、それがまた誇りでもあるという。山鉾を見上げてただ見とれるだけでなく、山鉾に向かって手を合わせる京都人がいる限り、また、陰でこの祭りを支える女性が存在する限り、この祇園祭を後世に確実に伝承していくことができるという京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
◇ちょっと予備知識 → 「談論」は談話と議論のこと。「風発」は風が吹き起こるように、勢いが激しいこと。
類義語に議論百出(ぎろんひゃくしゅつ)・百家争鳴(ひゃっかそうめい)がある。
祇園祭・その後
先月の7月に開催された祇園祭。それが日本を代表する祭りであることは今更いうまでもない。祇園祭といえば、今では動く文化財とか動く芸術品とかいわれ、何かしら観光ショー化してしまった部分もある。
もともと、平安京建都後、京の都に大流行した疫病を追い払うために、町衆が寄り集まって知恵を出し合い、自分たちのために自分たちの力で作り上げた祭り(神事)である。
それから千有余年。今なお、この祇園祭に携わっている町衆の心意気というものが感じられ、そこに、この祭りを現代まで受け継ぐことができた大きな要因がある。
まだ、京都にチンチン電車が走っていた頃、山鉾巡行のために、わざわざその電車の架線を取り払って鉾を動かしたということがあったという。大変な作業であるが京都にとってはそれが当たり前だという。
近年は地下鉄工事のため、御池通は巡行できないほどの工事関係物が。しかし、前日まで路上にあった全てのものを取り除き、無事、山鉾を通した。
このような内容から考えると、京都人間は内向的だとかバイタリティーがないなどとよく批判されるが、この祇園祭をみると京都人の心に秘めたエネルギーやパワーを認識することができる。
山鉾巡行の順番を決めるために、毎年京都市の市議会議場に紋付姿の鉾町の代表が集まり、くじ取り式が行われる。そして、巡行当日、京都市長が当時の装束に身をかため、そのくじを改める大役、奉行の役を演じる。
これがまさに京都、千年の都なのである。
祗園祭ほど長い期間にわたって無駄の限りをつくした祭りはないといわれているが、その無駄の中から、人々のふれあいを、心のゆとりを生んできた。一見無駄に見えるものを無駄にしないところに京都人の心があり、それがまた誇りでもあるという。山鉾を見上げてただ見とれるだけでなく、山鉾に向かって手を合わせる京都人がいる限り、また、陰でこの祭りを支える女性が存在する限り、この祇園祭を後世に確実に伝承していくことができるという京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
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今京都 虎視眈眈 2008/08/06 2:31 am
こしたんたん…すきをうかがい、じっと機会を狙っているさま。油断なく辺りの様子をうかがっているさま。
◇ちょっと予備知識 → 「虎視」は虎のような鋭い目つき。「眈眈」はにらむ、見下ろすの意。
矢取地蔵(やとりじぞう)
地元の人々が絶えることなく手を合わせに来る。地蔵堂の「矢取地蔵」には花が手向けられ、清掃も行き届いている。大切に守られてきた様子が伝わる。
お話は1200年近くさかのぼった平安時代初期のこと。嵯峨天皇の命で造営された東寺と西寺は、その勢力を競っていた。東寺には今に続く真言宗の開祖・空海がおり、一方の西寺には守敏(しゅびん)という僧がいた。
824(天長元)年、日照り続きで人々は飢えと渇きに苦しんでいた。淳和天皇は空海と守敏に神泉苑で雨ごいを命じる。先に守敏が祈念したが、雨は降らない。対して、空海が願をかけると三日三晩にわたって雨が続いたという。「雨ごい合戦」は空海に軍配が上がった。
しかし、守敏は腹の虫が治まらない。ついに空海を羅城門近くで待ち伏せて矢を放つ。その時、黒衣の僧が現れて身代わりに矢を受け、空海は難を逃れた。黒衣の僧は実はお地蔵さまの化身であり、後にそのお地蔵さまは「矢取地蔵」とか「矢負(やおい)地蔵」と呼ばれ、信仰を集めてきたという。
現在の地蔵堂は明治時代に地元住民が寄進した。中央に鎮座する仏像が矢取地蔵尊。優しい顔で民衆を見守っている。空海は誰もが知る圧倒的な存在。その空海を守ったのだから、このお地蔵さんはすごい。反対に守敏は悪役すぎて少しかわいそうという意見もある。
地蔵堂の東側には、大小たくさんのお地蔵さんが安置されている。昭和時代初期、九条通を拡幅する工事中に、地中から出てきたという。
その昔、この辺りは刑場があったようで、お地蔵さんは打ち首になった人の供養塔だという話しもある。
理由はどうであれ、お地蔵さんは世間一般では子どもの守り本尊。大事にしたいものだ。
矢取地蔵の地蔵堂は京都市南区唐橋羅城門町(九条通千本東入ル)。市バス停留所「羅城門」から徒歩2分。地蔵堂の北側の花園児童公園には、平安京の羅城門跡を記す石碑がある。矢取地蔵が身をていして守った空海ゆかりの東寺へは徒歩約10分…今京都。
◇ちょっと予備知識 → 「虎視」は虎のような鋭い目つき。「眈眈」はにらむ、見下ろすの意。
矢取地蔵(やとりじぞう)
地元の人々が絶えることなく手を合わせに来る。地蔵堂の「矢取地蔵」には花が手向けられ、清掃も行き届いている。大切に守られてきた様子が伝わる。
お話は1200年近くさかのぼった平安時代初期のこと。嵯峨天皇の命で造営された東寺と西寺は、その勢力を競っていた。東寺には今に続く真言宗の開祖・空海がおり、一方の西寺には守敏(しゅびん)という僧がいた。
824(天長元)年、日照り続きで人々は飢えと渇きに苦しんでいた。淳和天皇は空海と守敏に神泉苑で雨ごいを命じる。先に守敏が祈念したが、雨は降らない。対して、空海が願をかけると三日三晩にわたって雨が続いたという。「雨ごい合戦」は空海に軍配が上がった。
しかし、守敏は腹の虫が治まらない。ついに空海を羅城門近くで待ち伏せて矢を放つ。その時、黒衣の僧が現れて身代わりに矢を受け、空海は難を逃れた。黒衣の僧は実はお地蔵さまの化身であり、後にそのお地蔵さまは「矢取地蔵」とか「矢負(やおい)地蔵」と呼ばれ、信仰を集めてきたという。
現在の地蔵堂は明治時代に地元住民が寄進した。中央に鎮座する仏像が矢取地蔵尊。優しい顔で民衆を見守っている。空海は誰もが知る圧倒的な存在。その空海を守ったのだから、このお地蔵さんはすごい。反対に守敏は悪役すぎて少しかわいそうという意見もある。
地蔵堂の東側には、大小たくさんのお地蔵さんが安置されている。昭和時代初期、九条通を拡幅する工事中に、地中から出てきたという。
その昔、この辺りは刑場があったようで、お地蔵さんは打ち首になった人の供養塔だという話しもある。
理由はどうであれ、お地蔵さんは世間一般では子どもの守り本尊。大事にしたいものだ。
矢取地蔵の地蔵堂は京都市南区唐橋羅城門町(九条通千本東入ル)。市バス停留所「羅城門」から徒歩2分。地蔵堂の北側の花園児童公園には、平安京の羅城門跡を記す石碑がある。矢取地蔵が身をていして守った空海ゆかりの東寺へは徒歩約10分…今京都。
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今京都 戦戦兢兢 2008/08/05 12:06 am
せんせんきょうきょう…何か悪いことが起きるのではないかと、びくびくすること。悪い予感におびえているさま。
◇ちょっと予備知識 → 「兢兢」は、緊張してはらはらしていること。
「恐恐」とも書くが、字形の似た「競競」と書くのは誤り。
類義語に戦戦慄慄(せんせんりつりつ)・小心翼翼(しょうしんよくよく)がある。
中原中也の下宿
17歳。「在りし日の歌」の早熟の詩人は、詩集を抱え、京都の道をさまよい歩いた。中原中也(1907〜1937)は大正時代の京都で青春の日々を過ごし、若い女優と恋をした。
中原中也は1923(大正12)年、立命館中学に編入。3歳年上の女優長谷川泰子と一緒に、2年間を京都で過ごした。丸太町橋のそばの古書店で、詩集「ダダイスト新吉の詩」に出会った。
少年は京都時代、下宿を転々としている。北区小山、左京区聖護院。右京区大将軍の椿寺の裏。2年間で6度も転居を繰り返し、最後の下宿が、上京区河原町通今出川近くに現存しているという。
僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り注ぎ、風は花々揺っていた。(中略)棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、風信機の上の空の上の色、時々見るのが仕事であった。(「ゆきてかへらぬ」から)
風信機は、風見鶏のこと。戦後もこの最後の家から、向かいの虫籠窓の家の向こうに竹ざおの風見鶏が見えたという。しかし、2階が増築されて隠れてしまう。中也の詩にあるのはその風見鶏のことだという。
17歳の中原中也はここで、女優と同棲生活を送った。中也が友人への転居届で「スペイン風掃き出し窓」と自慢してみせた窓は、2階東側の小窓ではないか、といわれている。中也ファンが時折、写真撮影に訪れる。
さて、中也はなぜ下宿を転々としたのだろう。
大正13年の京都の古地図を見ると、上京区に河原町通の名はなく、寺町通が電車道で大通りになっている。今出川通も鴨川に橋がなく行き止まり。地図をみると中也の下宿先は電車の沿線だったことが分かるという。十代の少年の同棲に対する社会の目の厳しさや、経済的な事情もあったのかもしれない。
戦後も下宿が並び、丸太町通や今出川には古書店も多かったという。
このほど立ち上がったNPO法人(特定非営利活動法人)「京都中也倶楽部」によると、他の中也の下宿先はガレージになるなど姿を消した。街は大正時代と変わったが、詩人の京での面影を探る人の輪が、静かに広がっているという。女優と恋し、青春の日を過ごした家が存在している…今京都。
◇ちょっと予備知識 → 「兢兢」は、緊張してはらはらしていること。
「恐恐」とも書くが、字形の似た「競競」と書くのは誤り。
類義語に戦戦慄慄(せんせんりつりつ)・小心翼翼(しょうしんよくよく)がある。
中原中也の下宿
17歳。「在りし日の歌」の早熟の詩人は、詩集を抱え、京都の道をさまよい歩いた。中原中也(1907〜1937)は大正時代の京都で青春の日々を過ごし、若い女優と恋をした。
中原中也は1923(大正12)年、立命館中学に編入。3歳年上の女優長谷川泰子と一緒に、2年間を京都で過ごした。丸太町橋のそばの古書店で、詩集「ダダイスト新吉の詩」に出会った。
少年は京都時代、下宿を転々としている。北区小山、左京区聖護院。右京区大将軍の椿寺の裏。2年間で6度も転居を繰り返し、最後の下宿が、上京区河原町通今出川近くに現存しているという。
僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り注ぎ、風は花々揺っていた。(中略)棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、風信機の上の空の上の色、時々見るのが仕事であった。(「ゆきてかへらぬ」から)
風信機は、風見鶏のこと。戦後もこの最後の家から、向かいの虫籠窓の家の向こうに竹ざおの風見鶏が見えたという。しかし、2階が増築されて隠れてしまう。中也の詩にあるのはその風見鶏のことだという。
17歳の中原中也はここで、女優と同棲生活を送った。中也が友人への転居届で「スペイン風掃き出し窓」と自慢してみせた窓は、2階東側の小窓ではないか、といわれている。中也ファンが時折、写真撮影に訪れる。
さて、中也はなぜ下宿を転々としたのだろう。
大正13年の京都の古地図を見ると、上京区に河原町通の名はなく、寺町通が電車道で大通りになっている。今出川通も鴨川に橋がなく行き止まり。地図をみると中也の下宿先は電車の沿線だったことが分かるという。十代の少年の同棲に対する社会の目の厳しさや、経済的な事情もあったのかもしれない。
戦後も下宿が並び、丸太町通や今出川には古書店も多かったという。
このほど立ち上がったNPO法人(特定非営利活動法人)「京都中也倶楽部」によると、他の中也の下宿先はガレージになるなど姿を消した。街は大正時代と変わったが、詩人の京での面影を探る人の輪が、静かに広がっているという。女優と恋し、青春の日を過ごした家が存在している…今京都。
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今京都 短慮軽率 2008/08/04 12:07 am
たんりょけいそつ…よく考えもせず、軽々しく行動すること。軽はずみで思慮が足りないこと。
◇ちょっと予備知識 → 「短慮」は浅はかな考え。「軽率」は軽はずみなこと。
「軽卒」と書くのは誤り。「軽率短慮」ともいう。
類義語に軽佻浮薄(けいちょうふはく)・直情径行(ちょくじょうけいこう)がある。
対義語は思慮分別(しりょぶんべつ)・深謀遠慮(しんぼうえんりょ)。
町並み
地蔵物語(190)
◇ちょっと予備知識 → 「短慮」は浅はかな考え。「軽率」は軽はずみなこと。
「軽卒」と書くのは誤り。「軽率短慮」ともいう。
類義語に軽佻浮薄(けいちょうふはく)・直情径行(ちょくじょうけいこう)がある。
対義語は思慮分別(しりょぶんべつ)・深謀遠慮(しんぼうえんりょ)。
町並み
地蔵物語(190)